第13話 言葉


「うぬぬ……」


 菊斗は文机の前で懐手をして、物思いに耽っていた。悩んでいるのはもちろん、妻であり姫帝でもある涼葉についてだ。


 涼葉は本当の自分の姿を菊斗に見せてくれると約束をしてくれて、涼葉なりに様々な工夫をしているのが分かって、とても嬉しい。

 しかし未だに涼葉は、菊斗に心を開いてくれていない。


 その証拠に、涼葉は菊斗に対して、いつも敬語で話している。


 涼葉は、帝として仕事をしている時、及び身内で目上の者と接する時に、敬語を使っているが、場合によっては砕けた口調で話すのを菊斗は知っている。


 帝が妻に敬語を使うしきたりでもあるのならば話は違ってくるが、全くそういったことではないのは明海に確認済みである。

 だいたい、涼葉は出会った時から菊斗を呼び捨てで呼んでいた。それなのに、何故か敬語だけは頑なに外してくれない。それが何となく引っかかる。

 無理せず、と涼葉に伝えたのは菊斗の方だし、気にかけるのは烏滸がましい事ではあるのだが。


 とにかく菊斗は菊斗にやれることをやるしかない。

 涼葉の居ない午前中は、陸蟲と訓練をして眠さを吹き飛ばした後、勉学に励むのが日課だ。

 今日は、苦手な宸洲語の詩を解読する。



 鳥飛間緑樹

 風搬蓮香優

 我上船離郷

 向東旅很愁



 夏の旅立ちの様子を表した詩……だと思われる。緑の樹の間を鳥の飛ぶ、蓮の優れた香を風の運ぶ──これらは夏の情景を五感をもって体感しているところ。そして、我は船の上にありて郷を離れる、東へ向かふ旅のいみじうれへる──これが離郷の悲しみの部分。「優」と「愁」で韻を踏みんでいて……。


「んー……」


 菊斗は目を擦った。最近はどうも眠たくていけない。さっき陸蟲と走り回って、体を叩き起こしたはずなのだが。

 何とか居眠りすることなく勉強を進めていると、今度は猛烈にお腹が減ってきた。早く涼葉と一緒に昼餉を取りたい。


 まだかまだかと待ち続け、やっと使いの者から声が掛かったので、菊斗はうきうきと慈浄殿に向かった。

「お勤めご苦労様です、涼葉様」

 爽やかな薄水色の表衣をまとった涼葉はにっこり笑った、

「ええ、ありがとう。……声の方はすっかり落ち着きましたね、菊斗」

「はい、そうなんです」

「さっそく頂きましょうか」

「はいっ!」


 今日の献立は、強飯を水に浸した水飯すいはんと、干し雉肉、牛蒡の煮物、茗荷の汁物などである。菊斗はせっせと箸を動かし、全て残さず平らげた。

 お膳を下げてもらい、しばし涼葉と歓談して食休みをしたら、いざ病魔狩りに出発である。


「帰ったら一緒にかき氷を食べましょう」

 涼葉は言った。

「今日は氷が届くのですよ」

「氷が!」

 菊斗は目を輝かせた。


 遠い森の中の洞窟の奥に、一年中冷気が溜まっている空間がある。そこには冬の間に採取しておいた氷が保管されており、氷室ひむろと呼ばれている。そこからはるばる氷を運んできて、溶け残った分を細かく削って器に盛り、甘葛をかけて食べる。

 非常に貴重で高価なもののため、菊斗もこれまでに数えるほどしか食べたことがない。


 勇んで牛車に乗り込もうとしていると、隣に妙な乗り物が停まっていた。牛車よりいくぶん小ぶりで、牛ではなく馬が繋がれている。

「あれが、馬車?」

「はい、試作品ができたそうで」

 夕真が説明してくれた。

「何度か走らせて、安全が確認でき次第、上様と菊斗様にお乗り頂くことになるかと」

「へえ。何か、牛車より小さいよね」

「馬の機動力を活かすためだとか」

「そっか。重いとそのぶん遅くなるもんね」

「はい」


 今日のところはゆるゆると牛車で進む。前方からはカラカラと馬車の転がる音が聞こえてきた。

 やがて葵龍が教えてくれた病魔の居場所に着き、菊斗たちはこれをいつものように葵龍でやっつけて陸蟲に食わせる。

 陸蟲はもちろんのこと、葵龍も随分と強くなった。小さな雷ならすぐに呼べるし、狙った場所に落とすこともできるようになってきた。葵龍の頑張りもあるだろうし、涼葉も一人で霊力の鍛錬をしているのに違いなかった。

 そういう苦労を見せないところも、涼葉らしいとは言え、ちょっぴり残念に思ってしまう菊斗だった。


 しかしそんな憂いは内裏に帰ってすぐに溶けて消えた。菊斗たちが慈浄殿でしばしの休息を取っていると、涼葉の言った通り、かき氷が届けられたのである。


「まあ! 嬉しいわ! 少々運動した後だから、とても暑かったの。疲れたから甘いものも欲しかったのよね」

 桐菜から器を受け取った涼葉が珍しく素直にはしゃいでいて、菊斗は思わず見入ってしまった。

「涼葉様、かき氷がお好きなのですか」

「もちろんよ。もし国のみなが夏場にかき氷を食べることができたなら、みなこれを大好きになるに決まっています!」


 それはどうだか分からないが、涼葉が喜んでいるのなら何よりだった。一瞬だけとはいえ、敬語という鉄壁の仮面が外れるほどなのだから、よほど嬉しいのだろう。


 器にこんもりと盛られているかき氷を、涼葉は匙ですくって口に入れ、機嫌良くにこにこと笑った。


「冷たくて甘くて素敵!」

「良かったですね!」

「菊斗も、早く食べないと溶けてしまいますよ」

「はいっ。いただきます」


 さくっとした絶妙な歯ごたえに、体の熱がすっと鎮まるような冷たさと、たっぷりかけられた甘葛の濃厚さ。これ以上ない贅沢である。菊斗も自然と口元が緩んだ。


「美味しいです!」

「ええ! 絶品でしょう? こうして二人で楽しむことができるなんて、本当に嬉しいわ」


 言ってから涼葉は、右手を頬に当てた。


「冷たすぎましたか?」

「いえ、いつになく高揚してしまっていて……少々恥ずかしくなりました」


 菊斗はぶんぶんと顔を横に振った。


「そんなことないです。むしろ今の涼葉様の方が、その、心を開いて下さっている感じがして、僕は嬉しいです」

「……そうなの、ですか?」

「はい!」

「そう……そうね。たまにはいいわよね」


 涼葉は頬をほんのり桃色に染めて笑った。


「素敵な夫婦になると約束したのですもの。菊斗がそう言うのなら、そうしましょ……いえ、そうするわ」

「ありがとうございます」


 菊斗も満面の笑みでそう答えた。

 まさかこんな形で距離が縮まるとは思っていなかった。かき氷に感謝である。


 さて、翌日からも病魔を狩る日々が続いた。

 雨の日も風の日も休まず戦った。

 このように、倒しても倒しても病魔が湧いて出るからには、病鬼の方もかなりの確率で倖和京かその近辺に居るはずなのだが、敵は相も変わらず逃げ足が速く、一向に捕まえられない。


 こちらも早く現場に着くため、馬車の開発を急がせた。しかしこれも意外と手間取っている。速さが出る分、牛車よりも揺れが激しくなるため、乗る人物はしっかりと座って何かに掴まっていないと危ない。宸洲国式の座椅子なども取り入れつつ、改造に改造が加えられる。


 そうこうしている内に、秋風が吹き始めた。


 涼葉は本当に豪胆だ。いつ祖良御魂神から裁きが下るかも分からない中、そして民が次々と命を落とし続けている中で、長々と戦う事を強いられているというのに、一向に疲れた様子を見せない。弱音の一つも吐かない。

 菊斗の尊敬の念は日増しに強まるばかりだが、同時にひどく心配でもあった。


 そんな菊斗の胸中とは裏腹に、この頃の大内裏は祝いの席の準備で慌ただしい。

 涼葉の元に菊斗が婿入りしてからもうじき一年が経つので、これを祝福する宴が催されるのである。

 当の二人は直前までお祝いされる気分になどなれず、いつも通り忙しく過ごしていたが、いざ当日にの朝になって侍従たちに一斉に寿ことほがれてようやく、実感が湧いてきた。

 そうだ、この日は、菊斗が涼葉と結ばれた、尊くて目出度い大切な日なのだ。


 思えば色々なことがあった一年だった。菊斗はまたぐんと背が伸びて、一年前より三寸も大きくなった。髪も長くなって、一つ結びが我ながらなかなか様になってきたと思う。少しは姫帝の夫として相応しい存在になれただろうか。


「御結婚から一年の時が経ちました事、お喜び申し上げます」


 祈信殿きしんでんにて並み居る黒服のお偉方から頭を下げられて、菊斗はいよいよ、この日がいかに幸福な日であるかを思い知った。


おもてを上げて下さい」

 同じく黒い着物に身を包んだ涼葉は、柔らかく、それでいて芯の通った声で、みなにそう告げた。

「お祝いの言葉、深謝します。今日はみなも存分に楽しむように」

「ははーっ」

 みなは再度頭を下げてから、ゆっくりと身を起こした。


 神主と巫女による儀式が簡易的に行われた後、一同は例によって舞禄院ぶろくいんに移動して、祝宴を始めた。


 お膳には、たっぷり盛られた強飯に、大ぶりの鯛の塩焼き、新鮮な猪肉ししにくを蒸したもの、牛蒡の煮物、葱の汁物、茹で栗、柿など、秋の味覚がずらりと並んでいる。

 菊斗は涼葉の隣で、御神酒をちびちびと飲みながら、もりもりと食事を頂き、時折みなの語らう様子を眺めた。米にはいくらでもお代わりがあるので、好きなだけ食べることができる。


「いつもよりよく食べていますね」

 涼葉が微笑んだ。

「はい! お腹が空いていたので」

「もう。その様子では、じきに私の背丈を越えてしまうではありませんか」

「い、いけませんでしたか……?」

「まさか。とても良い事よ」


 涼葉は箸を置いて、菊斗の頭を撫でた。みなの見ている前だったし、頭を撫でられるのも実のところ久々だったので、菊斗はまたすっかり恥ずかしくなってしまった。涼葉はころころと笑った。


「すぐに真っ赤になってしまうのは、一年前から変わりませんね」

「うう、からかわないで下さい」

「ふふ、ごめんなさいね。──撫でられるのはお嫌かしら、と思っていたのだけれど、私は菊斗に素直な態度を取ると約束したのですもの」

「そ、その……はい……」

「ふふ」


 お祝いの日はつつがなく過ぎた。

 その、翌日のこと。

 みなはいつも通りの日常に戻り、それぞれの仕事に勤しんでいた。

 朝議を終えて着替えを済ませた涼葉と共に昼餉を食べ終わった菊斗は、涼葉のそばに座ってゆったりくつろいでいたのだが、そこに急ぎの文が届けられた。

 差出人は、上津島春哉。今、慈浄殿へ向かっている最中だという。


「義兄上が……? 何の御用でしょう」

「書かれていないわ。文字も慌てて書いたような筆跡ね。……嫌な予感がする」


 じきにばたばたと外廊下で足音がした。春哉が挨拶をしたので、涼葉は侍女に御簾を上げさせた。


「失礼致します、上様」

 春哉は膝をついて頭を下げ、奏上した。

「緊急の御報告がございます」


 その落ち着いた声の中に、ただならぬ緊迫感を読み取った菊斗は、心臓がどくんと脈打つのを感じた。

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