私の人生

@sana0000

私の人生

ガシャン。また始まった。目の前には怒鳴る男とひっくり返った鍋や惣菜。『自分で片付けろよ』と今まで何度心の中で思ったかわからない。その男をなだめながら散らかった鍋や汚れたカーペットを掃除するのが私の母だ。掃除中にブレーカーが落とされる。これもよくある日常だ。外は真っ暗、簡易ライトをつけて懐中電灯を持って部屋の掃除をする。時には、お風呂に入っている時にブレーカーが落とされることもある。その場合、お風呂のお湯で身体を流して対応していた。


 私は3兄妹の末っ子。姉の影響を受け、小学1年生から水泳、小学3年生からバスケットボールをしている。兄妹それぞれ習い事はしていたし、お金の面で苦労していた印象は無い。しかし、父に優しくされた記憶は無い。バスケットボールを始めた頃にはすでに、被害妄想・DV・モラルハラスメントは日常的だった。学校の行事や習い事の送り迎えはパートをしながら全て母が行っていた。その上、炊事や洗濯も全て母だ。父は家事は一切せず、家族をこき使うことが当たり前だった。母が習い事の送り迎えができないこともあり、私は友達の車に乗せてもらうことも多かった。その時の私は、なんで母が来ないのかと不機嫌になっていたが、今となってはかなりハードな日常だったと思う。


 私の家には暗黙のルールがあった。1つめのルールは、1番風呂は父が入るということ。機嫌が悪くなると、怒鳴り散らした後にドライブや隣にある父方の祖母の家にも怒鳴りに行ってしまう為、いつ戻って来るかわからない。そんな父の帰りを待つ。帰りが夜中になる時は、さすがに様子を見て私たち兄妹はシャワーだけ浴びていたが、そんな時も母は父の帰りを待ち1番最後にお風呂に入っていた。


 リビングの一角にはパソコンが置いてある。被害妄想が強い父はパソコンが動かないと家族のせいにし、自分の髭剃り等の小物も壊れると家族のせいにする。その為、父の物には触れないことが2つめのルールだ。被害を受けるのは私たちで、被害妄想・DV・モラルハラスメントが強い父の物になんて触るはずはないが、そんな考えは父にはない。パソコンには、いつからか父だけしか知らないパスワードでロックがかかった。


 最後のルールは、父の機嫌を損ねるような刺激をしないこと。父は口癖のように毎日毎日家族・他人の悪口を言っていたが、それに対して口答えや反抗をしない。怒鳴り声に対して泣くと余計逆鱗に触れてDV・モラルハラスメントに繋がり、夜寝られなくなってしまうからだ。


 これだけ父の機嫌を損ねないよう生活していても、毎週のように食事をひっくり返されたり、夜寝られない日はあった。テスト前日にブレーカーを落とされてライトをつけて勉強するが、怒鳴り声がひどくて勉強なんてできなったりすることも日常的だ。


 小学生の頃から、『こんな父親いない方が良い、早く死なないかな。なんで離婚しないんだろう』と思っていた。母に「離婚しなよ」と直接言ったこともある。しかし、「病気だから」「そんなに簡単に離婚できないんだよ」と言われていた。後から聞いた話だが、父は統合失調症で内服していたことがあったらしい。病気だからと思い込んでも、父の母への仕打ちは許せなかった。


 母方の祖母の家へ逃げたことがあったが、父に連れ戻された。父は口では反省しても、その後も態度は一切変わらない。


 母は夜中に叩き起こされて怒鳴られ、朝まで寝かせてくれないことも多かった。その怒鳴り声はイヤホンをしていても聞こえてくるほど大声で、『近所の人、警察に通報してくれないかな』と何度も願ったが、通報してくれる方はいない。『母、大丈夫かな』と心配で階段途中までバレないように様子を見に行っていたが、父を止めに間に入る勇気はなかった。


 殺すぞ裸で外に出ろと命令されている母を見るのは辛かった。その時は本当に父を殺そうと思い、キッチンに行って包丁を握りしめた。しかし、父以外大好きな私は、母・兄・姉が人殺しの家族になって世間から白い目で見られると可哀想だと思った。1番は人殺しなんてする度胸もなく、見ていることしかできなかった。ただ見てることしかできない自分に不甲斐なさを感じて泣くことしかできなかった。


 小さい頃は怒鳴り声に泣いていたが、だんだん慣れて泣けなくなってくる。ただ、高校生になっても、成人後も母が蹴られていたりぶたれているのを見るとどうしようもなく涙は出てくる。私を守って蹴られてくれた時もある。その時は髭剃りが壊れたからだったか…夜勤明けで半分寝ていたから良く覚えていないが、母が私に覆いかぶさっていたことは鮮明に覚えている。


 成人して25歳になった頃、いつもと同じ夜中の怒鳴り声がした。翌朝一階へ降りるとクイックルワイパーがへし折れていた。その時は母には当たらなかったが、夜中に振り回していたらしい。限界だった。兄妹3人、家を出るのは母が可哀想だとも思い今まで行動しなかったが、私は父に反抗の意を示したかった。父と顔を合わせてすぐに「家出るから」と言いきったら、「もう2度と帰って来るな。車も使うな置いて行け」と言われ、私は家を出ることになった。


 仕事に行くには車が必要で、家もなかった。すぐに車購入・家契約をしたが、生活が安定するまでは大変だった。まず車がなかった為、仕事に行くにも買い物に行くにも友達にお世話になるしか手がなかった。


 私が家を出て4ヶ月程で、母・兄・姉も家を出た。母は弁護士をたてて、今までのDV・モラルハラスメントの写真や記録を書き起こし離婚の準備を進めていたのだ。初めは父は離婚を拒んだが、ほどなくして承諾した。しかし、弁護士曰く自分に非はないと言い張っているらしい。


 母は優しい。それと、父の怖さを知っている。離婚するにも慰謝料等のお金は請求しなかったらしい。だから55歳過ぎているのにパートからフルタイムに仕事時間を変更した。朝8時から夜20時まで仕事だ。今までだって足腰が痛いと病院にかかっていたのに、仕事は相当大変なはず。なのに弱音を吐かずに働いている。姉も母の為に平屋を買いたいと本業の他にアルバイト掛け持ちし、寝る間も惜しんで働いている。


 家を出て父から逃れたのは良かったと思う。でも、仕事が大変な姿を見ているのは辛い。私が家を出たのがきっかけになったことは確かで、これで良かったのかと悩む毎日。ハッピーエンドでも、バッドエンドでもない一般人の日常。『宝くじが当たれば楽させてあげられるのにな』なんて夢を見るのが今の私。


辛い日々を送ってる人は沢山いる。他人の人生を知ることで、自分の世界観が変わることもある。同じような境遇の方に元気と勇気を与えられるかもしれない。自分の人生を書き起こしてみました。作文不得意でつたない文章ですが、読んで頂きありがとうございました。

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