第16話 約束


 祈祷は三日三晩続いた。涼葉は朝から晩まで、半壊した祈信殿きしんでんで神に願い、夜も寝ずに虹希殿こうきでんにて菊斗を見守っていた。

 周囲の人々には、休むようにとさんざん言われたが、知ったことではない。


 菊斗のまだ細っこい体に、いくつもいくつも発疹が出て、頬や手や腕が歪に腫れ上がっているのを見ると、涙が止まらなくなる。涼葉は両手で菊斗の手を包み込み、その名を呼んだが、菊斗の意識は戻らない。喉も腫れているようで、息苦しそうな呼吸音だけが不規則に聞こえるだけだ。


 そうこうしているうちに、また日が昇る。涼葉は祈祷用の黒い表衣に空色の帯を巻いて、白の紙垂しでを振り振り、祝詞を上げる。


「掛け巻くも畏れ多き祖良御魂神そらのみたまのかみの大前に、かしこみ畏み申さく、佐野原菊斗の悪しき病に罹りて悩むに依りて、病の禍物を除き祓わんとして、四方八方よもやもの治めのすべを尽くし励めども、今は廣き尊き祖良御魂神のお恵みを乞い仰ぎ奉る他はあらじとして、禍神まがかみの来る事無く祓い給い、早く元の健やかな身に立ち返らしめ給いて、守りに守り恵み給えと、畏み畏み申す」


 これを何回も唱えては空を仰ぐ。これまでに無いほどの祈りを込めて。

 もう声はとっくに枯れて、同じ祝詞を何度上げたかも分からなくなって、まるで涼葉までもが熱に浮かされたかのように、ただただ同じ動作を繰り返して。


「──祖良御魂神の大前に、畏み畏み申さく、佐野原菊斗の悪しき病に罹りて悩むに依りて、病の禍物を除き祓わんとして、四方八方の治めの術を尽くし励めども──」


 もはや涼葉には、何も見えておらず、何も聞こえていなかった。気を失っていると言っても過言ではなかったが、それでも涼葉は休み無く儀式を続けた。


「──今は廣き尊き祖良御魂神のお恵みを乞い仰ぎ奉る他はあらじとして、禍神の来る事無く祓い給い、早く元の健やかな身に立ち返らしめ給いて、守りに守り恵み給えと、畏み畏み申す。掛け巻くも畏れ多き祖良御魂神の大前に、畏み畏み申さく、──」


 そのようにして完全に我を失っていたものだから、最初、涼葉にはその声を聞き取れていなかった。


「ちょっと。ねえ、ちょっとキミ。分かった、分かったから、一旦それ、やめてくれないかな。うるさくてかなわないよ」

「──乞い仰ぎ奉る他はあらじとして、禍神の来る事無く祓い給い、早く元の健やかな身に立ち返らしめ給いて、守りに守り──」

「こら、いい加減にして」


 ぺしり、と頭を叩かれて目を覚ました涼葉は、己の目の前に扇子を持った祖良御魂神が居る事、己が祖良御魂神の住まう神域に意識を飛ばしている事を、ようやく理解した。


「あっ、あの」

 ぎくしゃくとした動作で跪こうとした涼葉を、祖良御魂神が制止する。

「ああ、別に良いよ、それ。楽にしていてもらえるかな。ボク、本当は、そういう堅苦しいのキライなんだ」

「あ……左様ですか」

「そう。あと、キミたちを滅ぼす件は白紙だよ。そういう約束だからね」

「……」


 涼葉は思い詰めて下を向いた。

 上津島氏は守られたが、菊斗を犠牲になどしたくなかった。そんなつもりではなかったのだ。どうして涼葉はそんなことをしてしまったのだろう。これは明らかな失態だ。帝としてどうなのかは知らないが、

 そんな涼葉の胸中を知ってか知らずか、祖良御魂神は勝手に話を続ける。


「ボクが思ったよりずっと上手くやったよ、キミは。疫病対策に関しては、ボクにせっつかれるまで積極的に動こうとしなかったのは落ち度だが、人間そう何でもかんでも上手くやれるようにはできていない」


「……はい……」


「キミはやればできる人間だ。いざやり始めたら、うまく周りの人間を使って事態を改善させ、きっちりと結果を出した。これは、元から強かった千秋や藤生にはできなかったことだ。涼葉、キミは、己が弱い事を知っていた。人一人にできることは、そう多くないという事が分かっていた。だからこそ偉業を成せた。とても良くやったと言える」


「お言葉ですが」

 涼葉は思わずそう言っていた。祖良御魂神に口答えしようだなんて、今の今まで考えた事すら無かったけれど、偉業を成すために奔走してくれた夫がそのために死に瀕しているというのに、涼葉だけ褒められるのは我慢ならなかった。

「私は私の弱さを心底悔やんでいます。私が弱かったばかりに、周囲が巻き込まれて、多数の犠牲者を出しました。先日の野分でも、先代帝であればもっと被害を抑えられたはずです。そして病鬼の退治でも、私は本来ならば守らねばならなかった夫を盾にして生還しました。夫は今も死の淵を彷徨っています。──私は無力ですし、そのことは何ら誇るべき事ではありません」

「ふむ」


 堰を切ったようにこぼれ出た涼葉の言葉を聞いた祖良御魂神は、顎先に手を当てて考え込んだ。


「人間というのは難儀だね。総括すればキミは良くやった方だと、このボクが言っているのに、当のキミにはこれを素直に受け取るつもりはないのかな」

「はい。すみません」

「ふうん……。しかし、褒めたのに気落ちされるのは、ボクとしても不本意だ。よし、こうしよう」


 祖良御魂神はぱさりとその空色の短髪を後ろに払った。


「つくづくキミは、他の者を使うのが得意なようだ。このボクにまで手を貸させるとはね。……普段ならボクは、過剰に誰かを贔屓したりはしないのだけれど、まあ、たまには良いだろう。今回は特別だ。ホラ」


 祖良御魂神はぱちんと指を鳴らした。


「これで、キミの最愛の人は救われた」

「えっ?」

「早く見に行ってあげなよ。それで、今日からはいい加減に静かにしてくれるかな。もうキミの祝詞は聞き飽きたんだ」

「あの……?」

「じゃあね。気が向いたらまた呼ぶよ」


 はっと気付けば、涼葉は祈信殿の床に横たわっていた。ちょうど大勢の人が大騒ぎで涼葉の様子を見ようと押しかけてきている。

「上様!」

「上様まで病に!?」

「何としてもお助けしろ!!」

「待って、待って!」

 涼葉は飛び起きて、大きく手を振った。


「私は大丈夫です、問題ありません。それより、急ぎ菊斗を見に行かねばなりません。道を開けて下さいますか」

「しかし、上様」

「聞こえなかった? 道を開けてと言ったの」

「は、ははーっ!!」


 みなは平伏して廊下の両脇に寄った。

 涼葉は外廊下を走って、一目散に虹希殿に向かった。


「菊斗!」


 どたどたと寝所に飛び込むと、つやつやの肌をした菊斗が起き上がって白湯を飲んでいるところだった。


「菊斗っ!」

「あ、涼葉様」


 菊斗は茶碗を横に置いて、深々と礼をした。


「この度はご心配をおかけしまして……」

「うわあーん!」


 涼葉は布団に飛び乗って菊斗に抱きついた。置かれた茶碗は見事にひっくり返って中身がこぼれた。


「良かった、良かったわ! 菊斗、あなた、死んでしまうかと思ったじゃない! 無事で本当に良かったー! わあああん! よーしよしよしよし!」

「あの、涼葉様、ムググ」


 涼葉は思わず、この一年間控えていた「よしよし」を、勢い任せに解禁してしまった。菊斗は今度は熱ではなく恥じらいで顔を赤くして、息を詰まらせている。

 菊斗の世話をしていた侍従の夕真たちは、その様子を見てそっと席を外した。


「うえああああん、菊斗ー!」


 一年の間にすっかり涼葉と同じくらいの背丈になった菊斗の抱き心地は何とも言えない優しいもので、涼葉の胸にはいよいよ愛おしさがあふれ返った。


「ちょっと、あの、……よいしょ」


 菊斗は何とか涼葉の腕の中から顔だけ出して、息をついた。涼葉はまだ「よしよし」をしている。

「すみません、その、分かりました、分かりましたから、あの……よろしければ、僕と一つお約束をしてくださいますか」

「約束?」

 涼葉はようやく手を止めて、少しばかり離れて菊斗の顔を見た。


「涼葉様は僕と、夫婦として対等で素敵な関係を築きたい、と仰いましたよね」

「え、ええ、そうね」

 涼葉はぎくりとして菊斗から手を離した。その手首を菊斗はそっと捕まえた。


「ですから今度からは、涼葉様が『よしよし』をした分、僕からも涼葉様を『よしよし』させて頂きたいですっ!」

「……ほえっ!?」

「こんな感じです! よしよし、よしよし!」


 涼葉は菊斗に抱きつかれて、顔を菊斗の胸にうずめさせられた。


「は、は、はわーっ!?」

「よしよし、ですっ!」

「ちょっと、ちょっと待って!」

「……お嫌でしたか?」


 ちょっとだけ寂しそうな顔で見上げられて、涼葉の心拍数がぐんと上がった。


「いいえ、嫌じゃないわ……。でも、そうね、何だか……思ったより恥ずかしいわね……」


 菊斗はにこっと涼葉に笑いかけた。


「……そんなことを仰らず、安心して僕に撫でられていて下さいませんか? もちろん、僕がお撫でした分は、涼葉様も僕のことを存分に『よしよし』して下さいませ」


 涼葉はウッと息を詰めた。


 正直、菊斗を「よしよし」できるのであれば、こうして甘えさせてもらうのも、悪くない気がしてしまったのである。いや、むしろ、「よしよし」するのもされるのも、どちらも大変心地良いものだと思えた。

 何しろお相手は、涼葉の事を思い、涼葉の事を慕い、涼葉の事を守り、涼葉と共に歩んでくれる、他ならぬ最愛の菊斗なのだから。


「……よろしい。今から菊斗に、好きなだけ私を『よしよし』することを許します。ただし約束通り、私も菊斗を『よしよし』させてもらいます。覚悟しておくことね」

「望むところです。では遠慮なく。よしよし、よしよし」


 菊斗の「よしよし」は、勢い任せの涼葉のそれとは違って、とてもゆったりとした、優しく柔らかいものだった。その感触からは、涼葉を本当に大事に思っている事が伝わってきて、涼葉はふわふわと夢でも見ているような気持ちになった。


「……うふふ」

「どうなさいましたか、涼葉様」

「何だか愉快になってきたのよ。ねえ菊斗、あなたのお陰で、私、今、とっても幸せなのよ」

「それは大変光栄な事です。僕も、涼葉様のお陰で、うんと幸せです。それこそ空光国の誰よりも……この世界の誰よりも、幸せですよ」

「ふふっ。知っているわ」


 涼葉は悪戯っぽい目つきで菊斗の顔を見つめた。


「だってあなたは、他ならぬこの私の、大切な大切なお婿様なのだもの」

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