二話 あの日の夜
少し肌寒い日のことだった。三月の半ばも過ぎ、もうすっかり春めいた日が続く中で不意に訪れた花冷えの夜。
大学生としての初めての春休みはまあまあ忙しく、バイトに遊びに高校のメンツとの久々の再会……と自分なりの充実した日々を過ごしていた。
「……普通だな」
バイトからの帰り道は街灯のおかげで夜でもそんなに暗くは無く、人通りの少なくなった道にオレの声だけが響く。口にしてみれば落胆というよりも安堵の色の方が濃くって、自分らしさに思わず笑いが漏れた。
普通だ。勇者の血筋だからと言ってなにかを特段期待されるわけでもなく、強要される訳でもない。だって今はもう「勇者」が必要な時代ではないのだから。
勇者。
かつての英雄は自身の愛する人や国の為に命をかけて魔王に挑んだ。みなの愛を守るために戦った。
幼い頃は親戚が「似ている」なんて言うのを真に受けて勇者のような生き方に憧れなくもなかったけれど、争いごとが得意なわけでは無いしきっとこのまま平々凡々に毎日を過ごすのだろう。
「……ん?」
と思っていたのに植え込みの間でうずくまる大きな影が不意に視界に飛び込んでくる。身長から察するにおそらく男性だろう人影へ、オレは慌てて歩みを進めたのだった。
「大丈夫か? 光酔い?」
ダンピールや人間が吸血鬼に転化した際の急激な夜目の発達に感覚がついていかず、慣れない内は街灯や夜景の眩しさで具合を悪くしてしまうことも珍しくない。近くの自販機を確認しつつ声をかければ縮こまっていた体が小さく震えた。
「…………ううん、吸血鬼じゃないから必要ないよ。ありがとね」
穏やかな声だった。礼を口にしながらうずくまっていた影がゆっくりと立ち上がる。街灯のまっすぐな光の帯が細長い彼の姿を照らし出した瞬間、自分の喉から「ひゅ」と変な息が漏れるのがわかった。
とかく、男は美しかった。
よく手入れされているのだろう、光を受けた金のストレートヘアーはつやつやでオレに似て癖っ毛の妹が見たら悔しがるだろうななんて場違いなことを考える。瞳だって珍しい紫色の垂れ目で、背の高さや体格の良さを考慮しなければ美女と言っても差し支えないほど中性的な顔立ちをしていた。
耳が丸くなければ美形の多いエルフだと間違えていたかもしれない。
彼は彼でオレと視線を合わせるなりパチパチと不思議そうに瞬きを繰り返している。しばらくの間沈黙が続いたのち、先に口を開いたのはオレの方だった。
「終電逃した、とか?」
「え? ……ああ、いや、こちらに着いたばかりなんだけど、うっかりホテルとか取り忘れてたんだ」
一拍間が空いてから、オレはやっとのことで「ああ」と得心がゆく。つまりなんだ……この人は旅人で、無計画にもホテルを取り忘れた結果ここで途方に暮れていたということなのだろう。
「……カプセルホテルとかでもよければ近くにあったはずだしそこで、」
「うーん。まあ、いいや。お金が勿体無いし今日はここで寝るよ!」
スマホで近隣のホテルを探そうとするオレに対し、当の本人である金髪男は悠長にゴロンと道の端に身を横たえる。いくら春先とは言えこの気温の中外で寝たら確実に体調を崩すだろう。
「だいじょーぶ、僕はこう見えても丈夫なんだ。死んだりなんかしないって」
「いや、死ななくても風邪こじらせたりはするかもだろ」
あまりにも呑気な様子に呆れがきて思わず砕けた口調でツッコミを入れれば、何がおかしいのか目の前の男は起き上がると瞳をゆるりと細めた。
「優しいんだね、勇者の末裔だからかな」
「…………え?」
ジジ、と音を立てて僅かに街灯の光がまたたく。突然の指摘に言葉を失うオレに対し、男は起き上がると「ああ」と眉を下げて苦笑した。
「ごめん。顔が良く似てたし、勇者の出身がこの辺りだったはずだからそうかなって思っただけだよ。もしかして当たり?」
「…………顔も知らない相手に似てるもなにもなくないか?」
彼の言葉に軽口を叩きつつ、ますます胸の内の違和感が膨れ上がるのが分かった。
なんでコイツ、勇者の顔を知っている?
写真もない時代な上に肖像画なんかも残っていない勇者の素顔を知っているのはごく限られた人間のみだ。だから絵本とか伝記で語られる彼は大体が優しげな青年として描かれている。
だからオレみたいな目つきの悪い男を捕まえて「似ている」なんて言うのは、本当に彼を昔見たことがある親戚くらいのものだった。
「本当さ。見たことあるからね。目つきはちょっと鋭いけど、言葉の端々に優しさが滲んでるって言うのかな? 人の良さが隠しきれない顔立ちなんて瓜二つだと思うよ……まさか本人だったりする?」
吸血鬼じゃないと言っていた。耳の形も丸いしやっぱりエルフでもない。鳥人や獣人でもないし、そもそも彼らは300年も生きたりしない。
「そんなわけないだろ。普通の人間は300年も生きたりなんてしない!」
どこか遠くを見るような口ぶりに自然と足がたたらを踏む。オレがそう言い捨てて踵を返すよりも早く、目の前の男の顔がぐしゃりと歪んだ。
「そうだよ、なのになんで僕は300年以上このままなの?!」
「はぁ?」
歪んだ……正確に言えば身も世もなく泣き出した。先ほどまで浮かべていたヘラヘラ笑いから一転、グズグズと顔を覆って泣き出す優男の姿に目眩を覚える。
だけど哀しいかな。勇者の血が流れている以上どんなに怪しくても目の前で泣いている人間(?)を見過ごすことは出来ず、オレは嗚咽混じりに愚痴をこぼす彼の話を聞いてやるほかなくなってしまったのだった。
「つまりお前……ええと、シンシアは魔王に呪われて死ねなくなった人間ってことで合ってるか?」
「うん……」
とりあえずベンチに移動して根気強く話を聞いてやること十五分。シンシアと名乗った男の話をまとめると、彼は「魔王の呪いで不老不死になって300年以上前から今まで生き続けている」らしい。正直信じ難いものはあるが、「ほんとだよ」と言ってノータイムでアスファルトに打ちつけた頭の傷が一瞬で治ったのだから信じる他ないだろう。(迷惑だから二度とやるなとは伝えた)
「解呪師とかには当たったよな? オレも詳しいわけじゃないが、筋に当たれば解く方法のヒントくらいならもしかしたら……」
「ううん、呪いの解き方はわかってるんだ」
300年もの間解けずにいるのならきっとひどく複雑で難解な呪いなのだろう。首を捻るオレに対し、シンシアは酷くあっけらかんとした様子で買ってやったほうじ茶を勢いよく煽る。
「ほんとは呪いの解き方、じゃなくて呪いのかかり方かな。彼女が僕にかけた呪いはまだ完成していないから」
「? それならなんでお前は……」
話が見えない。呪われていないならどうしてただの人間が不老不死になってしまうのか。訝しげに眉を寄せて言葉を選ぶオレに対し、シンシアはへらりと情けない笑みを浮かべたのだった。
「僕にかけられた呪いはね、『彼女を一番に愛さなければ与えられた心臓が止まる呪い』なんだ。僕はまだ彼女を愛しているから死ねないのさ」
今度こそオレは言葉を失う。
愛している? 人間のコイツが、魔王を?
人間のみならず多くの種族の生き物の命を奪った大悪女を、よりによって?
「最初は
「それ、は……」
相手が死んでようやく愛していることを知った時、一体どんな気分だったのだろう。愛する人が死んだことで生まれた平和の中で息をするのは、どんな気分なのだろう。
「……それからずっと、毎朝目が覚めるたびに彼女が好きなんだって思い知らされる」
浮かべたほろ苦い笑みは見ているだけで少し胸が苦しくなるほどで……きっと、愛の中で溺れ続けるような気分なんじゃないだろうかと思わされた。
「もちろん彼女は死ぬべきだったと思うよ。悪い人だったからね。だからきっと、僕がこうやって生き続けてるのは彼女を嫌いになるまでの罰なんだよ」
何も言えずに黙りこくるこちらを見かねたのか、シンシアはあえて何でもないことのように笑みを作る。それがなんだか無性にイラついて、オレは叩きつけるように言葉を漏らした。
「そんなわけあるか」
オレの言葉に彼がゆっくりと目を見開けば、街灯の光が反射してちかりと瞳の奥がきらめく。不思議そうにぱちぱちとしばたたかせる様は目覚めたばかりの人のようで、なんだかちょっとおかしかった。
ふは、と思わず息を漏らせばその分肺に取り込んだ空気が冷たくてほんの少し冷静さを取り戻す。
「確かに勇者だって魔王を倒すために相討ちになったし、アイツのやったことを考えるとお前の女の趣味は最悪としか思えない」
「ひどいな……そうだけどね」
今度のシンシアの笑みは苦笑だった。けど、さっきの繕った笑みよりもずっと良い。好きな奴のこと話してるのに作り笑顔でいるよりも、ずっと。
「いいか? 最近は楽しいことなんて腐るほどある。物でも人でも何でも一番好きになれるものがいっぱいあるんだよ」
オレも彼につられるようにわずかに頬を緩めながらポツポツと言葉を漏らす。
そうだ、最近の世の中にはいろんな愛が溢れている。勇者はその為に戦った。愛する者を愛せるようにと願って剣を取った。そして今、彼の望み通り今日も誰かが何かを愛する為に生きている。
オレはそんな彼に憧れていたこともあったし、実は今でも内心ちょっぴり憧れているのだ。だから、
「だからさ、お前が魔王を嫌いになる必要なんて絶対ない。好きだって思うだけなら罰を受ける必要なんてないんだ」
他でもない愛に溢れた勇者の代わりに、オレは彼の愛を肯定してやりたかった。
すっかり引っ込んだはずの涙が再びシンシアの瞳からぽろりとこぼれる。にじむように溢れる様は雪解けによく似ていた。
「魔王を一番好きじゃなくなればいいんだろ? なら、嫌いになるんじゃなくて他に一番好きなものを作れば問題ない」
「そ、っか…………ずっと、ずっと嫌いにならなきゃって思って、考えたこともなかった……けど、もしどうしても彼女以上に一番好きなものが見つからなかったら?」
嗚咽をもらしながらつっかえつっかえにシンシアが言葉を紡ぐ。確かにそういう可能性も考えられるだろうし、オレが希望を持たせた以上責任を取る必要があるだろう。つまり……
「それならオレがお前の一番になってやる。一番好きにさせて、お前の息の根を止めてやる」
湧き上がる羞恥心を精一杯押さえつけながら宣言してやれば、今度こそシンシアは屈託のない笑みを浮かべる。
冷え切った花がほどけるような、そんな笑みだった。
「そっか……じゃあ、安心だ。僕が一番好きなものを見つけるまで、どうかよろしくね」
「おう、よろしく」
差し出された手を握り返せば、たしかに温かな生き物の温度が手のひらに伝わる。
オレが彼を殺すまでの日々の始まりは、そんな寒い日のことだった。
「わー、これも美味しい。僕、お茶漬け好きになっちゃった!」
「良かった、一番好きになったか?」
そして今も、彼とオレの「一番好き」を探す日々は続いている。
「そこまでではないかなあ」
「そうか」
……かなり前途多難だけれど、まあ、いいか。
溺愛の中で息継ぎ 折原ひつじ @sanonotigami
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