第6話 提案
その日、涼葉は久しぶりに大内裏から出て、東に位置する帝室関係者の住居、
せっかくの機会なので、着物は気合いを入れて選んだ。単衣は鮮やかな青、袴は少し暗めの群青。打衣は灰色とし、表衣は真っ白な生地に白群の六花模様のものとした。帯は藍色、そして裳は薄水色。
全体的に青系と白系を織り交ぜた、冬らしい色合いになったと思う。宝冠は、今日は無しとする。姫帝としてではなく、ただの上津島涼葉としてお邪魔するのだから。
兄の邸宅の前で輿から下ろしてもらい、義姉の房まで案内してもらう。失礼します、と足を踏み込むと、ぴしりと背筋を伸ばした長い黒髪の女性が深々と伏して礼をした。
「ようこそおいでくださいました、上様」
「こちらこそ、お招きいただき誠にありがとうございます、義姉上」
涼葉も座って礼をする。軽く、上品に、丁寧に。
顔を上げた二人はウフフと笑い合った。
「こうして来てくださるのはお久しぶりですね、涼葉さん。お話できるのを心待ちにしておりました」
「こちらこそ楽しみにしていました、紅香さん」
紅香はその名の通り紅色の単衣を身につけていたが、それ以外は彩度の低い落ち着いた色合いの服装を重ね着している。
二人で火鉢に当たりながらちょっとした雑談をした後、涼葉の悩みを聞いた紅香は、しばらく静かに考える素振りを見せてから、こんなことを口にした。
「独占欲や支配欲というのも、恋心には関わりが深いものですからね……」
「えっ?」
「好きな相手を何もかも自分の思い通りにしたいと考えてしまうのも、一つの愛の形ですが……もし対等な夫婦でありたいのならば、少なくともその考えは捨てなければなりませんね。特に、涼葉さんは帝でいらっしゃいますから、尚更です」
「思い通りに……支配を……?」
言われてみれば確かに、涼葉は菊斗のことを自分好みに育てたいと思っていたし、何なら堂々と口に出してそう言ってきた。菊斗の意思も確認せずに。
それでいて対等でありたいと願うのは、言われてみればおかしな話だった。
「では、どうすればいいのでしょう……」
「涼葉さんのお気持ちに関しては、私にできることは限られておりますが……菊斗さんとの接し方に関しては、一つ提案できることがございます」
「本当ですか!? 一体何でしょう!?」
ずいっと身を乗り出した涼葉に、紅香は仄かに笑って答える。
「簡単なことです。夜、なかなか会えない男女がやる事と言えば一つ。歌を詠んで送り合う事です」
「ああー! なるほど!」
涼葉は両手を合わせた。
「そういえばそうでしたね! どうしてこれまで思いつかなかったのでしょう!」
「涼葉さんはお立場もありますから、
「素晴らしいです! 早速明日から試してみます! ありがとうございます!」
歌の中でなら、涼葉の気持ちを遠回しに菊斗に伝えることができる。距離を少しでも縮めるためにも、これは有効な手段であるに違いない。
その時、失礼します、と外から声がした。侍女が御簾を上げると、別の侍女が
「
「まあ」
佐野原明海は、亡くなった先代帝であり涼葉の兄でもある上津島
「こんな話をしていては、お気を悪くされるでしょうか」
「いえ、大丈夫でしょう。お迎えしますね」
紅香はさらさらと返事を書いて託す。間もなく、「お邪魔いたします」と言って、明海が房にやって来た。
優雅に波打つ豊かな亜麻色の髪を持つ明海は、橙色を基調とした鮮やかな色合いの着物をまとっていた。
「ようこそいらっしゃいました」
「お久しゅうございます、義姉上」
「お二人ともこんにちは。──涼葉さんもいらっしゃるなら丁度良かったわ。椿餅をたくさん頂いたの。温かい麦湯と一緒に頂きましょう」
椿餅は、米をひいて作った粉を、樹液から作る
「わあ……! それはありがとうございます!」
涼葉は目を輝かせた。甘いものは嫌いではないし、ちょうど温かい飲み物も欲しかったところだ。
「では準備ができるまで、少しお話をしましょう。実は涼葉さんが」
紅香はこれまでの経緯をざっくりと明海に伝えた。涼葉はちょっぴり気まずい思いで静かにそれを横で聞いた。
「ふふっ」
明海はおかしそうに笑った。
「恋のお悩みだなんて、涼葉さんったら、お可愛らしいところもおありなのですね」
「はわ……す、すみません」
「あら、何も謝ることなどございませんわよ。私にもぜひ頼ってくださいな」
「はい……」
そんな話をしている内に、椿餅と暖かい麦湯が運ばれてきた。明海は侍女たちに「ありがとう」と言って、出されたものを涼葉と紅香に勧めた。
「さあお二人とも、遠慮なさらずに召し上がって」
「ええ、ありがたく頂戴します」
「いただきます」
麦湯でゆったりと口を潤し、椿の葉で挟んだ餅菓子を頂く。
「まあ、おいしい」
「でしょう。そうだわ、これなら
「良いのですか?」
「もちろんですよ」
「ありがとうございます」
穂垂は、紅香と春哉の間にできた男児であり、涼葉の甥っ子に当たる。帝位継承者たる太子でもある穂垂は
因みに、明海に子はない。一度、藤生との間に子を授かったものの、死産であった。直後に藤生も病で亡くし、一時は塞ぎ込んでいたらしい。
その時には涼葉は次期帝に指名されたために慌ただしくしており、明海に寄り添うことができなかった。
だが明海は今はこうして明るく振る舞っている。その胸中は分からないが、いつも晴れ晴れとした笑顔を絶やさない明海に、涼葉は敬意を払っている。
さて、涼葉からより詳しい話を聞き出した明海は、にこにこと満面の笑みを浮かべた。
「それでしたら、私に良い案がございますよ」
「本当ですか!? 一体何でしょう!?」
「涼葉さんは、
「宇根……?」
「いえ、ございませんが」
「ではお二人で行幸なさるのは如何ですか?」
「なるほど……二人で旅をするのも悪くないですね。しかし、どうして宇根なのですか?」
名所なら他にもたくさんある。中でもわざわざ場所を指定した理由は何だろう。
ふふ、と明海は笑った。
「宇根へ行かれるならば、温泉に入られるでしょう」
「ああ……はい。宇根は温泉の名所だと聞いています」
「温泉への行幸は良いものです。私は夫と
「そうなのですね」
「温泉は、涼葉さんには特に良いと思うのです。宇根ならば倖和京からそう遠くはありませんし、何より、日のある内に菊斗さんと薄着で距離を詰められるではありませんか」
「は……はわーっ!?」
予想外に大胆な方向から攻められて、涼葉は一気に恥ずかしくなってしまった。隣で紅香が耐えきれなくなったように「フッ……」と吹き出した。
「そそそんな……!! 私、まだ菊斗の寝間着までしか見たことがありませんのに……!!」
「だったら尚更ですわ。浴衣姿をご覧になる、良い口実ができますもの」
「そ、そんな、そんなの……」
涼葉は右手で顔を覆った。
「見た過ぎる……!!」
今度は明海と紅香が同時に吹き出した。
「でしたら、決まりですね。行幸をご提案なさいませ」
「そうします! ありがとうございます!」
そういうわけで、夜は歌を詠んで心理的距離を少しずつ縮めながらも、行幸に出て温泉で物理的距離を急接近させるという、二つの計画が始動した。
翌日の午後、涼葉は菊斗に歌の指導をしながら、そっと菊斗の顔を窺った。
星流殿には、まだ来てくれないのですか。
いつになったらいらっしゃいますか。
──なんて、面と向かって聞けない。
でも今日の涼葉には策がある。あとほんの少しの辛抱だ。
お勉強が一段落して菊斗が帰る前に、涼葉は背筋を伸ばして菊斗と向き合った。
「実は、私の方から提案が二つあります」
「はい」
菊斗は真面目くさった顔で涼葉を見上げる。
「一つ。今度、共に遠出をしてみませんか。──宇根へ」
「行幸なさるのですか」
「ええ。菊斗、あなたはここに来てから、内裏にこもりきりでしょう。私も少し羽を伸ばしたくなりました。気晴らしをした方が良いと思いました」
「お気遣いありがとうございます。ぜひお供させてください」
良かった。約束を取り付けたら、後は行ってしまえば何とかなるに違いない。
「もう一つ。──今夜から、歌を交換しませんか」
「歌を?」
「世の男女はよく歌の送り合いをするとか。ですから今宵から、私は菊斗に歌を送ります。菊斗には返歌をお願いしたいのです」
「は、はいっ」
菊斗は気張った表情になった。
「涼葉様の御歌に相応しい返歌ができるよう、精進します」
「良かったです。では、お願いしますね」
「承知しました!」
無事に了承を得られて、涼葉は満足だった。早速その夜、星流殿にて、さらさらと紙に歌を書きつける。
待宵の冴ゆるに
「待宵」は月を待つという意味合いの他に、自分の元に恋人が来るのを待つ意味がある。寒くて衣を重ね着しても、あなたが来てくれないので心は寒いままです、というような意味合いだ。
じきに、菊斗からの返歌が届けられた。
霜夜にて
寒い夜に一人で眠るあなたを、一枚の衣になって温めて差し上げたいです──ということは、本心では菊斗は星流殿に来たいと思っているのだろうか?
「だったら来なさいよ!」
涼葉は思わず拳で布団を叩いてしまった。ああ、いけない、こんなことで取り乱しては。
まあ、今はこれでいい。じきに行幸の日を迎える。その時になるまでに涼葉は、菊斗への歪んだ気持ちを叩き直す。歌を送り合って、ごく普通の夫婦らしい関係を一から作り上げる。
そしていざ宇根に行く日になったらば、改めてきちんと菊斗と向き合うこととしよう。
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