第7話 行幸
帝が倖和京を出て、他所へ視察や休養や遊覧に行くことを、行幸と呼ぶ。
宇根は都からさほど遠くはないが、それでもちょっとした騒ぎになった。涼葉と菊斗それぞれの牛車の他にも、輿だの荷物だの侍従だの色んな準備が必要で、みんな忙しそうだった。
はらりはらりと雪が降る雲の下、行列は倖和京の南端である
涼葉は牛車に揺られ、そわそわと濃紺の表衣の襟を直したり、宝冠の位置を整えたりしながら、牛車が止まるのを黙って静かに待つ。
到着後、温泉の横に建てられた館にて、白湯を頂いて旅の疲れを癒した涼葉は、桐菜たちの手を借りて湯浴み用の着物である浴衣に着替えた。無地の生成り色で作られた、ごく簡易で肌触りの良い衣だ。
「これだけ薄着だと、さすがに寒いわね……」
そんなことを呟きながら温泉まで案内してもらう。
もうもうと湯気の上がるそこは、大きな石が綺麗に丸く並べられた天然の露天風呂だ。
手入れされた庭と言い、その向こうに見える山々と言い、眺めもとても良い。
手桶で湯を掬って体を軽く慣らし、お湯に浸かった涼葉は、石にほんのり積もった雪を指でさらったりしながら、菊斗が来るのを待った。髪を結い上げてもらった頭は冬の冷気でひんやりと涼しいのに、肩まで湯加減の良い風呂に浸かった体はぽかぽかと温かく、何とも心地がいい。
「お邪魔します……」
そんな細々とした声が聞こえてきたので、涼葉はどきりとして湯煙の方に目をやった。ぱしゃぱしゃと水音がして、菊斗が入浴する気配がした。
「長旅お疲れ様でした、涼葉様」
そう言いながら湯煙を通り抜けて涼葉の前に現れた菊斗の姿は、いつもよりほっそりとしていて、少年らしさがより際立って見えた。湯を浴びたために浴衣はその体にぴったりと張り付いていて、鎖骨や肋骨までくっきりと見える程であった。
「はわわわわわ……」
涼葉は両手で鼻と口を覆った。いけない、このままでは鼻血が出てしまう。
「涼葉様?」
菊斗が首を傾げる。涼葉は軽く咳払いをした。
「何でもありません。菊斗こそ、お疲れ様でした。ここでゆっくりと疲れを癒やしましょう」
「はい」
菊斗は大人しく涼葉の隣まで来て湯の中に座った。改めて見ると本当に可愛らしい。しかし、結婚式を挙げた時より、若干の成長が見られる気がする。毎日顔を合わせていたので分からなかったが、こうして見るとあの時より少しだけ変化したような……。
「菊斗、髪の毛が伸びたのですね」
涼葉が指摘すると、菊斗は嬉しそうに頷いた。
「はい! 背丈も少し伸びたんですよ」
「まあ、そうなのですか?」
涼葉が覗き込むと、菊斗はそれとなく目を逸らしてしまった。せっかくの機会なので、涼葉は思い切って尋ねることにした。
「菊斗、率直に答えて欲しいのですが……私が近づいたり、私に触れられたりするのは、嫌ですか?」
「えっと」
菊斗は目を泳がせた。
「全部が全部、嫌なわけではないです。ただ、恥ずかしくなってしまうので……少し、なら」
「そうなのですね」
涼葉は肩の力を抜いた。
何だ、恥ずかしがっていただけなのか。夫婦なのだから何も気にすることはないというのに、可愛らしいことだ。そういうことなら、ゆっくり慣れてもらえばいいだろう。
それはそれとして、菊斗の言う少しとはどの程度だろうか。
「たとえば今、私に寄りかかることはできますか?」
「涼葉様に……!? そ、そんな無礼はできません」
「私は構いませんよ。菊斗が嫌でないのなら」
菊斗は頬を梅の花のように赤らめて「では……」と小さな声で言った。
「失礼します」
涼葉の肩に菊斗の頭がちょこんと触れた。あまりの愛らしさに悶絶しそうなのを我慢して、涼葉は声をかけた。
「もっと体重を預けてくれて良いのですよ」
「あ、あの、はい……」
微妙に肩にかかる力が微妙に強まった。本当に、ごくごく微妙に。
「ふふっ」
涼葉は笑って、菊斗の栗色の髪を一撫でした。──今は、これで我慢。
すっかり温まった涼葉と菊斗は、湯から上がって着替えをし、同じ房で休憩することになった。それぞれ畳の上の座椅子に座る。今度は白湯と共に、
「食べないのですか?」
「いえ、涼葉様がお先に召し上がってください」
「まあ。こんな時くらい遠慮せず、自然体でいてくださいな」
「えっと……」
「では、共に食しましょうか」
涼葉が伏菟を一つ手に取ると、ようやく菊斗も同じようにした。
「いただきます」
菊斗は伏菟を小さく齧りながら食べ始めた。その動作は小動物か何かのようで、何とも微笑ましかった。
その後、いくぶん落ち着いた様子の菊斗だったが、歓談している内に、ふっと表情を曇らせた。
「どうしました?」
「瘴気が……」
「えっ?」
「僅かですが、この部屋に瘴気が流れてきています」
瘴気とは病魔が発するもので、長らく吸い込んだり晒されたりしていると、病に罹る。空中に漂う灰色のもやの姿をしているが、これを視認できる人物は限られており、涼葉もよく見ようとしなければあまり気づかない。その点は病魔と同じだ。
「まあ」
涼葉は片手を口元に持って行った。
「どうしてでしょう。湯浴みには邪気払いの効果もありますのに」
「そうですね。これはきっと弱った病魔の仕業です。気にするほどのこともないとは思いますが……少しでも涼葉様を危険な目に遭わせる訳にはいきません」
菊斗は袖に手を突っ込んだ。
「
わん、と小さな黒犬が返事をして、目にも止まらぬ速さで御簾の向こうに消えた。そして、十も数えぬ内に瘴気は跡形もなく消え去り、陸蟲が死んだ病魔を咥えて戻ってきた。
赤黒い肌に一本角を生やした、醜悪な顔つきの病魔は、陸蟲よりやや体が大きかった。
「ありがとう。食べていいよ」
菊斗の許可が出た途端、陸蟲は体格に見合わぬ大口を開けて、病魔を丸呑みにしてしまった。
「よくやったね。戻っておいで」
陸蟲はちっぽけな尻尾をしきりに振りながら、菊斗の袖の中へと飛び込んだ。
「ありがとうございます、菊斗」
涼葉は菊斗の頭を撫でようとしかけて、はたと思いとどまった。
温泉では思わず一撫でしてしまったが、考えれば「よしよし」は少し子ども扱いしすぎだったかもしれない。桐菜の言うところの、幼い弟のように見ている、というものだ。
もっと夫婦らしい関係性になりたいならば、これはよくない気がする。
対等に、対等に。
涼葉は目を瞑ってそう念じた。
菊斗は、夫として涼葉を守るべく、こうして霊力を使ってくれた。
気持ちを鎮めて、瞼を上げる。
「はわ……っ!?」
涼葉は今度は両手を口元に持って行った。
何だ、この感情は。
菊斗にこれまで感じていた、胸がきゅんとするような感覚とはまた違った何か。何だか菊斗が、頼もしく見えてきたような気が……。
「どうなさいました?」
小首を傾げて涼葉の様子を窺う菊斗の可愛らしい仕草を見て、涼葉は我に返った。
「いえ、心配には及びません。ただ、菊斗が私のために頑張ってくれたので、嬉しかったのですよ」
えへへ、と菊斗は破顔した。
「涼葉様に喜んで頂けて何よりです」
「まあ」
こうして見ると、菊斗はどう考えても可愛らしい少年なのに。
さっきのあれは、一瞬だけ胸を打ったあの気持ちはもしや──これまでのような慈しみや愛おしさではなく、あの、巷で言うところの──恋心?
まさか、こんな子どもに、この自分が?
でも、対等な夫婦関係を望むなら、これがむしろ正常と言える。
普通の人間は、恋に思い悩み、ときめいたり落ち込んだりと、気持ちを振り回されるものだ。数多の書物や歌にはそう書かれている。
恋、か。
そんなもの、自分に縁があるとは思っていなかったが……。
こうなったら、菊斗にも自分にときめいてもらわないと気が済まない。この先、涼葉ばかりが振り回されることになるのは、矜持が許さない。
何せ、まだ菊斗は、涼葉のことを妻としてではなく、姫帝として尊敬して慕っているだけのように見える。そういうのは、恋とは言えないと思う。
確かに自分は、立て続けに身内や婚約者を亡くしたために、新妻にしては年嵩だし、十四の少年と比べると尚更釣り合っていないけれど、そんなことを気にしても仕方がない。
きっと手に入れて見せよう。今さっきこの手で掴みかけた、真実の愛というものを。
それでこそ、対等で理想的な夫婦というものだ。
翌日、牛車に揺られて軽く宇根の市井の様子を見て回った涼葉は、無事に倖和京まで帰還した。
その時には涼葉はもう、愛だの恋だのにかまけている場合ではなくなっていた。
宇根の地も、帰りに通った場所も、瘴気が濃かった。
大内裏は神聖な場所で、祖良御魂神の御加護により被害を免れていたが、外に出て実際にこの目で見ると、事態の深刻さがより差し迫ったものとして感じられた。
ちらりと目にした市井の人々の姿も、元気そうには到底見えなかった。
誰も彼も痩せ細って、ぼろの服を着て、陰鬱な表情をしていた。
人がばたばた死ぬものだから、働き手がいなくなって、困窮しているのだ。食うにも着るにも難儀するほどに。
もちろん、民の窮状は、報告を聞いて知ってはいたが、他人から伝え聞くのと、こうして目にするのとでは、全く違う。
自分が何とかしなければ、と涼葉は軽く拳を握った。
民を守れずして、何が姫帝か。
いずれは涼葉にも、身を挺して病魔や病鬼に立ち向かわねばならない時が来るだろう。
もう失敗は許されない。
先代帝である兄の藤生も、先々代帝である父の
それなのに、疫病は未だあのように蔓延り続けている。
今度こそ、涼葉が何とかしなければ。
この国の民を守るためにも、上津島氏が祖良御魂神に愛想を尽かされないためにも。
父や兄ほど霊力を持たない涼葉だが、己の無力さを嘆いている暇は無い。自分にできる最大限のことをして、必ずや病鬼を葬り去る。
涼葉自身が、幸せを追いかけ、望む生き方を手に入れるのは、帝としてやるべき仕事を片付けてからの話だ。
その目標が達成される日まで、腑抜けたことは言っていられない。
涼葉は気を引き締め直した。
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