第4話 相談
菊斗が涼葉の元に入内してから、
いつも朝早くから習字や琴の練習や読書に取り組む菊斗だったが、今日は世話役補佐の夕真から珍しく蹴鞠に誘われた。戯れに二人で真似事でもしませんか、と。
「あまり根を詰めるのも良くないですよ。たまには体を動かしませんと」
菊斗より頭一つ分だけ背が高く、菊斗よりは長い赤茶の髪を一つにまとめた夕真は、歳が菊斗の一つ上で、最も打ち解けやすい相手だった。
菊斗は後ろに引きずる裳を外してもらうと、
侍従たちは菊斗からやや距離を取って様子を見ている。夕真は白い鞠を持ってくると、行きますよ、と右足の甲で器用に鞠を蹴り上げた。
「ひい、ふう、みい、よっと」
正確に放られた鞠を、菊斗は何とか受けた。
「ひい、ふう、みいっ」
「ひい、ふう、みい、よっと」
「ひい、ふうっ」
「ひい、ふう、みい、よっと」
「ひいっ」
菊斗がどんなに見当違いの方向に鞠を蹴飛ばしても、夕真は走り回って確実に右足を伸ばして受け止めてみせる。
「ひい、ふう、みい、よっと……まずはここまでにしましょうか」
「うん……」
夕真は平然と鞠を手に持っていたが、菊斗は肩で息をしていた。
「そちらの長椅子にお座りになりますか」
「そうする」
夕真は他の侍従から
「どうぞ、お座り下さい」
「うん、ありがとう」
侍従たちが相変わらず菊斗から少し離れたところに控えているのを見た菊斗は、何となく皆の意図を察した。
「あの」
「何でしょう?」
「ちょっと相談したいことがあるのだけど」
「私で良ければ、何なりと」
夕真は長椅子の下の玉砂利に片膝をついて菊斗を見上げた。
「涼葉様とのことで悩んでいて」
「左様でしたか」
「そうなの。いつもね、
菊斗が切り出すと、夕真が目に見えて動揺した。
「お待ち下さい。何なりととは申し上げましたが、それは私が聞いても良いことなのですか」
「別に変な事は言わないから安心して」
「そう仰られましても」
まあ閨でのことを言う事自体が変だというのは百も承知だ。だが内裏での生活で菊斗に深刻な悩みがあるとしたら、その一点のみなのだから仕方がない。
菊斗が何かしら思い詰めているのを気にかけて、侍従たちがこうして時間を取ってくれたのだから、何も解決しないままという訳にもいかない。
「僕ね、星流殿でいつも……涼葉様にただただ、『よしよし』されるの……」
「『よしよし』?」
「そう。うんと幼い頃に、母上がしてくれたみたいに……」
「ああ」
夕真は合点が行ったようで、小声で返した。
「男として見て頂けていない、ということですか」
「そうみたい」
「菊斗様としては、それだけではご不満なのですね」
「そう、なんだけど、それだけじゃなくてね……」
菊斗は己の頬が熱くなるのを感じた。こうしてすぐに赤くなってしまう癖はどうにかしたい。
「『よしよし』は、嫌じゃないというか、嬉しいんだ。ただ、こう、母上に撫でて頂いた時は、何だか安心して眠れるような気持ちだったけれど……涼葉様に『よしよし』して頂いていると、物凄く、その、どきどきしてしまう……。最初の夜なんか、一睡もできなくて……つまり……」
「……」
「もう駄目だ……僕、最初に『よしよし』されてから、どこか調子がおかしい。こういうのって、男として、夫として、何か……何かが駄目な気がする。涼葉様は僕を子どものように可愛がって慈しんでいらっしゃるだけなのに、僕の方だけ変な気持ちになっちゃって。僕、ごく普通にお慕い申し上げられたらって思っていたのに……これ以上『よしよし』されたら、何かが違う方向に行ってしまいそうで……」
結局、変な話になってしまった。菊斗はますます顔を赤らめた。夕真も面食らったような顔付きをしている。
「まあ……人によって好みはそれぞれですし」
「そうかもしれないけれど、お相手は姫帝でいらっしゃるのだから、こう、もっと健全なやり方が、あるんじゃない、かな……」
「……否定はしませんが……。健全と言うならば、菊斗様、こちらにいらしてからというもの、毎晩のように星流殿に参じておられますよね」
「うん。涼葉様がそうお望みだから」
「ということは、そうするようにとお命じになられたのではないのですね?」
「えっ?」
菊斗は急いで、涼葉の発言を思い返してみた。
──もし嫌でなければ、今宵も私のところに来てくれませんか。
「確かに、涼葉様はいつも、嫌でなければ来て欲しい、と仰って……」
「それでしたら、菊斗様がお一人の夜を過ごされる日が少しばかりあっても、上様はお気になさらないのでは?」
「そう、かも……」
菊斗はようやく、己の心から不安が剥がれ落ちそうな予感がし始めた。
「そう、そうだよね。僕、涼葉様ときちんとお話をしてみるよ。夕真、相談に乗ってくれてありがとう」
「お力になれたようで光栄です」
夕真は嬉しそうに笑った。
そういうことで菊斗は一旦、星流殿に参じ、改まって涼葉と向き合った。
「涼葉様。折り入ってお話があります」
「あら、何でしょう」
「あの」
菊斗は気まずさから、少し顔を伏せた。
「すみませんが、しばらくの間、僕は虹希殿で……一人で眠らせて頂きたいのです」
「えっ」
菊斗がそろりそろりと目線を上げると、涼葉は予想以上に驚いている様子だった。口元に手を当て、目を見開いている。
「えっと、すみません、僕は……」
「もしかして、『よしよし』は嫌でした?」
涼葉はどこか慌てた様子で、意味もなく腕を上げたり下げたりした。
「代わりに『ぽんぽん』にしましょうか?」
「ぽん……?」
「このような感じで」
涼葉は急に身を乗り出すと、菊斗を両腕で優しく抱きしめた後、頭や背中を右手のひらで優しく叩き始めた。
「良い子ですね、菊斗」
「ぴゃっ」
思わず変な声が出た。抱きしめられるのも、赤子のように「ぽんぽん」されるのも、正直なところ非常に快適で、気を抜くと全身の力が抜けてしまいそうだった。嬉しさと恥ずかしさで菊斗はまたしても顔を真っ赤に染めた。
「涼葉様、その、一度おやめになって頂いても……?」
「まあ、『ぽんぽん』も嫌でしたか?」
「そ、そういうことではなく」
涼葉は手を離した。その表情は少し寂しそうに見えた。
菊斗は深呼吸をして気分を落ち着かせようとしたが、無駄だった。心臓の鼓動は速まるばかりだ。
同時に、子ども扱いされて満足している自分が、ひどくみっともなく感じられた。
ともあれここは何か弁明をせねばならない。そこで菊斗は、何をどう言えばいいのかちっともまとまっていないのに、まだ頭の中がぐちゃぐちゃしているのに、焦って口を開いた。
「これは僕の問題なのです! 何か……覚悟が。覚悟が足りないのです。涼葉様のことは、その、お慕い申し上げておりますが、今のままではきっと駄目なんです。僕はまだ、涼葉様に相応しい男になれていないんです。ですから、不甲斐なくてすみませんが、今しばらくお時間を頂戴したく」
涼葉は静かに菊斗を見つめていたが、やがてこう言った。
「……菊斗は、私に相応しい殿方になりたい、と思っているのですか?」
「は、はい」
涼葉は薄っすらと笑んだ。
「でしたら、何も心配はいりません。私がそのように菊斗を導いて差し上げます。素敵な夫婦関係を築いて差し上げます。菊斗、あなたは私が導くがままに、よく学び、よく遊び、よく撫でられているだけで良いのですよ。ただそれだけで、あなたは理想的な、立派な殿方に成長することでしょう。悩む必要はないのです。全て私に委ねて下さい。そしてどうかこの先も、私のそばにいてはくれませんか。──もちろん、無理強いはしませんが」
菊斗は何故だか、背中がぞわっとするような、不思議な感覚に囚われた。
最初に感じたのは、涼葉の言う通り、全て涼葉に身を任せて、言われるがままになってみたいという衝動。何もかも忘れて、ただただ甘えていたいという思い。
次いで湧いてきたのは、それでは自分の中で何かが決定的に壊れてしまうという危機感。ひょっとしたらすっかり涼葉の手中に収められてしまって、身動きが取れなくなってしまうかもしれないという、ちょっとした恐怖。
理想の夫とはどんな姿なのだろう。菊斗は一体どうなりたいのだろう。
少なくともそれは、幼子のように何もかも言いなりで、ひたすら大事にされるだけで、盲目的に従うだけの人ではない。そのような男になっては、いけない。それではちっとも、涼葉の夫として相応しくない。
──良いですか、菊斗さん。夫として上様をしっかり支えられるような、立派な男子になるのですよ。
婿入りの前の日の晩、母はそう言い聞かせてくれた。そう、支えられるだけではいけないのだ。自分から支えて差し上げられるようでなければ。
涼葉の思い描く未来では、真の意味での夫婦愛は実現しない。
やはり、このままでは駄目だ。
「畏れながら……今しばらく、考えさせて下さい! 失礼します!」
気が付いたら、菊斗はそう言って、慈浄殿を辞していた。
小走りになりながら、両手で頭を抱える。ああ、気持ちの整理がつかない。
今のは、涼葉を傷つけてしまっただろうか? しかしあのまま素直に涼葉を受け入れたら、大変なことになってしまう。そんな焦燥感が菊斗を突き動かしていた。
虹希殿に戻った菊斗は、着物を替えてもらい、用意された布団にぱたりと伏した。
「ううあー」
「菊斗様」
夕真がさっとそばに膝をつく。
「どうしよう、僕、とっても無礼なことをしてしまった」
「何があったのです」
「僕、もしかしたら、無理強いされて涼葉様のところにいましたって、思われちゃったかもしれない……! でも僕、このままじゃやっぱり駄目だと感じて。勉強を見て頂くのはまだしも、何というか……僕はもっと立派な夫になりたいと思っただけだったんだけど、それで涼葉様を傷つけてしまっていたら……」
「……。落ち着いて下さい。大丈夫です。今後もし何かあったら、私が姉の桐菜に頼んで解決してもらいます。今はお休みになって、上様のことについては一眠りしてから考えましょう。それとも、今お話されたいですか?」
「……いい。今は、休むよ……」
「承知しました」
菊斗は仰向けになり、布団を手繰り寄せた。
思えば、早い時間から虹希殿で眠るのは久々だった。天井の模様を見て少し不思議な気分に陥ったが、間もなく菊斗は目を閉じた。
頭の中では、苦悩と後悔がぐるぐると渦を巻いていた。
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