第二帖 姫帝、助言をお求めになる事

第5話 限界

 疫病の猛威が衰えることのないまま、今年もまた空光国そらみつのくにに木枯らしが吹き始めた。

 死人が出過ぎて農作業が追いつかず、毎年のような凶作に悩まされる民に、寒さという重しがのしかかっている。

 朝廷は、この問題を早急に解決する必要に迫られている。民は帝による救済を待ち侘びている。


「みょわあああん!」


 その帝が眠る星流殿せいりゅうでんから、早朝の冷たい空気を裂く奇声が上がったので、侍女たちが何事かと駆けつけてきた。


「上様、如何なさいました」

 至って冷静に問いかけた桐菜に、姫帝たる涼葉は縋りついた。


「限界! 私もう、半月と九日もの間、菊斗を『よしよし』できていないの!」

「左様でしたか」

「あの子は『今しばらく』って言っていたけれど、あとどれくらい待てばいいのかしら!」


 涼葉は両手で顔を覆った。


「毎日あんなに近くにいるというのに、一撫でもできていないのよ! 頭がどうにかなりそう!」


 そう、菊斗は昼間であれば、慈浄殿じじょうでんに参じて、涼葉に教えを乞うている。それもほぼ毎日。しかし、夜の訪いがぱったりと絶えてしまった。

 涼葉に触れられるのが嫌なのかと思うと、昼間であっても頭すら撫でられないし、手も取れない。これまで涼葉は何とか理性を保ってきたが、それもそろそろ難しくなってきていた。今は菊斗に嫌われたくない一心で、我慢に我慢を重ねている。


 もちろん涼葉には、菊斗に星流殿に来るようにと命じる権利はある。しかしそんなことを無理強いしたくはなかった。一度でもそれを命じれば、菊斗との間には埋めることのできない溝できてしまうだろう。それに、はしたない人だと思われたくはない。


 涼葉は、純粋に菊斗を好きでいたいし、純粋に菊斗に好きになってもらいたかった。形ばかりの夫婦でなく、愛のある関係を築きたかった。

 だから、なるべく長くそばにいてもらうことによって、自然と自分に好感を持ってもらうように誘導するつもりだったのだ。今だってそのつもりで接している。


 それなのに何故、こうなってしまったのか……。菊斗の気持ちが分からない。


「うう、どうしてだと思う?」

「申し訳ないですが、私は真実を存じ上げない上、これは曖昧な問題ですので、お答えできかねます」

「そうよね……」

「あまり気落ちなさらず、気長にお待ちになられるのがよろしいかと」

「そうするわ……」


 そう、呑気に落ち込んでいる場合ではない。今日も今日とて朝議がある。姫帝として、気を引き締めなければ。

 涼葉はいつも通り、空色の打衣に黒茶の袍を来て、仕事に向かった。


 この頃、朝透院ちょうとういんでの朝議では、この冬の乗り越え方と、来春から打つべき施策が話し合われていた。


「帝室の米倉をまた一つ開けます」


 一通り報告を聞いた涼葉は、長考の末にそう断言した。房に緊張が走る。


「しかし、それでは蓄えは減る一方では」

「その通りです。よって来春より、上津島春哉太政大臣は、柏龍はくりゅうを使って各地の天候を整え、稲作を全面的に助けて下さい。天変地異への対応は私の葵龍きりゅうに一任させます」

「承りました」


 春哉は即答したが、佐野原月路左大臣は難色を示した。


「畏れながら、それで対応しきれるのですか。現状、ただでさえ使える龍は二匹のみ。それも彼らは先代帝の花龍かりゅうよりお力が弱くていらっしゃる」

「失礼ながら、いささか口が過ぎますぞ、月路殿」

 いつものように、久保山泉雲右大臣がこれに突っかかる。

「姫帝なくしてこの国は成り立たない。礼節を忘れてもらっては困りますな」

「私は事実を述べたまでです。今は一刻の猶予もございません。こんな時に話を逸らさないで頂きたい」

「それならば貴殿が始めから口の利き方を弁えれば良いだけの話ですな」


 涼葉は欠伸を噛み殺した。本当にこの年寄りたちは、毎度毎度飽きもせず下らない言い合いをしていて、やかましいことこの上ない。たまには露骨な派閥争いにかまけずに、仕事に専念して欲しいものだ。

 かと言って無理に喧嘩を止めても、逆に涼葉が苦言を呈されてしまう。何しろ月路は今や涼葉の義父であり、泉雲に至っては涼葉の実の祖父なのだ。


 因みに龍たちは現状、二匹で全国の天候不順と天変地異を抑える役目を担っている。しかし祖良御魂神そらのみたまのかみが帝室の者にいちいち一匹ずつ性質の異なる龍を授けるのは、こうして役割分担をさせるためという理由もあるはずだった。

 雨乞いなどが得意な柏龍を農業に専念させ、万が一に備えてより力の強い葵龍に災害の防止を担当させる。それなりに合理的なことだと、涼葉は思っていた。


 議論は長引いたが、ひとまず龍たちの仕事については納得してもらえた。一安心して慈浄殿に戻る。松葉柄の上衣に黄色の帯を着けて、菊斗の呼び出しと昼餉の準備を侍女たちにお願いする。


 いつも通りやってきた菊斗は、いつも通り可愛い。小さな体も、伸び始めた栗色の髪も、せっせと強飯を口に運ぶ食べっぷりも。

 こんなに可愛いのに撫でられないなんて……。涼葉は粛々と食事を終え、菊斗に向き直った。


「では昨日の続きということで、宸洲語をやっていきましょう」

「はい」


 涼葉は巻物をくるくると広げた。


 宸洲国は、小さな島国である空光国とは海を挟んで隣の大陸に位置する超大国である。空光国の何十倍も領土が広く、歴史も長く、文化を高度に発展させており、その影響力は計り知れない。

 空光国の文字は宸洲語から借用し改変したものだ。古代の文献に至っては宸洲語でしか書かれていない。これを学ばずしては、一人前にはなれないのである。


「では、確認しましょう。この詩の解説を聞かせてください」

「分かりました」


 菊斗は真剣な顔で巻物を見つめた。



 寒風舞雪花

 在峻中松佳

 月照亮我房

 孤寂眠不可



「……詩の様式は、五語が四句ある五言絶句。偶数句の末尾『佳』と『可』で韻を踏んでいます。起承転結の型になっており、起句は……寒風に雪花の舞ふ。承句は、峻中に在る松のし。転句は、月の我が房をあきらかに照らす──場面が夜の室内に移っています。結句は、孤にして寂しく眠ることあたはず。総じて、冬の情景と心情を表した詩です」

「ええ、概ね正解です。素晴らしいですね」


 菊斗の覚えの早さにはいつも驚かされる。


「ありがとうございます」


 菊斗はにこにこと嬉しそうに笑っている。こうして見ていると本当に可愛らしく、ますます涼葉を避けている理由が分からなくなる。

 勉強を早めに切り上げた。最近はそうすることが多い。菊斗のためでもあるし、涼葉とて自分で本を読んだりする時間を確保できて良い。


 涼葉は、新しく書き写させた宸洲語の文学を取ってもらおうとしたが、その前に桐菜がそばに寄ってきてこんなことを言った。


「申し上げます。勝手ながら、私の弟であり、上様が菊斗様の世話役補佐に任命された夕真から、菊斗様に関する話を聞いて参りました」

「えっ!?」


 涼葉は自分でも信じられない俊敏さで桐菜に向き直り、身を乗り出した。


「何と言っていたの!?」

「まず、菊斗様は上様をお嫌いではないそうです」

「そ、そうなのね」


 良かった。それは本当に良かった。


「その上で、菊斗様がお悩みになっている事はお二つ。一つは、『上様に男として見られていない』というものです」

「……? それは、どういうことなの?」

「察しますに、上様は菊斗様の事を、幼い弟御のように見ていらっしゃるのではないでしょうか」

「……!」


 涼葉はしばらく口元に手を当てて考えてみた。

 確かに、涼葉が菊斗に抱いている感情は、どちらかというと恋情ではなく慈愛である。菊斗を撫でていると、ときめきで胸がいっぱいになるし、非常に気持ちが昂るのだが、慈しむような気持ちが大きいのもまた事実だ。


「……それは、そうかもしれないわね」

「二つ目は、『上様に依存しすぎるのは夫として不甲斐ない』というものでした」

「依存?」

「以前上様は、菊斗様をお育てになると仰いましたが、菊斗様は上様の夫として自立した者になりたいとお考えのようです」

「まあ……!」


 そういうものなのか。確かに涼葉は、自分の理想を菊斗に押し付けるばかりで、菊斗の理想に寄り添ってこなかったような気がする。

 そもそもそんな発想が無かった。

 涼葉はこの国の最高権力者であり、全てを自分の手で支配する責任と権利があると、無意識に思っていた。だから、夫たる者も自分の手で制御し、従順な人間に育てるべきだと考えていた。


 だがそれは、菊斗にとって好ましくない状況なのかもしれない。

 そもそも涼葉は、菊斗とは愛で結ばれた夫婦でありたいと願っているはずだ。互いに好き合っている素敵な関係の夫婦に。

 それでいて菊斗の意思を蔑ろにするのは、確かに良くなかった。


 しかし涼葉が姫帝であるという事実は変わらない。菊斗はただの入婿であり、涼葉の方が圧倒的に偉い。

 これを無視してお互い当たり前に愛することができるようになるには、相応の努力と工夫が必要になってくる。涼葉にも、菊斗にも。

 

 どうしたら、この厳然たる上下関係を超えた愛を手に入れられるだろうか。考え込む涼葉に、桐菜は話を続ける。


「これを踏まえて、先ほど私は占いを行なったのですが」

「占いを……!? 本当に!?」


 常岩と同じく竹井沢氏の血筋を引く桐菜にも、多少の占いの才能がある。涼葉は稀にこれに頼ることがあった。


「はい。結果、久保山紅香べにか様にご相談なさるのが吉、と出ました」

義姉上あねうえに?」


 兄の春哉の妻である紅香は、確かに春哉と大層仲が良い。そして涼葉とも親しく接してくれている、信頼の置ける相手だ。

 一度話してみるというのは名案かもしれない。


「ありがとう、桐菜! そうしてみるわ。早速、ふみをしたためましょう。書くものを用意してくれる?」

「承りました」


 書き上がった文に、桐菜はさっと目を通した。


「紅香様をお呼びになるのではなく、上様がご自身で出向かれるのですね」

「だって、非公式の私的な面会で、お呼び立てなんてできないわ。ああ、そうだわ、兄上にも文を渡しておきましょう」


 涼葉はさらさらと一筆だけ春哉に宛てた文を記した。


「葵龍、よろしく」


 ギャギャギャ、と小さな緑色の龍が出現し、春哉宛への文を咥えて飛んでいった。

 紅香宛ての文の方はきちんと畳んで侍女に託した涼葉は、そわそわしながら返事を待った。


 日が傾く前に、紅香からの返事が届けられた。

 そこには、三日後の午後においでください、と書かれていた。お話しできるのを楽しみにしております、との事だった。


「よし……!」


 涼葉は一筋の光が見えたような気分だった。来たるべき日に備えて、聞きたいことを整理しておかねばなるまい。

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