音楽室
ヒラノ
夏の午後の日差しが強く射し込んでいる。
その陽は、良く育った常緑樹の葉を空かして、床を照らし出す。
人通りのない土地に立った棟のその一室は、
真っ白な光に一面を包み込まれ、軽快なピアノの音が鳴り響いていた。野兎が跳ね遊ぶような、自然と体が揺れてしまうような明るい曲調。
そして、鍵盤の上をすべる手の主も又、優しい表情をしていた。
誰も居ない、誰も来ない部屋で慌ただしく手を動かし、音楽を奏でる。
と、徐に“彼女”は立ち上がった。
演奏が止む。
ピアノを弾き終えた少女は、外からの日差しと同じくらいに色の白い腕を伸ばした。
そのままうんと伸びをすると、長い黒髪がさらりと揺れる。
そして、溜息。
退屈そうな表情で、辺りを見回した。
此処は古い音楽棟。
とある進学校の敷地の片隅に立っている、今は使われていない、忘れられた場所だ。
それでも毎日毎日、“彼女”だけが鍵を手に、随分と踏まれることを忘れた床を軋ませてやってくる。
一人の空間でピアノを弾くのは、もう日課だ。
練習をしているわけでもない。誰に聴かせるわけでもない。
誰にも届かない音色を響かせながら、“彼女”は待っている。
だって、退屈なのだ、此処はとても。
ピアノがあるし、教室の中をウロウロすれば勿論他の楽器も見つかるし、抽斗を開ければ様々な音楽雑誌が入っている。
つい先日は、まだ此処が授業をする場所として機能していた頃に使っていたのだろうプリントも見つかった。
でも。
それらは一時的に暇を紛らわせるだけで、“彼女”の人を求める心を癒してはくれない。
だから、待ち続けているのだ。
誰かがきっと自分の元へやってきてくれると信じて。
じりじりと部屋に染みこむ西日を浴びながら、僕は自分の運を呪っていた。
目の前には、皆一様に出した手が並んでいる。
何度も見ても同じなのに、しつこく視線を巡らせた。
僕の手以外が示しているのは、チョキ。僕だけが、パー。
じゃんけんだ。もう、いっそ気持ちいいくらいの一人負けである。
これは、罰ゲームのじゃんけんだった。
いや、正確には『罰ゲームを実行する者を決める』じゃんけん。
吹奏楽部内、その一部である女子二人、男子二人による
『誰が一番早くペットボトルのサイダーを飲み干せるか』という、今考えれば至極くだらない勝負が行われた。
炭酸があまり好きではない僕は断ろうかと思ったが、幼馴染のユウタが僕の分のサイダーも買ってきてくれたので、断るに断れなかった次第だ。
そして、自分はイチ抜けして気が済んだらしいユウタが「遅かった三人でじゃんけんをして、負けた奴が罰ゲームな」と言いだした。
そして、今に至る。
「よかったぁ、私昔からじゃんけんだけは強いんだよ」
と、罰ゲームを逃れて安心したらしい女子―――リサは、ユウタに笑いかけた。
彼女も僕の幼馴染。昔はユウタとリサと僕とで、よく近所を遊び回っていた仲だ。
今も、まぁ仲は悪くないと僕は思っている。リサの小さな背は昔からあまり変わらず、僕と同じ高校二年生なのに、中学生のようにも見えるほどだ。
そんなリサは、同じくじゃんけんをしたマナと笑い合った。
僕が一人負けたことによって、マナも罰ゲームは回避した。
「残念だったね、ヒロト。じゃんけん弱っちいなぁ」
僕らは全員、この学校の吹奏楽部だ。
ユウタはチューバ、リサはクラリネット、マナはフルート、僕はトランペットと、皆楽器のパートはバラバラだが、基本いつも一緒に居る。
今日は顧問が早く帰ってしまったので、楽器の片付けもそこそこに、ユウタが人数分買ってきたサイダーを前にこのような遊びに発展したのだった。
そして、先ほど述べたとおり、飲めなかったのは僕、罰ゲームをするのも僕。
「ヒロくん、じゃあ罰ゲームだよ!」
リサが僕に言った。僕はいっぺんに不安になる。こいつのことだからどんな無茶な罰ゲームを考えだすか解ったものじゃない。
「お前の考えるやつは怖い。マナが考えてよ」
僕はわざとマナに振った。隣でリサが「えぇー!」と駄々をこねている。
「そうだなぁ……じゃあ、校庭の隅っこの音楽棟の中見て来てよ」
「音楽棟?」
ぱっと思い浮かばなかった僕だが、話を聞くうちにだんだんと記憶が新しくなっていく。
新設のこの校舎の影に建っている、木造の古い音楽棟。
教師の目が完全に行き届かず危険だということで、今は立ち入ることを禁じられている。
マナは、その中を見て来いと言っているのだ。
「見つかったら怒られると思うけど」
僕は彼女に言う。怒られて目をつけられでもしたら面倒だ。
渋っている僕に、マナが言った。
「怒られたらごめんなさいで大丈夫だよ。こういう時ノリが悪いとカノジョに嫌われちゃうぞ」
そこにすかさずリサが口を挟む。
「何言ってんの。ヒロくんにカノジョなんていないよ」
そうして二人は顔を見合わせけらけらと笑う。お前ら。
女子たちに揶揄われやり場のない感情を持て余しながら困っていると、どんどん時間が過ぎていく。リサは未だに僕の話題を勝手に盛り上げて笑い転げているし、ユウタは退屈そうに欠伸をし始めたし、熱しやすく冷めやすい性格のマナはいつの間にか数学の教科書を広げている始末だ。
僕も内心、ノリの悪い人間になりたくはなかったので、飲み空けたペットボトルを持って早々に立ちあがった。
「わかったよ。行ってくるから」
「おっ、ヒロトおとこまえーっ」
ユウタが手を叩き、マナは、ペットボトル捨てて来てくれるの?と首を傾げる。
僕は頷いて、呑気に手を振っている仲間を残して本館音楽室を出た。
……….
騒がしい部室を後にして、校舎の外へ出る。
ゴミ捨て場も外なので、フラッと行って帰って来よう。
グラウンドに出ると、夕方の陽の中で、熱心な運動部員達が声をあげていた。
ホイッスルの音が鳴り響く。彼らも存分に青春を謳歌しているのだろう。
中庭に備え付けられているゴミ箱に、サイダーのペットボトルを捨てる。
ふと前を向くと、陰になっている音楽棟が見えた。
「よく考えたら面倒くさい罰ゲームだな……」
とひとり愚痴をこぼしてみる。なんだか虚しくなってきたので、
早いところ行って帰ろうと足を進めたその時、
「ん……?」
僕は思わず立ち止まった。
それに合わせて、生ぬるい風が木の葉をざわめかせる。暴れる髪に顔を顰めながら、聴き間違いだろうかと思った。
立ち入り禁止の古い音楽棟から、微かにピアノの音が聞こえたのだ。
まさかと思って近づいて行くと、音ははっきりと大きく耳に届くようになる。
「七不思議か何かかよ……」
誰も居ない筈の場所から物音がするなんて、怪談みたいじゃないか。
凛に揶揄われて腹を立てたものの、実を言うと怖がりな僕は、引き返そうかと思案する。皆には、中に入ってきたと言えば終わりだ。
しれっと言えば誰も疑わないだろう。
しかし、今度は別のことが気になる。
目の前の古ぼけた入り口から漏れ聞こえてくるこの音、この曲は何と言ったか。
初めて聞く曲でないのは解る。まるで野兎が駆け回る様な、リズミカルな旋律だ。
母親が、趣味で近所の子供たちの為にピアノ教室を開いているので、弾けないことはないし、大体の曲は聞いたことがある。
ふらり、と体が動いた。
扉に手を掛ける。ピアノの音は、間違いなく此処からだ。
いつの間にか、先ほどひっそりと感じた恐怖も、『立ち入り禁止』の張り紙に盛った少しの罪悪感も、好奇心で塗り替えられていた。
ピアノの音に導かれる儘に、僕は建物の中へと入った。
中に入ると、音が頭の上でくぐもって響いていた。僕と同じようにこうして忍び込んだ誰かが、上の階で弾いているのだろう。
ピアノが聞こえるということは、少なくとも人は居る。
用心して棟内を歩いて行く。
陽はすでに大きく傾いていて、オレンジ色と真っ白な色が入り混じり、窓からの光となって廊下に降り注いでいる。じきに暗くなるだろう。
四角く区切られた陽だまりの中に足を出してみると、上靴が柔らかく光った。
ピアノの音は相変わらず続いている。どうやら曲は変わったようだが、曲調は明るい儘だった。
一階をぐるりと一周した僕は、ゆっくりと階段を上り始めた。
長い間手入れを施されていない階段は、歩く度にぎしぎしと軋んで鳴った。
階段を上りきる際、足を滑らせ咄嗟に手すりを掴んでしまい、手のひらに埃が纏わりつく。
歩きながら、うわぁと顔を顰め、ズボンに手をこすりつけた時――
僕は、そこで見た光景に息を呑んだ。
白い陽に照らされ、膨らんだ明るい髪でそれを反射させている“彼女”がそこに居た。
陶器のように滑らかな手が、軽やかに鍵盤の上で踊っていた。
僕が立っているのに気付いているのかいないのか、両手は行ったり来たり。
と、やがて流石に視線を感じたのか、“彼女”が顔をあげた。
猫の瞳のようにぱっちりした目で、僕を見た。
何も言葉が発されない。長い沈黙が降りる。
おとなしい子みたいだし、性格のキツい子だったらどうしようかと迷っていると、永久に続くかと思う程だった沈黙はあっさりと破られた。
「君」
それは小さな声だった。
「へ?僕?」
驚いて間抜けな声が出る。言った事も間抜けだ。今ここには彼女と僕しか居ないのに。
「君しかいないでしょ?」
ほら、やっぱり。
静かに言葉を刺されてたじろいだ。
しかし彼女は、こう続けた。
「君、私のピアノを聴いて、ここに来てくれたの?」
僕はまじまじと彼女を見つめる。
先程よりも幾分か表情が柔らかく見えるのは気の所為だろうか。
心なしか嬉しそうにも見える。
「うん、そうだよ」
「私のピアノ、どこまで聞こえてた?」
「下の階。あと、外にも微かに。窓開けてる?」
「開けてるよ」
言葉に合わせたように、窓からさぁっと風が吹きこんでくる。
ピアノの音が聞こえていたと解った途端人が変わった様に物腰が和らいだことに内心戸惑っていると、
彼女はとんでもない言葉を放った。何の脈絡もなく、全てを無視して。
「ねぇ、せっかく此処に来てくれたんでしょ?私と友達になってほしいの」
「……はい?」
友達になってほしい。
もう何年も言われていなかったストレートで素直すぎる言葉だった。
今は小学生だってこんなに素直に言わないのではないか。
「え、ごめん。友達って、僕に?」
「他に誰がいるの?」
猫の目が、僕を友達にしようとねだる。
くふふっと可愛らしく笑って、彼女はもう一度言った。
「お願い、私と友達になって!」
また沈黙が降りた。
もうそろそろ耐え難いこの空気をなるべく長引かせないように、僕は足早に言葉を紡ぐ。
「なんで僕?ちょっと話飛びすぎじゃ……」
「私のピアノを聴いてここまで来てくれたのが嬉しかったからかな?」
「友達になることとピアノ関係あるの?」
「あるの!女の子のお願いなんだから聞いてよー、一生のお願い!」
「……ううん……、まぁ、いいけど。友達なろっか」
女子の気分の扱い方も解らず、段々訳の分からない方向でお願いしてくるので、僕はとうとう首を縦に振った。
それを見て、漸く彼女は満足そうにふんっと息を吐いた。
そして、
「ほんと!?ありがとう、じゃあ友達になってくれた君に自己紹介をするね!」
「……遅くない?」
「遅くない!……ええと、私、コトハって言います。高校一年生!」
ことは。
音を聴いて字が思い浮かばず首を傾げると、付け加えてくれた。
「お琴のことに、羽って書いて、コトハ」
「コトハ……」
僕が呟くと、呼ばれたと思ったのか彼女は「はーい」と言った。違うんだけど。
「名前に琴って入ってるくせに、弾いてるのはピアノなんだなとか思ってるでしょう」
「思ってないよ」
なんというか、コトハはボケ担当の人間なのだろうか。
まだ出会って、会話して、少ししか経っていないのに。
けれど、やっていることは同じといえど、吹奏楽部の仲間と話すのとはまた違った気分で、悪い気はしなかった。だから、僕も自己紹介をすることにする。
近くに余っていた椅子を適当に運んで来て座り、向かい合う。
「ええと、コトハ。」
「はい!」
「……うん。僕も自己紹介するよ。」
相変わらず返事を返してくる笑顔に向かって、僕は名乗った。
入学式は去年で、今年のクラス替えもとうに過ぎ去っているため、こんな変なタイミングですることになるとは思っても見なかったが。
「名前だけでいいよね?ええと、僕はヒロト」
「ひろと。ひろと……どんな字を書くの?」
覚えたての言葉を繰り返す幼児の様に、コトハは反芻した。
「大きいに翔ける」
「へぇー!」
僕の名を指で宙に書いているコトハだったが、不意に話題を変えてぶつけてきた。
「ねえ、どうして、此処に来たの?」
僕は首を傾げる。
「いや、ピアノが聞こえたから……」
「そうじゃなくて、どうしてこっちの方に来ようと思ったの?新設の棟から遠いし、こんな古い棟に来ようと思う用事なんて滅多にないと思うんだけど」
コトハは、白い光に照らされたまま、僕の答えを待っている。呼吸に動く胸元を飾るリボンの色も、男子のネクタイピンの学年色と違う。やはり僕よりも歳下だ。
「ああ、そういうこと。部員とのゲームで負けちゃったから。罰ゲームで」
「ばつげーむぅ」
珍しそうに呟くと、またコトハはピアノを弾き始めた。
「ピアノ上手なんだね。いつから始めたの?」
その様子を眺めながら尋ねると、彼女は器用にも弾きながら言葉を紡ぐ。
「小学校に入学した頃かな!」
「僕もピアノは少し出来るけど、君ほど上手く弾けないや……去年やっとけばよかったよ」
「去年?」
「去年。今の君と同い年の頃に」
「…………え?」
折角弾き始めたピアノが止んだ。何事かと思って覗き込むと、コトハが物凄い顔をして僕を見ている。
「……ど、どした?」
「……と」
「と?」
「歳上だったのー?!」
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「知らなかったの!知らなかったんです!」
音楽室が揺れるのではないかという程の大声で驚き、慌てて取って付けた様に敬語を使い出したコトハに、僕はどうどうと両手を突き出した。
「落ち着いてコトハ……別に敬語じゃなかったからって、今更怒ったりしないから」
「だめだよ!……駄目ですよ!だって今ヒロトは二年生なんですよね?敬語使わないと!」
「敬語使っても呼び捨てにしてる時点でプラマイゼロというか」
「ヒロトさん?」
「それはそれでなんか違和感があるな、とりあえず敬語じゃなくって良いからさ」
「あー!学年の色が違う!なんで気づかなかったんだろう!」
「落ち着いてくれる?」
騒がしい仔犬の様に喚くコトハに、僕は内心戸惑っていた。
ほんの十数分前この教室に入ってきた時は、すごく大人しい子かと思ったのに、人は見かけによらないというのは本当らしい。
「と、とにかく敬語はもういいから、ほら」
騒ぎすぎて息切れしたのか、静かに成ったコトハに声を掛ける。
そして、再び騒ぎ出す前に何か話をしようと思って、僕は尋ねた。
「そういえば、なんでこんなところに居るの?」
コトハが首を傾げて僕を見る。
「なんでって?」
「今の時間だと、皆部活してるだろ?……あ、部活してないの?」
又少し傾いた陽の影で、僕を見つめる顔がまた違った表情を見せる。
「部活、入ってない」
「でも、早くから此処に居たっぽいけど……」
「二時くらいから居たよ」
二時。僕はそれを聞いて疑問に思った。
「二時って、午後の授業中の時間じゃないの?」
するとコトハが、はっとした様な顔をした。そしてにへっと笑顔を零し、
「サボり!」
「いや、サボりって」
一年生の頃から堂々と授業をサボるのは如何なものか。
なんだか微妙な気持ちになったが、切羽詰まった様子もないところを見るとまぁ問題はないのだろう。知らないけれど。
「此処が好きだからかなぁ、落ち着くっていうか」
「あ、何、答え?唐突だね……この部屋落ち着くんだ?」
「うん、そう。あまり人が来ないし、気にしなくていいし。ちょっと退屈になる時もあるけど」
先程と打って変わって落ち着いた様子のコトハは、えへへっと笑いながら言った。
「人が来ないから落ち着くって、今日僕来ちゃったけど良かったの?」
「いいの!ヒロトは友達だから!」
そして、僕の一瞬の心配も笑顔で吹き飛ばす。
少ししか関わっていないけれど、この子の人柄からして嘘をつくような性格にも見えない。
自信満々で胸を張り僕を友達だと言ってくれたことは、正直に嬉しかった。
敬語も既に忘れているし、幸せな頭の作りになっているのだろう。
勿論良い意味で。
「そっか、有難う。でも授業には出た方が良いと思うけど。一年生から脱走してサボってたら後々大変になるよ、多分」
授業にはちゃんと出ないと、とコトハに言い聞かせた。
言ってから、虐めに遭ったことがあるとかでここに閉じ籠ってるんなら今酷いこと言ったかな、と気になったが、又も元気な声が返ってくる。
「わかったわかった。気が向いたら行く!」
気が向いたらって……とツッコみたい僕の目の前で、けらけらと彼女は笑った。長く明るい茶髪も、笑って揺れる彼女の体の側で揺れ、一緒に笑っている様だった。
それから何分二人で話しただろう。
ふと気づくと、顔を照らすオレンジ色も減り、暗くなりかけた教室にチャイムが鳴り響いた。建物の外、校庭に取り付けられた時計のスピーカーから、早く帰宅することを促すために流されるものだ。夕焼け小焼け。どこの学校でも同じ曲を流す様に決まっているのだろうか。少しだけしんみりとした気分になる。
「なにこれ?」
高校一年生の夏、まだ入学して間もないから存在に馴染がないのか、僕の来ない普段はこの時間にもピアノを弾いていて気づかなかったのか、コトハが音楽を聴いて怪訝な顔をした。
「あれ、知らない?暗くなってくると、もうこれが鳴ったら帰る時間だぞ、早く帰れよーって感じで流すんだよ」
僕が説明すると、へぇ、と頷かれた。
心なしか、元気が無いようにも見える。いや、先程まであれだけ騒いでいた所為で疲れたのかもしれない。
「そっか、じゃあ今日はこれでおしまい!」
僕がぼうっと眺めていると、コトハはそっとピアノの蓋を閉じた。
「帰るの?」
「んー、そうだね。でもヒロトの方が早く帰った方が良いと思う」
その言葉に僕は一瞬はてなマークを浮かべたが、直ぐに彼女の言葉の意味を理解した。自分がどうして此処に来たのかというそもそもの理由も思い出す。
罰ゲームだったんだ。ユウタやリサ達を置いてきたままだし、荷物もそのまま。
僕は慌てて立ちあがった。
「そうだ、ほんとだ。すっかり忘れてた」
「やーいうっかり者ぉ」
「はいはい」
揶揄うコトハに苦笑しながら、僕は椅子を片付け、彼女を振り向いた。
これをリサが言ったら多分腹が立つのだろうけど、コトハに腹立たないのが不思議だ。
歳下の女子と二人で話すなんて最後にしたのはいつだか憶えていないけれど、罰ゲームで来たとはいえ、この数十分中々に楽しかった。
「……今日、少しだったけど楽しかったよ。授業にはちゃんと出なよ?」
時間のこともあって焦っていた僕は、どうせ校内ですれ違うことくらいあるだろうと思って軽くふざけて笑った。
……のに、思わず固まってしまった。
コトハは授業に出る様にと言った僕に何も言葉を返さず、ただ一人で微笑んでいた。小動物を愛でる時の様な、何かを憂うような、其のどっちともつかない目。
今日話しただけでは、この子がこんな顔もするなんて解らなかったのに、最後にこんな驚きが待っていたとは。
「コトハ?」
声を掛けると、ぱっと明るい表情に変わって笑った。
「わかったよ!……そうしたら、また此処に来てくれる?」
「うん、来る」
「じゃあ」
何となくうれしい気持ちになりながら僕は、『じゃあね』と言われるものだと思って、去り際に一度だけ手を振ろうと扉を開けた。
扉を閉める。
棟の外へ出ると、ユウタとマナが立っていた。
僕を見るなり、ユウタが「遅い!」と叫ぶ。
「ごめん。もしかしてずっと待ってた?」
一気に申し訳なくなって尋ねると、マナがこくりと頷いた。
「こんなに時間かけて何してたの?」
問われるも、どうしてか、中でコトハに会ったということを言うのが躊躇われた。
何も後ろめたい事も疚しいことはないのに、知らぬうちに秘密にしておきたいという気持ちが湧いた。
「いや……、思ったより広くて夢中になっちゃって。なんか色々あったし」
「色々?」
「うん、音楽室とか。でも階段は凄い汚かった。埃だらけ」
「えぇー、やだぁ」
僕の適当な話を聞いて、マナはくすくすと笑う。
「まっくろくろすけは居た?」
「居ないよ」
ユウタ曰く、リサは『お腹減った』と言って先に帰ったらしい。
さほど気にしないけれども、なかなかマイペースである。
「何かあったのかと思って心配したよ」
ユウタが鞄をぶらぶら回しながら言った。誰かに心配してもらえるというのは、申し訳ないけれど嬉しいことだ。
「ごめん、ありがとう」
だから素直に謝罪とお礼を言って、帰ろう、と促した。
運動部の声はもうしない。
落ち着いて思うと、新たな友達が出来たという事実は確かに嬉しいものだった。
次コトハに会うのはいつだろう。
視聴覚室や多目的ホールなどは新設校舎にあるから、そのうちすれ違ったりするかもしれないな。
その時に……いや、そうでなくても、普段の話が出来たということは、彼女は割とあの棟の中でピアノを弾いているのだろう。
次にあそこで会ったら、もう少し話してもいいかな。
今度は楽器の話とか。
「待ってる」
扉が閉まってしまった。
――じゃあ待ってる、って言ったの、聞こえたかなぁ。
彼女は、今日友達になった彼の背中を見送りながら、胸の中で呟いた。
落ち着いて、改めて周りを見ると、もう暗くなっていて、外からの陽も無くなった。
風も止んで、下校している生徒が見受けられる。
今日は此処でおしまいかな。
蓋を閉めた鍵盤に、そっと布をかぶせると、鞄を提げて立ちあがった。
ピアノの上に置いた、音楽室の鍵も忘れずに持って、夜が近づく廊下に出る。
音も無く立ち上がり、廊下に出て、ひとつ息を吐いた。
鍵、返しに行こう。
この高校には、秋に伝統の文化祭がある。
模擬店が沢山出て、ダンス部が躍って、校内展示も沢山あって。それが何年も前から続いてきている。
勿論、吹奏楽部も出し物をする。といっても、小さなコンサートのようなものだが。
吹奏楽部は、二年生だけが文化祭に出演することが出来る。
一年生は、まだ本入部が始まってからの経験が浅いから、三年生は、受験が近いからという理由で出演できないのだ。二年だけというと頼り無く聞こえるが、運営は学校側だし、人数も居るし、大した問題は無い。
だから、高校生活最初で最後の文化祭のステージに、二年部員は誰もが力を入れる。
秋に向けての練習が、夏の暑い時期から休みなく進められているのだ。
そして、今年は僕たちの番である。
本格的に夏が始まって、日中は蝉の声が止まない。
冷房の効いた音楽室で、今日も僕たちは土曜日の朝から練習に励む。
曲は何の変哲もないマーチングソングだ。まだ先のコンクールで演奏する曲を、先に此処でお披露目する予定らしい。
……あの日初めてコトハと会った日から、それなりに日が経った。
初日のうちに消滅した敬語のことなど彼女はすっかり忘れて、僕に楽しそうに話してくれる。
と言っても、あの音楽室で彼女の演奏を聴いたり、少し音痴な僕の歌声に笑ったり、一日中しりとりをしただけの日もあった。彼女は何でも楽しめるような性格らしいが、一度だけ、演奏中のクレッシェンドをどんどん増し増しにしてかかった時は流石に驚いた。偶にあんな滅茶なことをする。でもやっぱり、楽しそうなのである。
授業に出る様に言って、彼女が素直に出席しているのかはわからないが、
本当のところ僕も中々に楽しい。
昔からリサとユウタの二人としかつるんでこなかった僕が、部活仲間とは言え女子の友達とも行動を共にするようになり、友達になってしまうなんて予想外だ。
……と頭の中で考え、無言で手を動かし練習の準備をしていると、
「ヒロト!」
と僕を呼ぶ声がした。
トランペットの吹き口を取り付けて声の方を見ると、クラリネットを手にしたリサが僕を見上げて立っている。
何気なく視線を移すと、その隣にマナが立っていた。なんだか不安気な顔をしていて、二人並ぶと『気の強い妹と内気な姉』と言う風に見えてくる。
「何かあった?」
リサの声音とマナの表情を見、僕は尋ねた。
周りの部員たちは、既に楽譜をチェックしたり楽器をいじってウォーミングアップをしている。改めて再びマナを見て、違和感に気づいた。彼女の担当楽器であるフルートが見当たらないのだ。
「あれ、マナ、フルート何処やった?」
その問いに、マナは助けを求める様にリサを見つめた。不安そうな顔は変わらぬままである。
「うん、それがね、今朝一番に来て教室の鍵を開けた時に、椅子の上に置いたんだけど、その後トイレ行って戻ってきたらケースごと無くなってたんだって」
「トイレのことは言わなくていいよう……」
何処か噛み合わない二人の会話を聞いて、首を傾げる。
「ケースごと?」
フルートのケースと言っても、それなりに大きさはあるのに。代弁にこくこく頷いているマナを見、そういうことがあるものなのかと考えた。
「朝なら、運動部の人の目もあるだろうに。盗られたってこと……だよね?」
「でもフルートってさ、盗ってどうするの?吹くの?好きなこのリコーダー吹いちゃうやつみたいな感じ?」
「そんな何処かで聴いたようなパターンあるわけないだろ。……多分」
マナがサッと青ざめる。
僕が、言い出しっぺのリサの頭を軽くはたくと、「背が高いからって何よっ」と彼女は頭をさすって睨んできた。
先程の話と言い、デリカシーのない奴だ。
「フルートはぴったり口をつけて吹くもんでもないから大丈夫」
僕がそう言うと、リサは言う。
「だってさ、マナ」
「う、うん」
しかし自分の楽器がないというのは問題である。
お金で買ったものであるし、行方も心配だが、文化祭のステージの為の練習が出来なくなってしまうのだ。
「何処捜せばいいのかわからなくなっちゃって……いきなりだったから、」
音楽室は、楽器ごとに集まって練習をしている。置きっぱなしにされていたのをフルート担当の仲間が運んでくれたのかと、何時も集まるスペースへも行ってみたらしいが、どうも見つからない。
僕は試しに、マナと同じフルート担当のアカネに声をかけてみた。
苗字を呼ぶと、様々な音色の中できちんと振り向いてくれた。
アカネは、部の中でも活発な女の子である。リサと似たような感じだ。
「なにー?」
アカネは真っ直ぐ僕を見た。僅かに首を傾げて僕たちを見る。
彼女は譜面立ての下に、フルートのケースを立てかけている。
その手下げ用の持ち手には、ペンギンのストラップが付いていた。
マナはケースには何もつけていないらしいので、これはアカネのもので間違いないだろう。
そもそも、こんなに良い子が人のものを盗るなんて想像する方が無理だ。
「私のフルートの入れ物、そこに紛れてたりしないかな…‥?」
マナが指した先には、集まっている部員それぞれのケースが寄せ集めて雑に置いてあった。
女子は見事に全員何かしらぶら下げていて、中に歯持ちにくくなりそうな程まんまるなぬいぐるみをつけて居る子も居た。
茜はそこを覗きながら、
「うーん、マナってキーホルダーとかつけてないって言ったよね?そしたら、学校の予備と間違えられて、誰か先生に運ばれて行かれちゃったんじゃない?」
「あ……」
何も書かれず、何もつけられていないケースは新品同様だ。ありえないことは無い。
「そっか……そうかも、職員室と、音楽準備室に行ってみる。有難うアカネ」
マナも同じことを思ったのか、すぐさま教室を飛び出していった。
僕もひとまず落ち着いて、自分の楽器と楽譜を持ってトランペットの集まりに参加した。
少しして、
「先生も知らないって……」としょんぼりしたマナが帰ってくることなど、微塵も想像せず。
結局その日、マナは指揮者に回ってくれた。
フルートの件は先生も協力してくれるとのことだったが、演奏席からもはっきり窺えた、気分の晴れない無理なすまし顔が忘れられない。
強がっているんだろうな、と思った。
知らないふりをしてトランペットを吹く。演奏の完成度は良い。
長い曲なので、何度か通して吹いているうちに、あっという間に朝練は終わっていった。
授業日ではないので、部活が終わると帰り支度をする生徒が多い。
時刻は昼過ぎ。太陽は高く、園芸部が水やりをした花壇がきらきらと光っている。
仲間に囲まれて心配されているマナを横目に、僕も楽器を仕舞って帰り支度を始めた。
譜面台を畳んで楽譜のファイルを鞄に入れた時、音楽プレーヤーのイヤホンが指に絡まった。
「あ、」
マナの件で忘れていたが、僕はその時不意に思い出した。
音楽プレーヤーが欲しいけど買えない、と愚痴を零していたコトハに、僕が少し前まで使っていたものを貸す約束をしていたのだ。
「どうした?」
僕が思わず零した声に、ユウタが横から声を掛けてくる。
「ううん、何も。今日用事があるのを思い出したから、先に出るね」
絡まったイヤホンを巻き直しながら言うと、はいよ、と軽い声が返ってきた。
それを確認して音楽室から出る。
ふと左手に提げた楽器を思い出し、僕も何か自分のケースだという目印をつけて、間違われないようにしないとな、とぼんやり考えた。
古い棟の階段を上りきる。汚い手すりにもすっかり慣れて、僕はガラガラと音を立てる扉を開いた。
「コトハ、来たけど」
ぶっきらぼうを装って声を掛けると、今日も彼女は笑顔でこっちを見てくれた。
窓から入る光に、ピアノごと柔らかく光っている。
「やっほー、暑かった?」
「暑かったよ。一歩も外出てないの?」
僕は皮肉ったつもりだったのだが、どうやら彼女にはそれが通じなかったらしい。
「出てないよ」
「あっそう」
「あ」
「何?」
「出た!」
座っていた椅子から立ちあがり、コトハは身を乗り出した。
「出たんだ。授業受けたの?」
ついにいうことを聞いてくれたかと思ったがそれも束の間、
「ううん!」
元気に返されてしまった。
「授業は受けてないけど、音楽室に行ったの」
その言葉に僕は動きを止めてしまった。今朝そこで部活をしたからだ。
「音楽室ってどこの」
「ここじゃない方」
「っていうと綺麗な方の?」
「うん。人の居ない時に、あっちの校舎に行ってみようと思って」
「ああ、確かに最後の辺りは全員ホールに移動した練習したけど。なんで人の居ない時間に?いつでも、言ってくれれば多分、音楽室くらいもっとあけっぴろげに見せてあげたのに」
「それはえーと、人見知りだから?」
「嘘つけよ……」
凄い綺麗だった、こんなにボロっちい床じゃなくて、ピアノも指紋ひとつついて無くて感動しちゃった、とはしゃぐ彼女を見て、考えた。
彼女は本当にここから出ていない、というより、此処に登校している様な感じなのだ、と。所謂保健室登校のような。
だとしたらやはり理由はあるのだろう。
不登校……こんなところにしか来られないほどの何かがあったのだ。
辛いことがあったせいで、授業を嫌がる様になったのかもしれない。
でもそれは訊けないしぼくは知らないから、もう出席を強要するのはやめることにした。
そう思うと、コトハがずっとここに篭るのもいつか解るような気がした。
「まあ良かったじゃん。新鮮だったでしょ」
僕がそう言うと、コトハはまだテンション高く笑いながら、
「うん!それでね、ちょっと音楽室の中見てみたら、ひとつ楽器が置いてあったの」
「小太鼓とか?」
「違う違う」
僕の質問に首を振りながら、コトハは窓際から黒いケースを取り出し、ピアノの上にとんと置く。
バイオリンか何かかと呑気に見ていると、彼女が開けたそれに、僕は目が釘付けになった。
「みてみて、フルートだよ。新しくてきれいだから、ピアノにも少し飽きたし練習しようと思って、持ってきたんだ」
上機嫌な彼女の説明が始まる。
僕は全く集中できずに、記憶の糸を手繰り寄せて居た。そして、あ、と呟く。
……今朝、マナのフルートがなくなったと言っていなかったか。
「それ、音楽室から持ってきたって?」
「そうだってば。家庭科室から持ってきたと思うの?」
コトハのつまらない返しに笑いそうになるが、僕は続ける。
「吹いた?」
「ううん、まだ」
なんで?と首を傾げるコトハを見て、僕は言った。
「それ、もしかしたらうちの部員のフルートかも知れなくて」
すると彼女は、「ええ?」と返してきた。まぁ予想通りの反応である。
「ぴかぴかだから新品かと思った。ケースにも何もついてないよ」
「あいつはごちゃっと飾ったりするの嫌うから」
ぽろっと僕が零すと、コトハは途端にしょんぼりしてしまった。
「じゃもしかして私、その子のフルート、持って来ちゃったの?」
「そうなるね」
「……わぁ……困ってるかな……」
「困ってたね……まぁ」
先程のマナを思い出し頷く。
申し訳なさそうに俯いたコトハに合わせて、さっきから彼女の頭でふわふわしている触覚みたいな髪の一房も、落ち込んだように垂れさがる。
「僕も言っといてやるから返しに行っといでよ」
見かねた僕が提案すると、更に俯く角度が深くなる。
外では太陽が高く上がっているというのに、随分対照的な、と密かに思った。
そして暫くすると、
「無理だよ」と拗ねたような声が聞こえてきた。
「なんでさ。持って来ちゃったのはコトハだろ」
「だって……」
訝しんで尋ねるも、彼女の態度は変わらなかった。
しかしその後、だって、ともう一度繰り返して、更に意味の解らない事を言う。
「私、ここで以外、人に会えないんだもん」
「はぁ?どういうこと?」
僕は思わず直球な疑問を投げかける。まだまだ高い陽が今日もピアノと床を照らしている。
眩しい日差しの溜まっているであろうそちらを見ずに問うと、コトハは続けた。
「そのまんまの意味。私は皆と同じ様にあっちこっち動いちゃダメなんだ」
「……。……返しに行きたくないからか?」
「違うよ心外な!言い訳なんかじゃないよ」
理解できないのは誰しも同じだと思うが、未だしっくり来ない僕の心を見透かしてか、溜息と共に続きらしい言葉が紡がれた。
「私ね、本当は幽霊なんだ」
そして僕は、何度目かの同じ反応を返すことになる。
「…………はぁ?」
何を言っているんだろうと思った。
暑さと、恐らくずっとここに閉じ籠っている退屈で、
何かそう言う遊びを始めたのかとも思った。
「あ、あー。無理はしないでいいよ。多分何言ってるかわかんないと思うし」
「信じられないし」
「そう、信じられないと思うし。でもそれが私の理由なんだよ。フルートを直接返しに行けない理由」
叶うなら気軽に、そうだったんですかじゃあ仕方ない、と言いたいところだが、生憎僕の性格上そんなことは到底できない。
僕は彼女に問い掛けた。
「幽霊って本当なのか?」
その問い掛けにまたしても頷いた彼女は、手招きをして僕を呼ぶ。
こっち、と、僕をピアノの真横……というより、ピアノ椅子の真横までぴったり呼び寄せた。
「見て」
そして彼女の指が下を指す。
足元。
促されるままに半信半疑で見下ろして、僕は言葉を失った。
「私の爪先、見える?」
「見え……ない?」
そう、見えなかったのだ。そこにコトハの爪先は見えなかった。
幽霊なら足が透けている、というよく聞くネタこそ知っていたものの、それを実際に目の当たりにしたのは当然ながら今この瞬間が初めてだった。
「無いでしょ、私の足」
「…………」
「だから私は誤魔化してなんかないよ。正真正銘の幽霊なのです。ね」
「……いやいや、『ね』じゃないよ、本当に……?」
誰が信じられるだろう。霊感も何もなく生まれて普通に学校生活を続けていた人間が友達を作り、その正体が幽霊だという証拠をいきなり目の当たりにしただなんて。
僕自身も信じられないというのに。
呆気にとられつつも改めて観察する。しゃがみ込んでもいいかと訊くと「パンツは見ないでよ」という受け取るに足らない言葉と共に了承を得られたので、僕は其の場にしゃがみ込んでその足元を見つめた。
きらきらと細かな塵が舞うのを見て取れる眩しい陽だまりの中、ピアノ椅子に座った彼女が伸ばした足。脛の辺りまでは普通の同級生たちと変わらず見えているが、そこから先は完全に続いて居なかった。かといって、怪談のように血が滴っているなんてことも無く、ただ床が広がっているだけである。
じっくりと目の前に見つめると、どうやら本当らしいと思うことが出来た。
いや、まだまだ意味が解らない事実ではあるのだが。
足元から視線を上げると、「どう?」と言いたげな彼女の顔があった。
「……本当なんだね」
「逆にヒロトはどうして今まで気づかなかったの?」
「僕は足元あまり見ない方だから」
そうだ。今日まで、此処に入って来る時一度も足元を見ていなかった気がする。自然と目線の高さだけを追っていたから、ピアノの死角になる彼女の足元は、自分でも驚いたことに今まで見たことが無かったのだ。
おまけに背も高い方ではあるので、自然といつもピアノの下は見えなかった。
「あとね、私が昼間しかいないのもそれが理由だよ」
幽霊……である事を然程気にした様子も無く暴いた彼女は、すっくと立って得意げに笑ってみせた。相変わらず脛より下は見えない。
「どうして?」
「昼間は、そこの窓からずっと陽が射してるから。おひさまが射したら丁度足元が白くなってね、脚が透けていてもバレないんだ」
ここんところ、と彼女が辿ったところを目で追うと、成程窓から差し込む光が真っ白に光り、パッと見では足がない事など目立たぬ様になっていた。
とすると、以前夕方に僕を自分より先に家に帰そうとしたのは、陽が射さなくなって暗い床ではそれが目立ってしまうから。足が無いことが僕に気付かれてしまうかもしれないと思ったから、だろうか。そうだとすれば意味も通る。
「……なんてこった」
思わず呟いた。
「外国人みたいなリアクション」
秘密を暴露した本人は飄々としているというのに。
「よく教えてくれたよね」
「うん、別にヒロトは口外しなさそうだし、フルートを理由にするのは申し訳ないけれど ここでしか言えないかなって思ったから、いいや言っちゃえって。結構勇気、要ったんだから」
言いつつ窓を開けた彼女は、その窓枠にひょいと腰を掛けて大きく伸びをする。
「ちょっと、やめろって!落ちたらどうするんだよ」
「あっはっは、落ちないよ。それに落ちても大丈夫だよ」
反射的に叫んだ僕の慌てた様子など気にもせず、ましてや先程の態度など忘れて大笑いするコトハを見てため息をつく。加えて、もう隠す必要が無いからか、慣れずにいちいち反応の大きくなる僕を面白がる様に其の場で宙返り。ひやっとする。
段々頭が疲れてきた。幽霊の女子相手に普通に話をしているこの状況もよく考えればおかしいし、大体いつから僕は幽霊が見える様になったんだ。
僕のツッコミにも面白がって笑い声を立てる彼女の声。
幽霊の笑い声ってもっと不気味なイメージが強いのに、聞いてみれば普通の人の笑い声と同じように聞こえるんだなぁなどとぼんやり考えていると、
「だから、ね、フルート返しに行けないの」
と再度同じ言葉が聞こえてきた。
「練習?するなら直ぐ必要なんだって解っては居るんだけど、返しに行きたいつもりはやまやまなんだけど」
「何さ」
「ここから出た時、体がぴりぴりしたの。ずっとここにばかり居て空気に慣れちゃったせいか、いきなり普通の校舎の方に行くと、知らない空気だし、肌に合わないって言うのかな、とにかく体が変な感じしちゃって、楽器持って此処に帰って来た時すごく疲弊しちゃって駄目だったの」
「はぁ…………」
僕は肩を落した。どこかまだ信じられない気持ちも残ってはいるし空気の件は言い訳に聞こえなくもないけれど、実際足は見えないんだし幽霊だ。
それにもう彼女が紡ぐであろう次の言葉も、大体予想はついた。
マナのフルートは僕が返すほかないようだ。
「しょうがないな。とりあえずコトハはここから出るのが無理なんでしょ。僕が返してくれば丸く収まりそうな予感がするからそうするよ」
「住み着いてない場所の空気が体に合わないって、幽霊ではよくあるのかな?」
「話聞いてる?”借りイチ”、だからね」
……僕は一体何をしているんだろう。
陽の落ちる前僕を自分より早く部屋から出したりピアノの位置をも気遣ったりと色々やっていたくせにもう幽霊で有る事をネタにしている様だし、本当に変な友達を作ってしまった。
「とりあえず、フルートは僕が返してくるから」
「ありがと。ごめんね、よろしくね」
*
次の練習日、僕はマナのフルートを片手に引っ提げて練習室に入った。
そのまま、部の皆とも顔を合わせた。
マナはフルートが手元に返ってきたことに安心していたようだったが、
それを僕が持ってきた理由を知りたい様で、怪訝というかなんというか、微妙な顔をしていた。勿論幽霊の女子がピアノ以外を奏でたがって、なんて言わなかった。
他の皆もそうだった。
ユウタを始め、フルートを見つけ出した僕を讃えてくれた仲間も居たけれど、女子のフルートを男子が持ってきたという事を、大半の部員が訝しがっていた。
それはそうだと思った。仕方ないと思った。
僕も逆の立場だったなら、
行方不明だった女子のフルートをどうしてコイツが持ってきたんだと訝しんだ筈だから。
その日から、戻って来たフルートを使って、あの日は指揮をしていたマナも練習に復帰した。
その日から、僕を見る仲間の視線が少し余所余所しくなった。
その日から、一部の男子やユウタ以外があまり話し掛けて来なくなった。
気がかりではあったが、かえって意識は練習の方に向いた。
加えてその日から、何を察したのかコトハがなんだか大人しくなった。
まあ、全部仕方ないと、思った。
こういうことは、時間が経てば何とかなる。
友達に訝しがられようがコトハが大人しくなろうが、練習はしなくてはいけないし、文化祭の日は勝手に近づいて来る。練習に熱中するだけ、遊びに出る頻度が減っただけ、何故だか時が経つのを早く感じるのだ。もうほぼ目前である。
しかし、徐々に変わってくる空気の中でも相変わらず呑気に話し掛けてくれるユウタの存在は、正直有難く感じて仕舞った。
女子たちはフルートの一件以来完全に余所余所しい。
まあ人間なんてそんなものだろうと、僕は考える。
変わってしまったものに慣れずにいながらも、何故だか僕は大半その元凶であるコトハの元へ通い続けた。それは、止さなくてもいいと思っていた。
ただ棟の近くまで来ると漏れ聞こえていた旋律は、以前までの軽やかなものでは無く、落ち着いた、しんみりとしたものに変わっていた。
人は悲しい時は悲しい歌詞の曲を聴きたくなったりするものだが、幽霊の女子でもそこは同じなんだな、などと、そんな程度に考えてあの教室に顔を出しに行き、いつの間にか役目が交替、僕が盛り上げ役になってしまった。
阿呆みたいに明るかった分あまりにもな変化だったので一時期は本気でやばいと思ったりもしたのだが、ある日は「必死で色々やってくれるヒロトが面白い」と言ってコトハに笑われた。
正直、この野郎と思ったけれど、それくらいがコトハらしいかと僕は許した。
何週間も続けて居たら、僕の人間関係を変えた負い目を感じていたらしいコトハも次第に元の明るさを取り戻し始めた。
マナが、「フルート見つけてくれてありがとう」とだけだが、
おずおずとしながらも丁寧に声を掛けに来た。
僕は密かに安心した。
*
部の練習が無い休日、僕は楽器を持って古い音楽棟へと上っていった。
管理人の管理がずさんでも、コトハが勝手に忍び込んでは鍵を開けているので直で僕も教室に行くことが出来るのだ。
文化祭もさすがにそろそろ近いので、休みの日もそこで練習する様になった。
朝早くに教室を覗くと、白い朝日に照らされたコトハがピアノを弾いて遊んでいる。
柔らかなフラッシュの様に射す光に足元の輪郭をふんわり隠されて、悲しい曲を引いていたのは一時期だけ、ゆったりとした速度の曲が耳に心地良い。
まるで、先生に叱られた子供が初めはしょんぼりと避けていたが、徐々に元気を取り戻して、またおずおずと彼から話し掛けていくような、なんていうかそんな感じだ。
「おはよう、コトハ」
声を掛けられた彼女が眩しそうに笑う近くに譜面台と椅子を立てて、僕も音楽を奏で始める。何度目かここで練習を繰り返した日から、コトハもピアノで伴奏を付けてくれたりもした。普通に、楽しい。
「ヒロト、文化祭はいつなの?」
「来月の第二土曜日と日曜日。コトハはどうするつもり?ここから出られないなら、文化祭は退屈なんじゃないのか」
メトロノームの速さを合わせる一方で問えば、コトハはうーんと腕組みをする。
「確かに。あーあ、誰か文化祭に出る生徒に取り憑かせてもらえないかな」
「……冗談?」
「ううん、これは私の本音。……!そうだ、ヒロト」
「嫌だよ」
すかさず言った。コイツはきっと僕に取り憑いて良いか尋ねようとしたに違いない。
すると、コトハは「駄目かぁ」と笑った。
ほらみろ、やっぱり。
「まぁ、文化祭中でも、暇が出来たらここに話をしに来てあげるよ」
*
「……!」
その日の日暮れ後、彼女はその場にすくんだ。
もう脈打たない心臓が、ぎゅんと不意に縮んだような気がした。
楽しかった気持ちが、ひんやりと冷めていく。
不思議な間柄の彼をいつもの様に先に帰宅させた後、知らない足音を聞いたのだ。
たん、とん、たん、とん、ぱたぱた。
駆けたり跳ねたりしながら軽やかに階下から上がって来る足音と、キャッキャと耳に煩い、甲高な女子生徒の笑い声。何かと生徒の罰ゲームや話題に上がるこの古い校舎で、肝試しのつもりだろうか。
ピアノの蓋を閉じて腰を浮かせかけた幽霊の女子生徒は、
音も声も、どちらも聞き逃さなかった。
「ねえ、やっぱ帰らない?」「楽しそうじゃん、大丈夫だってば」
「おばけとか居たらどうする?」
あはは、と数人のおしゃべりと笑う声が近づいて来る。
幽霊だから見えないもんね、等と座り直そうとした彼女は、昼間に現れる彼に自分の事が見えていたことを思い出して慌てた。
今はもう昼間じゃない。私の透けた足を紛らわせてくれる光は無いし、彼女たちは女の子だからきっと背も低い。入って来られたら、もし見える子達だったら、真正面から足が無い事が……幽霊が居るってバレちゃう。
高校一年生の幽霊は、恐らくまだ顔も知らないであろう数人の声を聞いて思い出した。
新入生の仲間入りを果たし、そこに溶け込むまでの短かすぎる期間の中で
自らに起こった出来事を。
そして、気が付いたら強く鍵盤を叩いていた。
閉じていたピアノの蓋を徐に開いて、驚愕と怯えと戸惑いに任せて鳴らした不協和音。
すると同時に外からも、驚いた様な声が上がる。
物好きな生徒たちの間で噂になっている、誰も来ない筈の古い音楽棟で突然聞こえたピアノの音に驚いてか、幸い声の主たちがこの教室に足を踏み入れて来る事は無かった。
*
『幽霊の回想』
新しい生活は、……かつての私の新しい人間関係は、何の問題も無くスタートを切った。
ううん、かつてと言う程でも無いか。一年も、いや半年も経っていないんだから。
入学式を終えた新学期独特の、少しまだ浮ついていて落ち着かない雰囲気の教室。
少しずつ仲の良い者同士の塊が出来上がり始め、仲間が出来た事に安堵している顔や、
ひとりきりで僅かに躊躇っている顔。その顔のどれもこれもが、男子生徒も女子生徒も、初々しい春の空気を纏っている。
私もその中のひとりだった。一クラスの生徒と云う塊は、四十人、少なく聞こえる人数だが、紛れてみればそうでもない。
陰を薄くし過ぎず、目立ち過ぎず、大きな波風立てない様に過ごしていこうと心に決めていた。
中学校とは違う時間割の中には、選択科目と云うものがある。
書道、美術、音楽。この三つの中から、芸術の時間に自らが受けたい授業を選べることになっていて、高校一年生になった私は、言わずもがな音楽を選択した。
受験勉強の間滅多に触れなかったピアノを演奏できる機会が、もしかすると得られるかもしれないと思ったのだ。
結果、その選択が私自身を幽霊にしてしまうことになるとも、微塵も予想せず。
*
入学してオリエンテーション等を終え暫くすると、きちんとした授業が開始された。どこの学校とも変わらない五科目、体育、道徳的な時間なんかでは使用される教材にも疑問を持つようになったし、数少ないながらもその間に友達も出来たし、それから何より楽しかった芸術の授業。
初めは教材と教師のピアノに合わせて歌ったりしていたが、カリキュラムが進むにつれ私が予想した通り、ピアノを弾ける機会がやって来た。
眼鏡を掛けた、お母さんくらいの歳の女教師が、ピアノの経験者はいないかと部屋を見渡す。楽しみにしていた私は、あんたピアノしてなかったっけ、しっ、やめてよ皆の前で弾きたくないの、と微かに聞こえる私語の中で素直に挙手をした。
私に向けられるクラスの視線を受けながら、もう一人の女の子が手を挙げるのを見た。
わぁ、と口元に手を当てている子もいる。聞くとどうやらそれなりにこの町では名の知れたピアノの上手な女の子らしいが、いつでも自分の事で精いっぱいだった私は周りを見ることが少なかったため、その子が有名な子だって、隣に座っていた友達に耳打ちされるまでは知らなかった。
ただ、姿は教室で見たことがあって、数人の友達といつも一緒に居たような記憶がある。
ともあれ、私達は二人、このクラスの中でピアノの経験がある生徒として手本に抜てきされた。この音楽の教室には、生徒分の小さなキーボードがある。それを使って練習する為に、初めは簡単な音階から、授業の数時間を使って練習すれば、一応誰でも弾けそうな簡単な曲を皆の前の大きなグランドピアノで弾くことを任された。
それだけだ。
本当に、ただそれだけがきっかけだった。
これが今の私の、全ての始まりだった。勿論、悪い意味である。
私と一緒に手を挙げた女の子には、沢井 志保、という名札が付いていた。
名前を見てもピンと来ない私は、相当周りの事に疎かったのだろう。
二人一緒に前に出て、まずは音階を、それから、先生が決めた授業の曲を、それぞれ分担して弾いた。
先生には悪気は無かったんだと、こんな風になってしまったあとも、私は少しも揺るぎなく信じている。だって、こんなのは勝手に生徒が盛り上げるものなんだから。
シホちゃんがピアノを弾いた時、誰もが息を呑んだ。当たり前だけど、上手だった。
先生は褒めた。
私も違う曲をそのあとに弾いた。
……先生は、シホちゃんの時よりも褒めた、と思う。
先生からすれば、シホちゃんがピアノが上手なのは当たり前だから、だったのだろうか。
一緒に選ばれた私に、ちょっとだけ花を持たせたかったのかもしれない。
だけど、褒められながら私も、少し居心地が悪かった。
ピアノが上手なシホちゃんよりも、私が大げさに褒められてしまっていいのかなって。
ピアノを弾き終えて席に戻った時、私達は、授業に疲れたまばらな拍手の中に二人で包まれていた。
その授業の終わった後も普通だった。
でも、変わってしまったのはそこからだった。
ピアノを弾いた授業から数日が経った頃。シホちゃんとは話さない。
それが今まで普通だった為、そこは別段私も気にしていなかった。
だけど、その代わりに違う生徒の視線が、囁きが、私に終始絡みつくのだ。
人の視線や気配に敏い私は、気にしないふりをしてもそれを感じた。
コマちゃんが席を離れたりして一人で座って居る時、授業中の私語の中、
「コトハちゃんってさ」「あの時さぁ」
聞こえる。絶対に、彼女たちの発するものは私に向いている。
くすりと聞こえる含み笑いとその雰囲気が、勘違い、なんて言葉を考えさせる隙を与えなかった。
コマちゃんが居る時は安心して笑えたけれど、それらを感じながら過ごすうちに、とうとう、私の事を話す生徒たちが私を捕まえたのだった。
私を見ながら内緒話をしていたのは三人の女の子グループ、どうやらシホちゃんを取り囲んでいるお友達の様だった。取り巻き。悪く言えばそうなんだなと、ぼんやり思った。
そしてピアノを弾いた日から二週間ほど経った放課後、私は人気のない音楽棟に呼び出され、詰め寄られてしまったのだ。
「シホちゃんの方がピアノ上手なのに、なんであんたの方があんなに褒められたの?」
「先生も見る目ないよね」「褒める子間違ってるよね」「ほんとだよね」
彼女たち各々のおしゃべりも交えつつ、私は主にそういった旨の言葉を向けられる。
こんな展開、漫画みたいだなと思った。
夕日の射して橙色に染まる校舎、眼前に立っている彼女たちのその向こうの窓。
そこだけを見て、文句言うだけなのかなあ、早く帰してくれないかなあ、と思っていた。
夕日が綺麗だ。
私はシホちゃんのピアノの事なんか知らなかったから弾いたんだ。
褒め方がおかしいって、私だって思ったもん。
……「それ」のきっかけが、私がぼーっとしていたから、だったなら
これは私も悪かったことになるのだろうか。
自分には非は無いはずだと思って過ごして来たけれど、もしかしたら私も悪かったのだろうか。私がシホちゃんについてもっと知って居れば良かった?周りの生徒の情報を詳しく知って居れば良かった?仲良しでも無かった子でも?
「シホちゃんよりあんたの方が褒められるなんて意味わかんない」
「先生、同情したんじゃない?」「えーっ、まさかぁ」
「ねえ、もしシホちゃんのプライドが傷ついてたらどうすんの?」
この子達は、そんなにあの子の事を、友達として大事に思っているのだろうか。
態々何週間も噂して、こんな所に呼び出して詰め寄る手間を取るくらいに。
私は、コマちゃんの為にこういうことをするだろうか。
そろそろどうしていいか解らなくなっていた私が思考を戻す前に、彼女たちの一人が声を上げた。
「ちょっと、聞いてる?」
ぐい、と強く左肩を押された。
少しよろけた。
そのまま一歩後ずさって、距離を取ろうとした。
ぼんやりしていたのだ、本当に。
私の後ろに床は無かった。
一歩下がるだけの筈だった足は何も踏まず、背中がすうっと寒くなる。
浮遊感が身体を包んでも、びっくりしても、
私は夕日の橙の強さだけを目に焼き付けていた。
私と正反対なタイプの彼女たちが、今更私と同じ、驚いた様な様子をみせている。
彼女たちの一人が、手を伸ばした。世界が回る。どうなっているのか把握出来ない。
はっと背中から息が全部抜けて行くような感覚の後、何も解らなく、なる、なる寸前、
本当に、漫画みたいだと、思った。
でも、先生のせいだとは、何度考えても思わなった。
以来、少女の姿をした幽霊が、この音楽棟に住み憑く様になった。
あの後、シホちゃんの取り巻きの子達がどうなったのかは知らないし、
階段から突き落とされた自分が死んだ後の自分のクラスがどんなだったのかも知らない。少ない友人の様子も知らない。
宙を舞った時に、死ぬと思った。悲しくも怒りも無く、あ、これ死ぬな、って。
だから、自分が死んだのかどうかわからない、みたいな幽霊にはならなかった。
でもただ、幽霊になるって事はほんとにあるんだ、とは思った。
しかも地縛霊。私は自分が死んだここを動かない。
死ぬと同時にどうして消えられなかったのかは、多分だけど、私にも未練というものがあったのだろう。未だ入学して然程どころか全然と言って良い程に日の浅い高校。
行った事のある場所寄り添うじゃない場所の方が莫大に多くて、入学後のオリエンテーションしか経験していない。
本当は多分、普通にこの学校を好きになりたかったのかもしれないと、思う。
同じ様に学校に住み憑いている幽霊は、女の子でも男の子でもいいから居ないものかと、ピアノのある教室を拠点としつつ初めは少し辺りを漂った。
だけど仕方ない、一年生でとっとと死んでしまったのは私だけの様で、誰も、何にも、見つからなかった。車に轢かれて死んだ野良猫の幽霊でも居れば、一緒に遊んだのに。などと不謹慎な事を考えつつ、私は一人で過ごしていた。
気にして居た訳では無いけれど、死んでからは誰にも文句を言われないピアノを沢山弾いた。私達の期生が入学するより前の代の音楽の授業で使っていたらしい教材も、鑑賞用のDVDなんかも沢山観た。
だけど退屈だった。ピアノも、教材も、DVDもつまらなくは無かったけれど、
私はいつからか、声を出すことに飢えていた。
久しぶりに誰かと話したい。もう幽霊じゃなくてもいいから、変な事で怒らないで、他愛の無いお話をしてくれる子が誰か一人でも来てくれたらいいのに。
そんな時だった。
せめて形だけでも気分を明るくとテンポの弾む曲を弾いていたら(死んでからも憶えている曲も、音楽室の楽譜も沢山あった)、不意に引き戸が開かれた。
あの一件から同年代くらいの女の子は少し苦手だった為に、誰が入って来るのかと一瞬私は身構えた。生身の女の子には私は見えないって解って居るけど、少し委縮してしまうのが悔しいところである。
がたがたと立て付けの悪い引き戸を開いて姿を現したのは、背の高い男の子だった。
高めの体を窮屈そうにこっちへ覗かせたその身なりは、一言で言うと清潔感に溢れていた。女の子みたいとまでは行かないけれど、ちゃんとアイロンのかかった制服は染みひとつ無くて、髪も気取って固めてあったりしていなくて、目は冷たいけれど怖くはない。
思わず背筋を伸ばして、反射的に言葉を零していた。
「君、」
言ったところで、はたと口を噤む。
でもそうだ、この男の子多分人間だし。
……あ、足がある。足がちゃんと見えてるからこの子は生身の生きてる人間だ。
ってことは私の声も姿も駄目だな。声を掛けても意味無かった。
だけど、溜息をついて、今のを無かった事にしようとした私は驚いた。
「へ?僕?」
目の前の男の子が、怪訝そうに問を返した。
正真正銘生身の生きてる男の子が、正真正銘足が無くて幽霊の私の言葉に。
聞こえてる?見えてる?
私の、動いて無い筈の心臓は久々の喜びに大きく膨らんだ。
焦って口がもつれそうになるのを抑えて、未だ半信半疑で私も続ける。
「君しか居ないでしょ?」
いやあ、びっくり。驚いたものだなあ。
*
私がその後に突然放った「友達になって」という咄嗟の言葉に呆れた顔をしつつも、その男の子は毎回きちんと応答してくれた。
聞くところによると、私の弾くピアノの音は外まで少し漏れていた様だった。
この子の名前は大きいに翔けると書いて、ヒロトというらしい。
紙飛行機が似合いそうだと思った。夕空でも青空でも、一人でぴゅんと飛んで行く。
私も名乗った。お琴の羽と書いてコトハ。
誰かと話すのが久しぶりで調子に乗って放ったボケも、不愛想にも見えたがちゃんと拾ってくれた。
楽しかった。学年の色なんて知る筈も無くて同学年と間違えてしまったけれど、
ヒロトと話すのが純粋に楽しかった。
部活になんて入る前に、先輩なんて出来る前に死んじゃったせいで使い慣れない敬語を、
呆れただけかもしれないけれど 無しでも許してくれた。
好きとかじゃなくて、純粋に、ずっと話して居たいと思った。
男の子の友達を作ったのは初めてだったし、内容がどんなにつまらなくても、
退屈だけだったこの教室が違う場所のように思えた。
「授業にはちゃんと出なよ?」
ただ、この言葉には何も言えなかった。
恐らくずっとここに居る私を(ヒロトは歳上だし)案じてくれたのかもしれないけど、
何度も言う様にこんな体なので、私はもう授業に出ても出る意味も何処にもありはしないのだから。死んじゃったけどいいや、って思ったかと思いきや不意に寂しくなったりするの、どうにかならないかなあ。らしくないが少し憂いてしまう。
でも、ヒロトは私が幽霊だって事は知ら無い筈だから、普通に答えた。
「わかったよ。……そうしたらまた、此処に来てくれる?」
肯定の返事を貰って、私は教室を出て行く彼の事を見送った。
日が暮れる。
*
それから私はヒロトと何度もここで会って話をするようになった。
色んな話をした。私と違って冷静そうな男の子だったので 初めは鬱陶しがられない様に必死だったけど、そんな事ももうあまり気になら無くなって行った。
きっとヒロトもよく考えればどうでもいいと思って居るであろう近所の犬の話や、私の知らない、事務のおばさんの着けてるネックレスが滅茶苦茶悪趣味だという話、この前ここで音叉を見つけたという話。彼はピアノを少しやっていたらしく、音楽の話が出来るのは密かに嬉しかった。
でも、こんなに色々話しても、普通なら授業中である時間も此処に居たと暴露する私に、その件に関してはヒロトは尋ねて来ようとしなかった。ただ、授業には「出た方がいいよ」と言うだけで。
私のつまらない一日がそんな風にして変化を起こしてから沢山時間が経って、
一度だけこの教室の外に出る決心をしたことがあった。
正直に言うと、少しピアノに飽きてしまったのだ。
この学校の校舎はこのボロだけでは無いのだから、新しい方に行けばそこの音楽室に何かしら楽器があるだろうと考えて、未だ生徒の誰も登校して来ないであろう時間に適当な楽器を拝借しに行く事にした。
もし誰かに目撃されても、幽霊が出た、なんて学校ではよくある話だし、幽霊なんて全員が全員見える訳じゃないし、誰かが早く来て居たとしても守衛のおじさんくらいだし、寝ぼけてたで通用する時間だから平気だろう。相変わらず私は適当な人間である。
そんな考えで、私は新設校舎の音楽室まで行ってみたのだ。
新しい棟は、当然いつも居る方とは違う匂いがして新鮮である。
青みがかった白いリノリウムの床は病院にも似ていた。
朝陽で真っ白に輝いている床を、私は歩かずに通り過ぎた。
ふわふわ漂うというのが一番正しい。幽霊って本当にこんな移動の仕方なんだな。
遠くから運動部の朝練の声が聞こえる。
警戒しそうになったが、グラウンドの方に居る運動部員の目にはきっと、私の足の無い事は見つからない。等間隔に並んでいる窓からは、小柄な私の胸の下辺りまでしか見えないのだ。
守衛のおじさんも仮眠しているのか、音楽室に着くまでは誰とも出会わなかった。
しかし、幽霊の特権である「扉をも通り抜けちゃうアレ」で中に入ろうとしていた音楽室の、引き戸の鍵はもう開いていた。
「……開いてる」
誰にも聞こえない呟きを落としながら、私は少しばかり急かされた。
音楽室をこんなに早く開けるのは、先生だろうか。それとも……
……そうだ、吹奏楽部。吹奏楽部にも朝練なるものがあるのかもしれない。
それで誰か開けに来たのかもしれない。こうやって出歩いているものの、霊感のある人相手に出会ってしまったら厄介だ。
やはりそういった焦りは捨てきれないまま少し部屋の中を覗く。机を端っこに寄せればマーチングの練習も出来そうな大きな音楽室。その床はピカピカに磨かれており、ピアノの蓋には指紋ひとつついていなかった。私が力持ちの幽霊だったら、今すぐあっちのと交換したいくらい。
それから私は、入ってすぐの椅子に置いてあった黒い楽器ケースを片手に急いで元の音楽棟へと引き換えしたのだった。
戻る道すがら中身を確認してみると、開いたケースの中には真新しいフルートが入って居た。寒そうに冷たく光るそれは身を丸めて眠っている様で、何より大切なものを運ぶかの様に私は胸に抱きかかえた。
その時、「幽体なのに私は物に触れる事が出来る」という事をふと実感した。
ピアノも弾いて居たし教材も音叉も触れていたのに、気づくのが遅すぎやしないか。
自分で呆れたけれど、又誰にも会わずに古い棟へと帰り着いたのだった。
フルートもきっと触れる筈だけど、もう少しじっくりとこの綺麗な楽器を眺めて居たいと考えて、私は吹くのを後回しにした。
楽しみは後に取っておいて、それでも何時間かピアノを弾いて、又飽きて来たしさてどうしたものかと思って居ると、そこにヒロトが現れた。
……ああ、そこからだったっけ、ちょっと大変だったのは。
私が新設音楽室から持ち出して来たのは、ヒロトと同じ吹奏楽部員の女の子が持参したフルートだったというのだ。ヒロト曰くやはり朝練があって、音楽室の鍵を開けたのもその女の子だったらしい。
そんなよくある偶然が本当にあるものかと訝しんだ返事をしてしまったが、彼の少し困ったような顔を見るとどうやら本当の様だった。
返さなきゃ。私も何も非道徳人間では無い。直ぐ様そう思ったが、「返して来なよ」と言うヒロトの言葉に素直に頷く事は出来なかった。
私は今ピアノの陰に居るけれど、自分で出て行って返しに行くとなると移動手段はあれしかない。さっきのふわふわ。足が無い状態でただよわないと一歩も歩けやしないのだが、そうするとヒロトにそれを見られて、私が幽霊だって事がバレてしまう。
冷静な彼は多分幽霊だなんて信じてくれないだろうし、こうして話せているのは私をきっと音楽室登校の生徒とくらいしか思ってないからだろうし。
だから、返しに行きたいのはやまやまで、フルートが無いと練習に困るだろうというのも解るんだけど、
「無理だよぉ……」
結局、ヒロトに返しに行ってもらった。
男の子のヒロトが女の子の部員のフルートを見つけてきたので疑われてしまったらしく、彼の話す内容に友達関連の話題がぱったりとなくなってしまった。
当然ながら、そもそもの元凶である私のせいだと思うと心苦しくて、私も元気を失くしてしまったが、何日もヒロトがあれこれ元気づけようとしてくれたのは、嬉しかった。
そういえばもうすぐ文化祭らしい。吹奏楽部の演奏もあるらしい。楽しみだ。
『幽霊の回想 以上』
*
思えば、春からこの季節にかけて、僕は学校に来るとほぼコトハと過ごしていた。
以前フルートの一件で部員とはぎこちなくなってしまったが、まあ無理もない。
僕は一度割り切ればあまり気にしない質の人間なので、少し寂しいが仕方が無いと、寧ろその分練習を多くしてやれと割り切っていた。
最近のコトハは高校の文化祭に興味津々らしい。
ただその割にこの調子だと文化祭の日もこの教室に居そうな気がして、僕は
「文化祭の合間も暇があれば話しに来る」と彼女に告げた。
高校一年生の彼女が文化祭を知らないままだなんて、少し可哀想だと思ったから。
吹奏楽部も練習に練習を重ねて、全体練習をして、
一度身についた最高の状態が下手に揺らがない様に、もう練習は無い。
受験の前日に新たに問題を解き直さないのと同じだ。
いつかも述べた通り、文化祭での演奏は僕達二年生にとっては最初で最後の大舞台なのだ。
コンクールでは無いから失敗を激しく咎められる事も無いが、出来るなら間違えず緊張せず最高の演奏がしたいものだ。
案外時間が経つのは早いもので、未だなん習慣と数えていた文化祭はいよいよ明日明後日に迫っていた。二日間にわたる文化祭の、二日目の最後を飾るのが吹奏楽部。
ホールに人を集めて、舞台で演奏するのだ。
「何か食べたいものはある?」
文化祭一日目を明日に控えた 夕日の落ちた校舎、ピアノ椅子の上で 無い足をぶらぶらさせている彼女に尋ねた。僕はもうコトハの足の秘密を知って居るので日暮れのあとも帰されない。別に聞き出そうともして居なかったが、あっけなく秘密を話してくれた彼女はきっと隠し事もあまりしないのだろうなと、割といい印象が多くなっていた。
「文化祭って屋台とか出るの?」
経験したことの無い行事にやはり露骨な興味を示すコトハは首を傾げた。
合わせる様に、鍵盤を三音ほど高い方に弾く。
テレビの効果音の様に、疑問チックな音程が響いて思わず吹き出した。
「絶妙な音を鳴らすのはやめてくれ」
「面白かった?」
「面白かったよ、ちくしょう。……でなんだっけ、屋台は出るよ。たこ焼きやらかき氷やら、ワッフルのお店だとか」
僕が去年の文化祭の記憶を頼りに今年の出店の種類を挙げると、すごいね、と彼女から返事が返って来た。どこか浮かない声音。
幽霊だから此処を出られず、文化祭の空気の中を堂々と歩けないのがつまらないのかと思った。だから元気が無い返事なのかと。
でも違った。少し考えたら解る事だった。
「……あ、そっか、コトハお前、……」
「私食べられないんだなあ、残念なことに!」
匂いだけ嗅いだら味も解るとか、そういう体の幽霊になりたかったよねえ、と笑って居る姿を見ると、じわりと罪悪感が滲んでくる。
「出歩けないし屋台のものも食べられないとなると、ほんとにつまんないなぁ」
「……ピアノとか弾いてるじゃん」
「うん、それは私も良かったんだけど。物は触れるけど、食べられないみたい。飲めないし。いやでも、物まで触れないとなると退屈でまた死んじゃってほんとに成仏出来たかもしれないのにね」
「……それ笑っていいところ?」
「いいとも!」
僕はこれ以上ない程の溜息をつきつつも、どうすれば彼女が文化祭を楽しむことが出来るか必死で考えた。
友達と表現するのは僕の性格上ずっと気恥ずかしくてたまったもんじゃないが、コトハはいまやすっかり大切になっていた。何かあるなら楽しませてやりたいと、自ら思える存在だ。
幽霊のコトハにも、文化祭を楽しんでもらえる方法。
屋台の物が食べられなくても、ついでに飲めなくても、出来れば一緒に、文化祭を楽しんでもらう方法。
――――そうして、ふと思い立った。
「……あのさ、人に取り憑くみたいなの、ずっと前言ってなかった?」
「言った。取り憑いちゃいたいなぁって」
「それって……誰かに取り憑くってどうやるの?」
「背中にぴったりくっついて、あとは私が消えるの。そしたら、その人の中に入れちゃう。見てるもの、聞いてるもの、味覚は多分駄目なんだろうけど、別々で居る時よりずっと詳しくなるはずだよ。私の視覚聴覚と、憑りついてる人の感覚で二重になる感じ。耳も目も良くなるみたいな」
其処まで聞いて、僕は決心した。いや本当は幽霊に取り憑かれるなんて良いイメージが微塵も無いのだけど、この明るく繊細な幽霊を楽しませてあげる為にはこれが最善だろうと。
意を決して言葉を紡ぐ。
「じゃあさ、文化祭二日目の最後……僕達吹奏楽部が演奏する時、僕に取り憑けば?」
「えっ」
「模擬店の一日目は味覚の共有は出来ないけど、演奏くらいなら、ステージからの景色やすごい拍手の音とか、コトハ自身もまた多分一緒に感じられるというか……」
話して居るうちに我ながら頷けた。割と良いアイデアなのではないか。
それは提案された側のコトハも同じの様で、みるみるうちに喜色が広がっていく。
「それ、それやりたい!いいの?私もヒロトと一緒にステージに立てるって事だよね?」
「まあそうなるね」
コトハは、直ぐに受け入れた。やった、とはしゃいでいた。
その喜び様を見たら、僕もなんだかまあいいやと思えた。
誰かを喜ばせる為に何かをすると云う事が 吹奏楽部という所属上少なくは無かったが、
正直今回彼女を喜ばせる為のこの行動が一番楽しそうに思えた。
「じゃあ早速、取り憑く練習させてくれない?」
「は、……練習?どうやって」
「まずは君が私をおんぶします」
「それくらいならまあ……乗りなよ」
ピアノの方に背を向けてしゃがむと、コトハは「よいしょ」と声を出して椅子から居なくなった。一般的なおんぶスタイルで一応手を回しては見るが重みは当然ながら伝わらない。
然し「どう?」という嬉しそうな声が頭上から聞こえるので、コトハは今僕におんぶされている状態で間違い無いのだろう。幽霊をおんぶ。僕にとっても新鮮な経験だ。
「取り憑くってこれで終わり?」
「まさか。これじゃただのおんぶだよ。まだあるんだけどね、取り憑くにはおんぶされた状態が一番取り憑きやすいって気づいたの」
「待って、僕以外の誰で発見したのそれは」
「秘密。じゃあ次は、このまま私が染み込みます」
「いやもっかい待って、怖いんだけど。何染み込むって、心……というか、思考というか、……脳みそ乗っ取られたりしない?」
「そんなのしないよ。第一ヒロトの頭硬そうな脳みそなんて乗っ取れたとしても要らない」
「ひっどい幽霊だ」
軽口を叩ける仲なのだと改めて馬鹿みたいに気付きながら、ひとまず僕はコトハの言う通り大人しくしていた。すると次第に、「じっとしててね」と喋っていたコトハの声が頭上から消えて行く。僕がおんぶスタイルの手を直した時には、コトハの自慢気な声は諸に背中から聞こえて来て居た。取り憑くというのはやはり背中なのか。僕の方も中々にすごい経験をして居る気がする。
「はい、こんな感じ。これが取り憑く。元々の私の視力にヒロトの視力も重ねてるから、すごぉく良く見えるよ。なんだかヒロトになったみたい」
「へえ、なんか……幽霊に取り憑かれるのは生まれてこの方初めてなんだけどさ。変な感じ。くれぐれも変な気起こして乗っ取らないでよ」
「失礼な!物と同じように好きに操ったりも、やろうと思えば出来るけど」
「怖いってば」
日が暮れてもう影も出来ない、透ける足を隠すものも無い、そんな時間帯に、僕はひとりの幽霊の友達を背中に取り憑かせていた。
「じゃあ文化祭最終日は、これで」
どちらからともなく、声を掛けた。
*
文化祭当日は、直ぐにやって来た。
天気もよく、同級生達は一年に一度遊び回れるこの二日間を心待ちにしていたのか、皆が皆浮かれて居る様にも見える。僕は重荷で胃が痛い程なのに。
昨日はコトハを「取り憑かせる」という珍しい体験をしてそれほど気にもならなかったが、この二日間僕は中々に重大な責任を負っているのではないだろうか。
模擬店だらけの一日目はともかく、明日のフィナーレを飾る演奏ではコトハを取り憑かせたまま演奏するという、簡単なのか難しいのかいまいちつかめない任務があるのだ。
まあ、誰にとっても大事な一瞬であることに変わりは無いので、コトハをくっつけたままでも演奏にベストを尽くすだけなのだが。
それに、コトハの為に提案した事なのだから。
文化祭一日目、中庭と校庭に、神社の縁日の如く屋台、模擬店がずらりと並んでいた。どこかのクラスの屋台からはたこ焼きの焼ける香ばしい匂いがしており、また別の屋台からはふんわりとしたお菓子の焼ける甘い匂い。生徒が食べ歩きしているフランクフルトやわたあめ、お祭りの定番食ばかりだがその匂いも相まって、どこを歩いても食欲がそそられる。
僕はあれからよっぽど、一日目もコトハに憑かれたまま歩こうかと思った。
だが彼女は味覚は共有出来ないの一点張りだし、メインは翌日だし、
……結論、最後まで迷っていたのだ。
ひょんな出会いからではあったが、僕はコトハと接するうちに彼女を大切に思って居た。
友達になって、と言われて始まった日々だが友達と言うより兄妹でもある様な。
存分に楽しませてやりたいと思うし、喜ばせてやりたいとも思う。
僕一人で休日なんかに出掛けた時でも、コトハはこれを体験したらどんな反応をするだろうかと思った事があった。
味覚だけは共有できないという事実を、諦め切れなかったのかもしれない。
夕方、「匂いだけ嗅いだら味も……」と言って居た昨日の彼女の言葉を思い出して、僕はたこ焼きとワッフルを古い音楽棟に運んだ。
匂いは解るとやっぱりはしゃいでいたが、そのうち「余計にお腹が空く」と拗ねさせてしまった。
そして二日目。僕の、いや僕達の文化祭はこれからだと言っても過言ではない。
ここが、一番大切なのだ。
第二学年しか出られない吹奏楽部のコンサート。
あの音楽室に住み憑いているコトハ。
コトハをステージに連れ出し、彼女に最高の景色を見せてやりたいと思う僕。
漫画みたいだと思った。
何となく入学して何となく昔の音楽の名残で(しかもピアノ)吹奏楽部に入った僕が、
今なぜこんな事をしているんだろう。
少し前は馬鹿馬鹿しいと笑って居た青春漫画の様ではないか。
何がきっかけになるかなんて誰にも解りやしないのだ。
文化祭の二日目の午前は特に何をするとも決まっていない。
一日目の残りの食べ物を未だ打っている屋台が大半だが、特設ステージには流行りの芸能人なんかが遊びに来て盛り上がっているし、また別の時間帯からは同じステージで軽音学部がライブをしたりだ。これは毎年同じ流れの様である。
僕は、種類は違うと云えど自分の演奏前に他の音楽を見聞きするのが何と無く嫌だったし、食べ物ももう食べたいものが無いので暇を持て余していた。
おまけに部員はピリピリし出したし、部活に関係の無い同級生たちとは昨日一緒に回った所だ。まだはしゃいでいる生徒たちを窓から眺めて、古い校舎の例の部屋に居る僕は問い掛けた。
「コトハ、暇してない?」
ピアノから離れて黒板に落書きをしている彼女は、鼻歌を中断して首を振る。
「ううん、大丈夫。だってもうすぐヒロトがコンサートに連れ出してくれるんでしょ?」
「そうだけど……まだ少し時間があるから」
もう誰にも使われず、うっすらと埃さえたまった黒板に、白いチョークで犬の絵を描いているコトハ。
……だったが、まだ気を揉んで居る僕を不意に振り向いて、こんな事を言い出した。
「じゃあさ、私の昔話でも聞いてよ」 ——
信じられない思いだった。
「昔話聞いてくれない?」と軽い調子で切り出されたままに全てを聞いた僕は、馬鹿みたいに口を半開きにしたまま暫く何も言えなかった。
ステージまでの余り時間をたっぷり使って語られた昔話、それはコトハの過去だった。
過去、という程前の話でもない、寧ろ最近の類である。
入学してからのほんの少しの時期の間に彼女に起こった、それこそドラマか何かの様なベタな展開。僕達の共通点であるピアノが招いた出来事。最後。それから最期。
それが、彼女がずっとこの棟のこの教室に居る理由だったのだ。
「……だからコトハはずっと此処に居るんだ」
「そう。それこそ初めは、私が死んだ場所だったから筈。最近になって、もう他へ動いてもいいやって思ってるんだけど、どこへ移ってもやっぱり一番居心地が良いんだよね。ヒロトと話してる場所だから、この教室が好きになったのかも。私一人だった時は、すごく退屈だったんだけど」
その経験は辛かった筈なのだが、誰かに話す事自体は特に苦にもしていないのだろうか、紙芝居を読み上げる様に淡々と話す彼女はそう言って笑った。
一方で僕は、ずっと前、彼女が此処を離れず授業にも出ない理由を考えた際、
「虐められた」のでは無いかと考えたことを思い出して居た。
彼女が幽霊になった理由とあの時の僕の些細な予想は、
当たらずとも遠くは無かったのだと静かに思う。
「だから、もやもやした気持ちのまま幽霊になったんだけど、ヒロトが来てくれてから今まで、毎日楽しかったよ」
「急に真面目なこと言ってしんみりさせないで」
「しんみりさせようとしてないよ、ただの本音だよ」
こういう時によくある胸騒ぎを憶え呟いた僕を他所に、もう話し終えたという合図だろう、また黒板の落書きへ移行したコトハのその時の笑顔は、
友達だと言うにも、妹の様だと言うにも大人びすぎて居た。
教師の机にぽつんと置かれた小さな時計は、コンサート開始三十分前を指していた。
文化祭最後のコンサートの開始時刻は、
夕方の五時三十分。
コトハに取り憑かれて音楽棟を離れたのが、五時すぎ。
今、楽器の搬入も衣装着替えも終えた僕達吹奏楽部がホールの舞台袖に立っているのが、
五時二十八分。左腕に付けた腕時計が、袖まで射す舞台のライトを受けてきらりと反射しながら時刻を告げた。
チューバのユウタ、クラリネットのリサ、僕はトランペットを持って、
そしてマナはフルートを持って、他の部員たちと共に集まって待機している。
早い季節から続いて居た練習の成果が此処で結びつくと共に、僕達はまた此処で仲間になる。
「頑張ろうね」
と女子たちは手を取り合い、僕とユウタもその隣で拳を合わせた。
失敗してもいいと思った。僕も部員も、聴いてくれる人達も、コトハも、楽しむ事が優先だ。
「××高校文化祭二日目、文化祭最後を飾り締めくくる吹奏楽部の演奏です」
生徒会の司会役員の声が聞こえた。
僕達は閉まった幕の中に並ぶ。重たい緞帳の中で、ライトを浴びた楽器と部員が輝いている。声を立てず、目だけと呼吸だけで、再度僕達は合図を受け合った。
幕が徐々に上がっていく。
こちらを見て居る観客が見える。沢山の目が舞台を見ている。
眩しいライトに目を細めつつ楽譜を確認し僕が楽器を構えた瞬間、
コトハの声が、一言聞こえた。
「すごいの、聴きたい」
僕らの演奏は、か細いフルートの音色から始まった。
フルートが最初の旋律を作り、低い音が重なり、序盤中ほどから更に楽器が重なり、トランペットパートが波を与え、チューバが支え、クラリネットが旋律の上を跳ね踊る。
心臓がバクバクしていた。楽器を支える手と、ステージに立っている足が小刻みに震えていた。
何も考えられないというのは、頭が真っ白になるというのはこういう事だろうか。
練習中はあれだけ色々と気にして考えて居たのに、何も考えられない。
悪い意味で思考が吹っ飛んだのではない。今この瞬間が大きすぎるのだ。
一度目のサビを終えて静かになった旋律は、最後にもう一度だけ大きく跳ね上がる。
盛り上がりの波を受けて、ホール全体が揺れる様だった。
憑りついていてもさっきの様に意思の疎通は出来るのに、コトハは大人しい。
僕の心臓はうるさいまま。
聴き入ってくれているのだろうかと思った。そうであってほしいとも思った。
運動部の試合なんかならアイコンタクトを飛ばして合図したりするのだろうが、
僕らはそんな脇見も一切せずに楽譜の音符だけを追い続けた。
一度だけのこのコンサートで、僕達吹奏楽部が見て居る眩しいスポットライトを、見つめ返して来る観客の目を、耳に届く何層もの旋律を、コトハに震えるほど味わって欲しかった。
コトハの存在は、僕の中で「ただの幽霊の友達」では無くなっていた。
恋ではなくとも、どの同級生より、大事にしてやりたいと思った。
コトハに悲しい事は起こってはならない。
嬉しい事、楽しい事だけを吸収して居て欲しいと思った。
死んで、成仏出来ずに彷徨うのが幽霊。
確かにそうだが、彼女には幽霊イチ幸せな幽霊になってもらいたいのだ。
やがて演奏は終結し、最後の音が、消えた。
「ありがと」
最後の音の残響も消えた頃、やり遂げた部員達による酸欠になりそうな熱気の中、
コトハの声だけが、僕の脳内にふわんと広がった。
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コンサートの後、僕は休む間も部員同士讃え合う間も無く一先ずは文化祭の片付けに回された。コトハは、いつの間に僕から剥がれたのか、声は聞こえて来なかった。
ただ、このまま消えたというわけでもなさそうだと、そう感じていた。
「お疲れ」
ユウタがパイプ椅子を運びながら隣に並んだ。鼻っ面に汗をかいたその顔は真っ赤になっていたが、傍から見てとても満足そうだ。
「お疲れ。……まだ卒部はしないとは言え、なんかもう全部終わった感じがするよ」
僕が苦笑すると、ユウタもつられて笑って、
「本当だな。俺達卒業は来年だし、部活は今年中と来年の頭までは出来るのに。変な感じだ」
彼なりに感傷に浸っているのか、その口調はいつもと違って大人しい。
だから僕もつられて、「……そうだね」とだけ応じた。
コトハは今どこで何をしているのか、それが気になっていた。
まさか僕に取り憑いて聴いたあの演奏であっさり満足して何も言わずにとっとと消えていたら、さすがに僕でも慌てるし怒る。
ホール外では、薄暗い紫色の夜の空が広がり始めていた。
空気は幾分かひんやりしていて、ざわざわと風が鳴って居る。
後者はその空気の中に静かに佇んでおり、ピアノの音の零れて来ない音楽棟へ向かう道を、僕は無意識のうちに早足になって足を進めた。
埃の被っている階段を上がるのも、もう何度目か。
あまりにも空気が異様過ぎるので面食らったが、音楽棟の教室の引き戸はいつも通りガタガタと立て付け悪い音を立てて開いた。
ホールから此処まで、距離のある速足で荒れた呼吸を落ち着かせるより先に顔を上げる。
コトハの姿を視界に認めようと、僕は辺りを見回した。
『幽霊の告白』
すごい、と思った。
すごいの聴きたい、と呟いた言葉に応じる様に、ううんそれ以上、私のお願いを聞いてくれたみたいに物凄い演奏だった。
私の耳が、無い脚が、体が、あの瞬間ホールに溶けた気がした。
取り憑かせてもらったヒロトとだけじゃない、空気とまでも、このまま一体になるんじゃないかと思った。ピアノを一人で弾くよりも、うんと素敵な音楽だった。
それに演奏しているヒロトの事は初めて見たけれど、ちっとも違和感を感じなかった。
彼はピアノを昔少しだけしてた、って言ってた気がするけど、
私には、彼は音楽をする為に生まれてきた人なんじゃないかと思われる。
生き生きしていた。一言で言えばそれだった。
自分が好きな曲とお稽古で使っていた曲しか知らなかった私は、今日ヒロト達吹奏楽部が演奏した曲を聴くのはこれが初めてだった。名前すらも知らない曲。
それなのに、何処かで聴いた事のある様な懐かしさに包まれて、それに戸惑って、
私は演奏が終わると早々にその背を離れていた。ほんとは、最後までくっついておいて一緒に教室まで帰ろうと思って居たのだけど。
一人になったら、どうして自分がこの世に留まっていたのかを、誰に指示された訳でも無いのに自然と考え出していた。
私は死んで、なんとなくこの世に残って、なんとなくあの場所から離れがたくて音楽室に住み憑いていたのでは無かったか。
自分が幽霊になったにあたって、触れる物で色々と調べてみた事もあったけれど、死んだ幽霊が長く世に留まる事に関して良い事を書いている記事は早々見つからなかった。なんだか自分に突き付けられた問題を急に真っ直ぐ見ないといけなくなった様な気がして、私は演奏の余韻に浸る一方で、最後の演奏が終わった今この時を皮切りに、どうにかしないといけないと思った。
簡単な二択だ。
消えるか、消えないか。
ヒロト達の季節は巡る。私だけ、うんと前からぼんやりしている。
答えは呆気無く出た。
ただ、ヒロトがなんと言うのかだけが気になった。
それからもうひとつだけ、私にはお願いしたい事があった。
これをしたら、ほんとに最後になるかな。
まぁ、一足先に教室に帰っておきますか。
『幽霊の告白 以上』
*
僕の心配は杞憂に終わった。
コトハが置手紙か何かだけ残して消えてしまって居る可能性だって、彼女の性格からしてゼロとは言えなかったのだ。
戸を開けて視界に入る見慣れた姿に、一先ずは安心した。
「おかえり!」
「あ、うん」
にっこりと歯を見せた笑顔で迎えられ、僕は曖昧に頷いた。
「すごかったね、大きな舞台って言うか、コンサートってあんな感じなんだね。私は舞台に立てるほどの腕が無かったから、初めてだったよ」
シホちゃんみたいに、と、コトハの口から言葉が続いた。
僕は思わず動きを止める。もう知らない名前では無かった。
コトハと共に手本をしていたらしい、ピアノの上手な女子生徒。
コトハの過去についての話を聞いた時に味わった苦々しい心地を思い出さない様に、僕はそっとかぶりを振る。僕は過剰に反応してしまったのに、その名前を発した当の本人はけろりとしてこちらを見ている。
当たりは真暗だ。どうして日が落ちてからは、暗くなるのがこんなに早いのだろう。ホールを出る時は、未だ周りの物の輪郭も目に明るかったのに、今ではまばらな星以外の全てが闇に包まれて見えにくい。
「そっか。……それで、演奏はさ、……」
「それでね」
どうだった、と訊く前に、彼女の言葉に遮られた。
普段よりいやに落ち着いている彼女を見た時から、何かあるかもしれないと予想はしていたのに、僕は一瞬で動きを止めた。
「私、消えようと思うんだ」
「……」
「死んで幽霊になってこの世に留まるのは、この世に未練があるからだってよく聞くよね。じゃあ私もそうなのかもしれないって、どうして私はこの世に残っていたんだろうって、考えたんだ。
――私が私を、幽霊になってまだ此処に居る様にしていた未練はね」
「待って」
「ヒロトと一緒に居て納得したんだよ」
「……ねえ、あのさ。本当に消えるつもりなの?あっさり?」
「真面目に考えたんだよ。私、本当に好きだと思える友達が欲しかったんだ」
僕は何も言えなかった。
この言葉の何処にしがみついて、何処から聴いて理解して納得すべきか、考えていた。
「あのね、勿論私の周りに一応友達は居たよ、少なかったけど。でもそれって、『同じクラスだから友達』っていうのかな、私がその子達の事をそんなに好きじゃなくても、同じクラスだからみんなともだちなの。学級通信に載るみたいな友達のノリって言ったら、解る?大事だと思える子じゃなかった、って訳じゃないんだけど、でもなんだか、大体の子が『それほど好きじゃないけどともだち』だったんだ。やっぱりそれって、同じクラスだからなんとなく。
先生が『みんなともだち』って言うから友達。
標語とかと同じなの。本当に好きじゃなくても。
でもヒロトと一緒に居る時は、何も気にしなくて良かった。
無理に楽しいって思わなくてもよかった。そんな事考えるよりも先に、楽しかったから。」
全然意味わかんないよね、と、彼女は言った。わかんない、と言ってやりたかったけれど、皮肉な事に僕にもよく解ってしまう感覚だった。
「だから、ヒロトみたいなそういう友達が欲しかったんだと思う。
それが、私は生きてる間に出来なかった。
ううん、これから出来る予定だったところを変な死に方したのかもしれないけど、
それならそれで、死んでからの私に出来たそういう存在が、ヒロトでよかったよ。」
つけっぱなしのラジオみたいに流れ込んでくるコトハの声を、僕は立って聞いて居た。
「本当に消えるわけ?」
間抜けな事に、自分より歳下の幽霊が紡ぐ言葉を聞いて出たのはそれだけだった。
「決めたんだもん」
その一瞬揺らぎそうな彼女の言葉遣いに、突っ込めば引き留められるのではないかとさえ思った。
そして僕は気付いた。
僕の周りの友達だって、いわば彼女が言うのと似た様な付き合いだ。
本当に本気になれるのか。
死んでからの彼女がそうだった様に、僕も全て何となくではないか。
それなら、他人なんて割とどうでも良い方で、コトハとの付き合いだって最初は意味不明で正直渋々だった僕が、どうしていま彼女を見送る事になかなか踏み出せないのか。
「……その顔。なんだ、案外ヒロトは寂しがり屋なんだね」
タイミングを狙った様に図星を突かれて、僕は苦笑した。
「知らなくて良かった事だよ、こんなの」
コトハが開けた窓から夜風が吹き込む。薄紫色のカーテンが膨らんで、
彼女の髪も持ち上がる。
「嘘だよ」
彼女が笑った。
「……うん、嘘だよ」
「寂しい?」
「ちょっとね」
「ふふ。……あっ、……そうだ、 」
正直に呟いてみると、コトハは僕を見上げて一つの提案をした。
高身長の生身の僕と、小さな幽霊の彼女。
本当に、何があったもんか解らないなと、場違いに思いながら問い掛ける。
「何?」
「演奏、良かったよ」
「……有難う?」
「それから、お願いがあるの。二人で何か演奏して。私はもうすぐ消えるけど、引き止めないで居てくれるなら、思い出に、最後に一諸に演奏しようよ。私はピアノを弾くから、……ああでも、ええと」
「トランペットは仕舞って来ちゃったんだけど」
「……うん、いい案だと思ったんだけどな。駄目ならやっぱりいい、よ」
「……ううん。じゃあ、トランペットは無いけど、ピアノを二人で連弾しよう」
しょげる彼女に投げ掛ける。
兎に角僕は、少し前も思った通り、彼女が悲しむのを見たくなかった。
これが、『なんとなくの友達』に向けるものとは違う『何か』である事を少し祈った。
祈りつつ、僕も提案した。
連弾。二人で、一つの曲を一緒に弾くのだ。
ピアノによって運命の変わったコトハの隣にあの時居たのは、
僕の見知らぬシホという少女だった。
今僕が彼女の隣に座っているのが、なんだか不思議な事の様に思える。
何の曲がいいか相談して、結局僕が初めて此処に足を運んだ日に外に漏れ聞こえて居たあの曲にする事にした。
「連弾、あっさり引き受けてくれたね」
「何を言ってるの。私はねえ」
言いつつ楽譜を捲り、「よし!」と言ったコトハの笑顔が一瞬だけ寂しそうに見えた。
「心の優しい幽霊だから」
深呼吸をした際に生まれた吐息が、震えていた。
僕は見逃がさなかった。
誰が寂しがり屋だ、と思った。
コンサートよりもきっと大事な、僕らの最後の曲が始まった。
弾いた事の無い曲だけど聴いた事は何度もある曲だ。
慣れた様子で弾いて居る彼女の、一段下を僕は弾いて行く。
これまでのこの部屋の雰囲気と場違いな程に明るいテンポの曲を連弾しながら、
「これが終わったら、消えちゃうからね」
「まだ曲の一番だよ」
「言ってる間に二番に入るんだから」
「ちゃんと楽譜見なよ、最後なのに失敗するよ」
「いいの、最後に失敗しても成功しても、消えるって決めたの」
最後、最後と態と繰り返して何度も弾いた。互いに態となんだと解って居た。
そして僕は聞いた。
最後のサビ部分に入った時、琴羽がぽつりと零したのを聞いた。
「でもだめ。……すごく、寂しいね。こんなの、初めてだよ」
演奏中なのだから何も言わなくて良かったかもしれないけれど、幽霊の琴羽が消えたらここには何も残らない。形あるものは何も。
だから、要らない言葉でも多めに言葉を交わしておこうと思った。
「琴羽の方が、僕より寂しがり屋だよ、きっと」
「……」
「琴羽?」
「ほんと悔しいけどね。……でも、さっきはこの世の終わりみたいな顔してた大翔が言えたことじゃないでしょ?」
琴羽が鼻先を赤くして笑った。
明るく速いテンポの曲が終わる。
連弾が終わる。
最後の演奏が終わる。
それから数分後、溶けるように消えていく連弾の最後の音には、僕 一人分だけの重さしか無かった。
*
あれから何度目かの春を迎えても、その古い棟は取り壊されなかった。
取り壊してその敷地を新しい何かに使おうという話は数度持ちあがったが、
そうする度に、進行させようとする度に——
……ピアノだけがどうしても持ち上がらなかった。
まず部屋を空けようとする業者が幾ら何を使ってどんな手を使っても、
昼の日差しと夕日の射しこむ窓の位置に置かれたそのグランドピアノだけは、
どうしても動かす事が出来なかった。
そしてとうとう、『ピアノの練習を苦にして此処で自殺した少女の幽霊が 今度こそは上手く弾く為に練習している、ピアノを持って行かれる事でその練習の邪魔をされない様に、業者の邪魔をしているのだ』という怪談話まで流れ始めた。
僕はそんな噂の流れる古い棟へ、かつての教室へ行く前に立ち寄った。
手にしているのは同窓会の招待状である。
ユウタ達からは、もう指定された教室に着いており、僕の分の席も取っているという連絡があった。
僕は、何年立ってどれだけ大人に成っても過去の経験を疑いはしなかった。
連弾の音符が鼓膜を叩いていたあの感覚も、未だに憶えている。
だから、今この瞬間も平気で信じている。
以前にも増して誰にも触られず汚れたピアノの蓋とその椅子を撫でて、
薄紫色のすすけたカーテンを見遣って、
僕はただ、
「このピアノ、もしかして琴羽がまだ守ってくれてるの?」と声を掛けた。
ピアノは鳴らない。応える者は居ない。
それなのに突如、窓の仕舞っている部屋の中の空気が一瞬震えた。
まるでかくれんぼ。
探しに来た鬼の足跡が近づいて、声を掛けられる直前にこちらから驚かせてかかるあれ、みたいな。
狙いを定めたようなタイミングに、ぶわり、と肌が逆立つ。
暫く夢中で息を潜めていたが、
やがて僕は、鳴らないピアノとカーテンとの間の床に、何か小さな機械が蹲っているのを見つけた。見落としそうな隅っこの床である。
こんなもの、こんな死角にあったのか、と怪訝に思って拾い上げると、それは丸型の小さなボイスレコーダーだった。見覚えは不思議とある。
僕らが生徒だった頃、ピアノに飽きてフルートも吹けない琴羽が退屈しのぎに遊んでいたものだ。それは大人に成った僕の掌にすっぽりと収まる大きさで。
――――「大翔は、寂しがり屋だから、私がきっと一緒に居てあげる」
――私は、心の優しい幽霊だから。
拾い上げ、何気なく再生ボタンを押すと同時に届いた懐かしい声。
連弾した日、幼いままの琴羽の声。
自分で一瞬目を丸くして、次いで ばか、と、思わず小さな笑みと共に呟いた。
こんなもの落としに遊びに来てる場合じゃないだろ、琴羽。
解っているのに、思わず歩き回って辺りを見回した。
制服に身を包んだ、少女の琴羽がどこからか「わっ」なんて驚かせて来そうな気がして。
可笑しくて懐かしくて、それでいてなんだか堪らない想いを抱えたまま、もう今度こそ終わりだからな、と、僕はボイスレコーダーをピアノの上にそっと置いた。
そうは言いつつも、制服姿の琴羽の笑顔を、
――本当はもう一度、
今度は照れくさい程真っ直ぐな距離で見たい、だなんて、そんなことを密かに思いながら。
了
音楽室 ヒラノ @inu11
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