第五帖 姫帝、婿殿とお約束なさる事

第15話 決戦

「……朝議は後回しです。少納言、詳細をお願いします」

 涼葉は鋭い声でそう指示した。常岩は早口で報告する。

「はっ。病鬼は現在、倖和京の南、嘉城門かじょうもんに巣食っています。そして、病鬼も嵐の影響でやや動きが鈍っている模様です。今ならば、逃げられる前に辿り着く事ができましょう」

「すぐ行きます。太政大臣、朝議をお任せしますので、野分の被害確認と今後の救済手段について話し合うように」

「承りました」

「では、私はこれで」


 涼葉は朝服のまま、菊斗の元へと使いをやり、馬車を複数用意させた。馬車はようやく安全に乗れることが確認されたところだが、涼葉はまだ試乗したことがない。しかしこの機を逃せば次は無いかもしれない事を思うと、躊躇う暇すら惜しかった。


「涼葉様」

 菊斗が侍従たちと共に早足で駆けつけてくる。

「覚悟はよろしいですか、菊斗」

「はい。涼葉様こそ、お体の方は大丈夫ですか? 霊力は……?」

「問題ありません。むしろ野分を乗り越えたことで、霊力が強まった気がしています」

「それは、何よりです」

「ありがとう。さあ、いざ決戦です。行きますよ!」


 二人は別々の馬車に乗った。ぱちんと鞭の音がして、馬がパカパカと軽やかに歩き始める。

 これは、と涼葉は感心した。確かに乗り心地は悪いし、手すりに掴まっていないと椅子から転げ落ちそうになるほど揺れるものの、かなりの速さで進んで行ける。便利なものだ。


 馬車の列は、一路、倖和京こうわきょうの南端のど真ん中に位置する嘉城門を目指した。

 道すがら、所々に野分の被害と見られる家屋の損壊などが目に留まり、涼葉は心を痛めた。

 もし涼葉に藤生のような霊力があったならば、もっと被害が抑えられただろう。これからの戦いで菊斗を危険に晒すような事もなかっただろう。

 だが、無い袖は振れない。涼葉は涼葉なりにできることをやるしかない。


 やがて嘉城門付近に馬車が停まり、涼葉は決然とした面持ちで車を降りた。

 丹色と緑色で彩られた、見上げるような高さの、立派な造りの嘉城門は、朝の日の光の元に堂々と聳え立っている。近付くと、むっと濃厚な瘴気が全身を覆ったので、思わず袖で口元を隠した。


「雨降って地固まる、とはこのことですね」

 隣に歩み寄って来た菊斗に、涼葉は言った。

「本当にこうして会えるなんて」


 病鬼の姿は、それはそれは大きかった。その背丈は嘉城門の倍に等しく、体もがちがちに太っている。あの手で掴まれでもしたら、涼葉は一瞬で潰されて死ぬであろう。灰色の全身から絶えず黒い瘴気を放っており、顔つきは歪んでいて醜悪だった。


 涼葉と菊斗は即座に臨戦態勢になり、それぞれ葵龍きりゅう陸蟲ろくちゅうを出現させた。

 ギャギャギャ、と葵龍は威嚇の声を上げ、陸蟲もしきりに吠えた。


 ぐるり、とこちらを向いた病鬼の頭には三本の角が生えているが、真ん中の一本は大きく欠けていた。また、右腕も千切られたように途中から無くなっていた。


 これらは、父の千秋が使っていた景龍けいりゅうと、兄の藤生が使っていた花龍かりゅうが与えた傷だ。


「ナンダ、オマエハ」


 病鬼がぼろぼろの牙が生えた口を開けて喋った。涼葉は少々驚いたが、臆せず言い放つ。


「私は空光国そらみつのくにが姫帝、上津島涼葉! これより夫の佐野原菊斗と力を合わせ、あなたを成敗するわ!」


 病鬼はぎょっとしたように身を引いた。そして、その巨体からは想像もつかない速さで身を翻した。

「コワイ、コワイヨー!」

 何とも情けない行動だが、病鬼が敵前逃亡する事は想定済みだ。


「逃がさないよ! 陸蟲、噛みつけ!」


 黒い疾風のように飛び出した陸蟲は、大きく口を開けて病鬼の右足にかぶりつき、その動きを封じた。


「イタイ、イタイヨー!」

「黙らっしゃい! 葵龍、滅多打ちにして!」


 葵龍は病鬼と同じくらいの長さになり、その体をしならせて、尾で何遍も病鬼をはたく。

「イタッ、イタッ! ブツナ! オレヲブツナ!」

 何百もの人を死なせておいて何を言うか、と涼葉は怒りを燃やした。


「さっさと片付けましょう。葵龍、拘束を!」

「ギャギャ!」

 葵龍がめきめきと大きくなり、その巨躯で病鬼をぐるぐる巻きにする。

 すっかり身動きが取れなくなったところで、菊斗が陸蟲に素早く命じる。

 陸蟲は病鬼の足をえぐるようにして齧り取ると、すぐさま跳躍して病鬼の真上に舞い上がり、頭ごと呑み込んだ。


「良い調子! そのまま噛みちぎれ!」

 ブチブチッ、と陸蟲は病鬼の首を捥いで着地し、噛み砕いて食べてしまった。

 病鬼が首から赤黒い血飛沫のようなものを上げた。葵龍が拘束を解くと、どうっと道に倒れ込む。


「やったわ! ついに倒し……」

 言いかけて涼葉は、じっと病鬼を見つめ、菊斗を腕で制止した。

「涼葉様?」

「……待って、何か……」


 病鬼は右手と左足を地面について、ゆっくりと起き上がろうとしていた。


「……頭が無いのに動いているわ」

 涼葉は茫然自失して呟いた。

「一体どうしたら倒せるのよ」

「まだ望みはあります」

 菊斗は力強く言った。

「全て陸蟲に食わせてしまえば良いのです。陸蟲は食った病魔を己の中に取り込んで強くなります。病鬼でもきっと同じはず。食わせれば、無力化できます」

「……そうね」

 涼葉は頷いた。


「とにかく動きを鈍らせるわ。葵龍、雷を!」


 傷口から黒い粘液を流しながら、びっこをひいて逃げようとする病鬼の上に、たちまち黒雲が集まって、雷が病鬼に直撃した。病鬼がまたしても均衡を崩して倒れ込む。しかしそれでも、這いずって逃げようとしている。


「嘘でしょう、あれを食らってすぐに動けるなんて……!」

「でも動きは遅くなっています! 陸蟲、全部食って来い!」

「わんっ!」


 陸蟲は病鬼に飛びついて、左肩の辺りからバリバリと容赦なく食いちぎっていく。

 しかし病鬼は、欠けた右腕を振りかぶって、陸蟲をひっぱたいて吹っ飛ばした。


「きゃうん!」

「おっと」


 菊斗が陸蟲を抱き止める。涼葉は右手を真っ直ぐ前に差し出した。


「葵龍、病鬼が動かなくなるまで、雷を落としまくるわよ!」

「ギャギャギャ!」


 ピシャリピシャリと電光が空気を貫く音が轟いて、辺り一帯を震動させる。最初こそもがいていた病鬼だが、やがて力尽きたのか、全く動かなくなった。


「そろそろ良いかしら」

「充分です。陸蟲、諦めるな。今度こそ食い尽くせ!」


 陸蟲が毛を逆立てて病鬼に突進する。しかしその瞬間、病鬼の右腕がぴくりと動いた。


「待っ……」


 してやられた。動かなかったのはこちらの油断を誘うための罠。まさか病鬼にそんな知性があったとは。兄や父が苦戦したのも頷ける。


 病鬼は飛びかかってくる陸蟲を右の二の腕で迎え打った。再び吹っ飛ばされた陸蟲を、葵龍がしっかりと受け止める。


「攻撃が通らないなら──こうよ!」


 涼葉は霊力を送り込む。葵龍は陸蟲を下ろすと、またもや逃げ出そうとしている病鬼に対し、渦のような暴風をお見舞いする。病鬼はひっくり返った。這うようにして渦の中から出ようとしたが、風に流されて浮き上がり、クルクルと宙を舞った。


「メガ、マワルー!」

 病鬼はもみくちゃになりながら、情けなく叫んでいる。

「龍ならやっぱり竜巻よね。……菊斗、しばらく足止めしますから、今のうちに体勢を整えて」

「はい! すみません!」


 菊斗は陸蟲をなだめすかしている。陸蟲は尾を巻いて怯えていたが、菊斗の霊力を全身に受けて徐々に力をみなぎらせた。


「涼葉様、──行けます」

「仕留められそう?」

「まだ、何とも。でも、少なくとも半分以上は食えます」

「分かったわ。陸蟲が噛み付く直前に風を止めます。息を合わせるわよ」

「はいっ」


 病魔狩りで鍛えた二人の絶妙な呼吸で、病鬼の残った体の半分ほどが、一瞬にして陸蟲の腹の中に収まった。

 陸蟲が残りの半分を食べようと口をあんぐり開けた時、──病鬼の体やそこから流れ出る粘液が、さっと黒いもやのような瘴気となって霧散した。


「……退治、できたのかしら?」

「ええと……?」


 もやは、風に乗って帰るかと思いきや、ぐるぐると流れて一箇所に寄り集まり始めた。


「様子がおかしいわね」

「はい……」


 もやの塊は、どんどん密度を増していき、闇夜のごとく真っ黒になっていく。そしていきなり、まるで弓で射られたかのような速さを持って、涼葉めがけて突進してきた。


「涼葉様、危ないっ」


 菊斗が咄嗟に涼葉を突き飛ばす。道にすっ転んだ涼葉が慌てて顔を上げて見たものは、もやの塊が菊斗にぶつかって、その身をすっかり覆ってしまうところだった。


「きゃあーっ!? 菊斗!?」


 涼葉は真っ青になって、直ちに葵龍に風を起こさせ、菊斗に取り憑いた瘴気を払った。もやは今度こそ完全に晴れ、道には菊斗がぐったりと横たわっていた。


「いいやあああああああーっ!!」


 涼葉は金切り声を上げて菊斗に飛びつき、抱え上げた。その体は着物越しでも分かるほどに熱くなっていた。


「菊斗、まさかあなた、疫病に──!?」

 えへへ、と菊斗は力無く笑った。

「そうみたいです。とんでもない置き土産でしたね。涼葉様に当たらなくて……良かった……」


 菊斗はゆっくりと目を閉じた。その柔らかい頬に、痛々しい発疹が浮かび上がってくる。


「そんな、こんなことって」

 せっかく倒したのに、病鬼は居なくなったのに、最後に菊斗がやられるなんて。

「私の……私のせいだわ……!」

 やはり夫を病鬼退治になど関わらせるのではなかった。本来なら涼葉ひとりでやるべき仕事だったのに、涼葉の力が足りないばかりに、菊斗を巻き添えにしてしまった。

 この病は医者でも治せない。菊斗は近いうちに死んでしまう。


「うわああああん!!」

 涼葉は身も世もなく泣きじゃくった。

「上様!」

「菊斗様!」

 侍従たちが駆け寄ってきて菊斗を抱え上げる。侍女たちも走ってきて涼葉に寄り添った。


「上様、お気を確かに。お諦めにならないで下さい」

 しっかりした声で桐菜が言うのが聞こえる。

「病鬼は居なくなりました。もうあれの力は残っていないはずです。菊斗様が助かる可能性は、あります」

「でも、でも、そんなの誰にも分からないじゃない。治った前例なんて無いんだもの!」

「弱気になられている暇はありません」

 桐菜は険しい声で叱咤した。

「打てる手は全て打ちましょう。さあ、お立ちになって。急いで医師に取り次ぎ、祈祷師と、神主と巫女も呼びましょう。上様も、儀式の準備をするのです!」


 桐菜に手を取られて、涼葉は泣く泣く立ち上がった。急ぎ馬車に乗り、内裏へと引き返す。

 どうか菊斗が助かるようにと、強く強く願いながら。

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