第14話 野分


「何事ですか、太政大臣」


 涼葉はすっと背筋を伸ばし、表情を引き締めて春哉を見据えた。春哉は穏やかに、尚且つはっきりとこう告げた。


柏龍はくりゅうが急速な天候の乱れを観測しました。明日には大嵐が来ます。つきましては、災害に備えて葵龍の力をお借りしたく」


 ぴりっとした緊張感が涼葉の体を駆け巡る。


「大嵐。この季節ならば野分のわきということになりますね。此度は太政大臣にも対処できないほどの天変になるということですか?」

「左様にございます。このまま何も対策をせずに静観していては、洪水や土砂崩れなどの災害が各地で起こるでしょう」

「なるほど」


 涼葉はいっとき目を閉じて考えを整理した。


「……被害を完全に無くすことは難しいでしょうね」

「はい。そもそも、野分を完全に打ち消してしまうのは、良くない事かと思われます。米がいよいよ熟すという時に雨の量を減らしては、水不足に繋がりかねません」

「心配なさらなくても、私に大きな野分を止めたり逸らしたりする程の霊力はございません。しかし、打つべき手は打っておきましょう。柏龍にも働いてもらいますが、よろしいですか」

「もちろんでございます」

「ありがとうございます。……柏龍はこの半年ほど、天候の制御に集中的に携わってきましたから、葵龍よりは雨の扱いに慣れているでしょう。災害が発生しない程度に、雨風の力を弱めてください。私は野分がなるべく速く空光国の上から去るように、西から追い風を吹かそうと思います」


 野分を引き起こす巨大な雨雲は、毎年毎年、西からやってきて東へと抜けていく。この雲が長居すればする程、同じ場所での降水量が増えていってしまう。さっさと東に追い払うことで、被害を抑えるのが涼葉の狙いである。


「承知致しました」

 春哉が一礼する。

 涼葉は隣で呆然としている菊斗に声をかけた。

「菊斗。これより私は空光国を野分から守るために葵龍を使います。今この時から明日の野分が去るまで、病魔狩りは菊斗と陸蟲に一任させます。よろしいですか」


 菊斗はしゃちほこばって背筋を伸ばした。


「はいっ」

「万が一、病鬼が出たら、闇雲に一人で立ち向かわず、捕らえて力を削ぐ方向で対策をお願いします。野分が去り次第、私が応援に向かいますから、それまで耐えるのですよ」

「分かりました!」

「頼みます。──では、緊急の話し合いを行いましょう。みなを朝透院ちょうとういんに召集します。桐菜、伝達をお願い。太政大臣は私と共に来て下さい」

「御意」


 柏龍は既に雨雲の様子を見に、この島の西側の海上に派遣されているという。涼葉も葵龍を呼び出して、柏龍の元まで行かせた。


 次いで涼葉は、再び朝透院に集った面々に、野分に備えるようにと指示を出した。その後、幾人かの侍女と侍従を連れて、春哉と共に祈信殿に移った。


「太政大臣。今、雨雲はどこにありますか」

「ちょうどその半分が、空光の国の西端に上陸いたしました。残り半分は未だ海上にあります」

「分かりました。では、直ちに作戦を決行します」

「はっ」


 涼葉と春哉は正座をして膝の上で両手を組み、目を閉じて己の霊力に全神経を集中させた。

 意識を遠方にやるほど、霊力の扱いは難しくなる。二人とも、開始早々に正念場である。


 涼葉の脳内に広がる暗闇の中、細い銀色の糸のような煌めきが浮かぶ。葵龍の痕跡である。糸を辿って、葵龍の元まで己の霊力を及ばせる。西へ、西へ、西へ。


 ──居た。雨雲の姿も、あらかた把握できた。


 涼葉は渾身の力で霊力を増大させる。


 ──葵龍、もっともっと体を大きくして。もっともっと西へ向かって。雲の高さまで飛翔して、風を味方につけて、めいっぱいの追い風を!


「はーっ」


 いつの間にか涼葉の息は上がっていた。しっかりなさって、と桐菜の声が聞こえる。そう、戦いは始まったばかりだ。


 空光国の国土は、南北に細長い一つの島である。雨雲は島の端を覆うほどに大きなもののようだが、島自体の東西の距離はさほど長くない。雨雲を最短で海上に追いやるには、とにかくまっすぐ西に風を起こすことが肝要だ。


 風よ、もっと強く、もっと速く。


 やがて、じりじりと西に流されていた雨雲が、僅かに加速し始めた。


 ──その調子。


 葵龍の姿はこれまでにないほど大きくなっている。何千年と生きてきた巨木のように。

 それでも雨雲と比べればごくごく小さなものだが、力は充分に出せる。存分に風を起こせる。


 雨雲は完全に空光国の島の上まで流されてきた。

 通常、雨雲は海から湿気を吸い上げてどんどん大きくなる性質を持つ。完全に島に上陸したということは、国内の被害が甚大になってしまうと同時に、雨雲が吸い上げる水分がなくなることを意味する。

 このまま雨雲が順調に島の上空を通ってくれれば、嵐の勢いは次第に弱まるはずだ。春哉も仕事がやりやすくなるはず。


「ふんぬぬぬーっ」


 涼葉は気合いを入れ直した。行け、行け、このまま行け。

 隣では春哉が息を乱して懸命に風雨を抑えている。早く雨雲を倖和京に近づけたい。やはり雨雲は近くにあった方が制御しやすい。


 それから一刻半ほどが経った。自力で時間を確かめる余裕はないが、桐菜が定期的に教えてくれている。

 野分の雲は、ここ倖和京に近づいてきた。遠雷が低く聞こえ始めた。


 雨雲との距離が縮まったことで、霊力の制御はかなり上手くいくようになってきた。ただし、倖和京は空光国でも最大の人口密度を誇る。つまり、野分が倖和京に到達すれば、少しの被害でより多くの人命が危機に晒されてしまうことになる。

 ここからが第二の正念場だ。


 霊力を途切れさせず使い続ける事しばし、いよいよ野分が倖和京に差し掛かった。涼葉もいよいよ風の力を増幅させて、少しでも早く災難が去るように尽力する。


 だが、思ったより野分の力は強かった。

 水の供給源が絶たれて随分と経つはずだし、春哉も全力で雨風を抑えているはずなのに、暴風雨は見たこともないほどの規模で巻き起こっている。

 ざあっ、とたちまち祈信殿に、横殴りの大粒の雨が叩きつけられ始めた。びゅうびゅうと音を立てて強風が荒れ狂う。


 隣で春哉が、すっかり息を荒くしているのが分かる。霊力の弱い春哉に、これ以上頑張ってもらうのは無理な相談だ。とはいえ、涼葉も疲労が蓄積している。どうしたものか。


 その時、ばきっ、と不吉な音がした。涼葉はうっかりそちらに気を取られそうになってしまい、慌てて葵龍の方に意識を戻した。

 めきめきっ、と木がひび割れる音が続き、どおん、とそれはそれは強い衝撃が祈信殿に走った。


「何事ですか!」


 涼葉は目を瞑って霊力を保ったまま、雨音に負けない大声で問いかける。侍従が三人ほど、音の正体を見に駆け出した。


「申し上げます! 庭木が折れて飛ばされ、祈信殿に衝突いたしました!」

「祈信殿の西側が壊滅しております! ここに居られては危のうございま──うわっ!?」


 脆くなった祈信殿に雨風が容赦なく襲いかかる。屋根が崩れ、壁が潰れた。涼葉たちはあっという間に水に濡れてしまった。風に煽られ、髪の毛がもみくちゃになる。

 どこよりも頑丈な造りのはずのこの建物が、ここまで壊れるとは。下々の者たちの家ならばひとたまりもないはず。野分には、一刻も早く去ってもらわなくては。

 涼葉が両の手をぎゅっと組み直した瞬間、壁に空いた大穴から、何か重いものが飛んできたらしく、物凄い音を立てて涼葉のすぐ目の前に落っこちた。衝撃の度合いは先程の比ではない。


 きゃーっと悲鳴が上がる。みな動揺して、上様、上様と口々に呼ばわった。


「上様、太政大臣様、ここは一旦退避を! 御身の安全が第一です!」

「なりません!」


 涼葉は目を閉じたまま一喝した。


「移動などすれば、霊力が途切れます! 今この時に、霊力を弱めるわけにはいきません! 決して!」

「しかし……」

「私たちはこのまま続けます! みなは何とかして、私と太政大臣が心を乱すことがないように、助けなさい! 棒か何かで屋根を支え、板か何かで雨風を防ぐように! 早く……急いで!」


 ばたばたと侍従たちが動き出す。

 涼葉は単衣までぐっしょり雨に濡れながらも、懸命に風を起こし続ける。


 ──今ここに飛んできたのは、屋根瓦か何かだろうか。見えないから分からないが、恐ろしいこともあるものだ。当たったのが床で本当に良かった。でももしこれが当たったのが、民の頭だったらどうなる?

 ……菊斗だったら?


「うおあああああーっ!」


 涼葉は恥も体面もかなぐり捨てて叫び、本気の本気で全力を出した。上空で葵龍の吹かせる風が一層強くなる。こんな力が自分にあっただなんて、今の今まで涼葉は思いもしなかった。


「早くあっちへ行きなさーいっ!」


 雨雲がぐんぐんと風に押される。

 まだまだ、押して、押して、押しまくれ。


 ──集中しすぎて、周りの音は何も聞こえなくなって、雨風の音も、どれ程の時が経ったのかも分からない。ただ、霊力を辿れば、野分を引き起こした雨雲が、勢いを失って、東の海上へ完全に出て行ったことだけは、分かった。


「ふう──……」


 涼葉は目を開けた。横を見ると、ずぶ濡れの体でずぶ濡れの床に手をついて疲れ切った様子の春哉が、ちらりと笑いかけた。


「ご無事ですか、上様」

「はい。太政大臣は」

「この通り、いささか疲れてはおりますが、それ以外は無事でございます」

「そう。──良かったわ」


 涼葉も頬を緩めた。


「どうなる事かと思いました」

「そうだね。でも、何とか脅威は去った。ありがとう、涼葉」

「いえ、兄上こそ、ありがとうございました」

「私は大した事はできなかった。被害を防ぎ切れなかった。だから、涼葉がいてくれて本当に良かったよ」

「ご謙遜を。兄上がいなかったらもっと大惨事になっていたでしょう」

「ふふ、そうなのかもしれないね」


 春哉と挨拶を済ませた涼葉は、侍女たちの手を借りて星流殿せいりゅうでんへ行き、着替えを済ませてゆっくり横になった。


 体力の回復のため、次の日は一日中休むことにした。


 そのまた次の日になり、涼葉は赤茶色の袍をまとって朝透院に朝議をしに向かった。

 春哉も元気になったらしく、きちんと定位置に座って待っている。

 朝議では、野分の被害の報告と復興の手立てについてが話し合われるかと思われた。しかし、最後に参内してきた常岩が、息急き切って駆けつけたかと思うと、涼葉に深々と礼をして立ち上がった。


「申し上げます。病鬼の居場所が完全に特定できました」


 ざわっ、と房にどよめきが起こる。

 涼葉はじっと常岩を見据えて先を促した。常岩は早口で告げる。


「先日の嵐が、全天の雲と共に、この国の瘴気もまとめてさらって行ったようです。お陰で占いの力が及びやすくなりました。今度こそ、間違いなく、奴を見つけられるでしょう」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る