第3話 朝議

 帝の朝は忙しい。

 官僚たちが朝議のために、大内裏にある朝透院ちょうとういんに集う。帝ももちろん朝議に参加する。


 朝議の際の服装としては、黒茶のほうを着用することが定められている。これは宸洲国風の、襟の部分が覆われた上着である。

 その下に着用する打衣は、官位に合わせて色が決まっている。帝は、祖良御魂神にあやかった空色である。宝冠も蒼玉そうぎょくが嵌め込まれたものを着ける。

 尚、動作を妨げる裳は着けない。何も朝議で動き回るわけではないが、単なる仕事上のけじめだ。


 涼葉は侍女たちを引き連れて楚々とした振る舞いで朝透院に向かい、縦に長い房室の一番奥にある玉台に正座して、背筋を伸ばした。

 その居姿は清廉そのもの。姫帝たるもの、公の場ではいついかなる時も凛とした態度でいなければならない。


 次席は帝から見て左側の壁際にあり、ここには太政大臣が座る。現在は涼葉の実兄である上津島春哉はるやがこれを務める。打衣の色は桃色である。

 その次は左大臣、右大臣がそれぞれ左右に座る。左大臣は佐野原氏当主であり菊斗の父君である佐野原月路つきじが、右大臣は久保山家当主であり涼葉の祖父たる久保山泉雲いずもが担当している。打衣はそれぞれ橙色と黄色だ。

 以下、大納言、中納言、少納言、と身分の高い順に席と色が決まっている。


「これより朝議を始めます」

 涼葉はそれだけ言うと、しばらくは議論の行方を黙って見守った。

 朝議において帝はあまり喋る必要がない。政務の詳細を把握している官僚たちによる発言が圧倒的に多い。

 帝は、議論が脇道に逸れた時や、把握しておきたいことがある時、何かしらの意思決定が必要な時などに口を開く。

 例外として、旱魃や水害、地震、噴火などの天変地異に関することは、帝室の血を引く者が使う龍たちで対応できるため、帝も積極的に議論に参加する。


 ただしこの頃の議題は専ら疫病についてであった。

 これは龍だけでは対処しきれない問題なので、他の者の力を借りている。

 官職に就く貴族の中には、まじないやお祓いなどを伝統としている家も多い。その采配を細かく調整し、病魔に対抗するのが、日々の課題であった。


 まずは、現状の報告。久保山泉雲右大臣が、調査結果を取りまとめた巻物を広げる。


「昨日の時点で大きな変化は見受けられませんな。先帝が倖和京より北東に神社を建立されたことが功を奏し、その近辺の病魔は減少しています。逆に被害が拡大しているのは南西の方角でございます。病魔が北東より逃れて移動しているものと思われます。また、病鬼の所在は未だ不明です」

「倖和京より南西には先々帝が神社を建立なされた。その効力が弱まっているということでしょうか?」

 佐野原月路左大臣が問う。

「その可能性はございますな」

「では、そちらに神官を補充する必要がありましょう」

「既に幾人か派遣しておりますぞ」

「それが足りぬゆえ、被害が収まらぬのでしょう。北東が落ち着いた今、より多くの人員を南西に割くのは如何か」

「それで北東の効力が弱まっては元も子もござらん。ここは神職の家系への支援を増やし、新しく神官を派遣するのが良いでしょう」

「何を悠長な。それでは時がかかりすぎる」

「急いては事を仕損じますぞ」


 涼葉は小さく嘆息した。本当にこの二人は仲が悪い。せっかく此度の結婚で佐野原氏と久保山氏の歩み寄りを図ったのに、当主同士がこれでは示しがつかない。だいたい、今も多くの民がばたばたと死んでいるというのに、呑気に喧嘩などされては困る。


「お二人とも、お静かに」

 涼葉が言うと、月路も泉雲もぴたりと口を閉じた。

「神官の養成に力を入れつつ、南西にはまじない師を派遣して病魔を討伐させることで、繋ぎとすれば良いでしょう。──神官については担当の者に任せます。今は南西に跋扈する病魔の対策を話し合って下さい」

「畏まりました」


 病魔は通常は目に見えない上に、どこから来てどこへ行くのかが読めない。よって今の所は、占いを頼りにこれを見極めている。

 占いが得意な家は竹井沢たけいざわ氏である。当主の竹井沢常岩ときわは少納言として朝透院に参内している。

 因みに涼葉の側近の桐菜や菊斗の世話役補佐の夕真は、竹井沢氏の傍系の家の出身だ。


 常岩は都の南西を中心に、特に病魔の多く出るであろう場所についてみなと共有した。議論は再び活発になる。今度は険悪な雰囲気にならずに済んだので、涼葉はただ座って話を聞いていた。


 概ね方針が固まった辺りで、涼葉は再び口を開いた。

「では、各々そのように計らって下さい。これにて朝議を終わります」

 後の細かい調整は下の役人がやれば良い。涼葉の仕事はここまでだ。無駄のない動作ですっと立ち上がった涼葉は、房室を出て、外廊下の朱色の欄干に手を添えた。何とは無しに、庭木の楓の葉の燃えるような赤色を眺める。桐菜たち侍女がそれに付き従っている。


「上様、失礼仕ります」


 声がかかったので、涼葉は振り向いた。


「上津島春哉太政大臣。何の御用ですか」

「単なる私用にございます」

「そうでしたか」


 涼葉はきりりと引き締まった表情を緩めた。


「兄上、如何なさいました?」


 春哉も顔を上げて穏やかに笑んだ。


「何、涼葉について気になる噂話を聞いてね。何でも、自分の手で菊斗様をお育てすると言って、張り切っているとか」

「耳が早いのね。そうなんです。だって菊斗はまだ少しばかり小さいんですもの。それに、共に過ごす時間はたっぷりあるのです。育て甲斐があると思いません?」

「具体的には何をするつもりなのかな」

「それはもう、色々な教養を教え込みつつ、褒めて撫でて可愛がって慈しんで甘やかすのです! 必ずや、私のことを好いてくれて、私の言うことをよく聞く、私好みの素直で良い子に育ててみせますよ」


 春哉の笑みが若干ひきつった。


「それは、何と言うべきか……やや倒錯している気がするなあ」

「そうですか?」

 帝が夫に言うことを聞かせることは、不自然ではないと思うが。首を傾げる涼葉に、春哉は「どうだろう」と返す。

「いずれにせよ、夫婦のことに口出しするのは野暮だったね。すまなかった。とりあえず、引き続き仲良くやってくれると、私は嬉しいよ」

「はい、それはもう」

「よろしい」


 それじゃあまた、と春哉は一礼すると、侍従を引き連れて廊下を去った。涼葉もまた、菊斗に会うべく朝透院を出た。

 今日の着物は、先ほど見た紅葉にあやかって、松葉色の生地に銀朱の紅葉模様の表衣を選んだ。


「今日も昼餉と夕餉は菊斗と食べるわ」

 涼葉は桐菜に言った。

「準備をお願いできる?」


 さて、もりもりとお膳のものを平らげる菊斗を見守り、食休みを取ったら、教育のお時間である。その名と同じ菊の花の紋様の表衣をまとった菊斗を微笑ましく見下ろしながら、涼葉は優しく問いかけた。


「午前中は何をしていたのですか?」

「あの……琴の練習を」

「まあ、熱心なことですね」

「涼葉様と並んで琴を弾いても恥じないくらいの技術を身につけたくて。特に、押し手による音程の間隔を聞き分けられるように、侍従に手伝ってもらいながら色々と試しておりました」

「はうあ……ッ」


 あまりの愛しさに、涼葉は心臓がきゅんと縮むような気持ちになった。


「涼葉様?」

「……何でもありません」

 本当に何事もなかったかのように澄まし顔で取り繕う。


「では、今日も引き続き琴を弾いて過ごしましょうか? それとも別ことをした方が気分が変わるかしら」

「あの、はい、琴は、もうしばらくお待ち頂けると嬉しいです」

「分かりました。では今日は、歌の修練を致しましょうか。はじめに歌集のおさらいをして、できれば詠んで書くところまでやってみましょう」

「はいっ」


 涼葉は『祜吟こぎん歌集』のうち秋の歌がまとめられた巻を手に取った。祜吟歌集は百年ほど前に編纂された短歌集で、季節の歌の他にも、恋の歌、旅の歌、挽歌、雑歌などの名作が、千首ほど収められている。


「どのくらい暗記していますか?」

「暗記は……特にしていません。見たことのある歌が多いとは思います」

「そうですか。これは、完全に諳んじる必要はありませんが、一通り頭に入れておいて、気になった時に冊子をめくって見られる程度になると、とても便利ですよ」

「はいっ。精進します」

「そうですね……こちらには秋の歌が百五十ほど記されています。ざっと見てもらえますか?」

「はいっ」


 菊斗は真剣な顔で冊子に目を通していく。その間、涼葉も何となく恋の歌の三巻目などをめくっていた。


「……読みました」

 菊斗が顔を上げたので、涼葉は手に持った冊子を文机に置いた。

「お疲れ様です。何か、分からない歌はありましたか?」

「いえ、特には」

「では、どの歌が気に入りました?」

「えーっと、ですね」

 菊斗は丁寧に紙をめくる。

「例えば……これとか」



 久方のさやけき月にかがよへる白露の散る秋の野風に



「『久方の』は『月』にかかっている枕詞ですけど……永久に変わらない、というような印象もあって……でも『露』は儚いものですし、最後には風に散ってしまいます。それと、『かがよへる』というのはきらきらした表現ですが、そんな露を散らすのがありふれた『野風』というのも、面白いです」

「なるほど。対比が好ましいと思ったのですね」

「はい……」


 思ったよりはちゃんと理解しているようだ。歌を鑑賞するぶんには、修辞法への理解や物事への感性が備わっている。

 であれば早めに、詠む方も確認したいところである。


 涼葉はまたも熱心に菊斗を教え導いた。菊斗は以前言っていたように、歌を詠む方も多少はできるようだった。しかし、字があまり美しくないのが玉に瑕であった。そこで涼葉は、夕餉の時間になるまで、菊斗の手を取りながら、手習いを行なった。

 まずは涼葉が手本を書き、菊斗はそれを見ながら写していく。


「そこは筆にかける圧をもっと弱く……そう、そうです。見栄えが良くなるように、文字の細さを調整するのです」

「はいっ」

「よく見て真似るのが寛容です。私が書く時の動作もよく観察するように。それと書物を読む際は、内容も肝心ですが、どのように綴れば美しく仕上がるかも見ておくと、参考になりますよ」

「はいっ」


 長閑に時間が過ぎていく。

 秋の日が傾いていくのが惜しい。


 また明日になれば、朝議がある。

 今度は、不毛な言い合いにならないと良いけれど。

 年寄りの男どもの喧嘩を目の前で見物させられるよりは、菊斗と二人きりの時間を楽しむ方が余程良い。


 憂鬱な朝を迎える前に、菊斗をまた星流殿に招いて、心安らかに眠りたいものである。

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