第9話 ヒトの終わりと人の始まり
時間がたち、私は暗くてじめじめした牢屋に入れられていた。部屋の隅から変なにおいがして臭かった。両手には鋼鉄の手錠がかけられて、重そうな分銅が鎖でつながれていた。私の持っていたものは手帳を含め全て没収され、床の湿った液体で茶色く汚れた戦闘服だけは着たままだった。
気が付くと牢屋の向こうから、誰かが私に語り掛けるような声が聞こえた。私はおもむろに立ちあがって、扉に耳をあててその音を聞いた。よく耳を澄まして聞くと、それは録音された音声で、ノイズが入っていてよく聞き取れなかった。大人や子供、低い声や高い声が連続で流れていて、なぜそんなものが聞こえてくるのかはわからなかった。
牢屋の中はほとんど光が入らなかったので、外でどのくらい時間が経過したかはわからなかった。ただ、テレンスと薇の会話では日本に帰る話をしていたため、近いうちに牢屋を出ることはわかっていた。
延々と流れ続ける声が途切れたとき、薇と樹が牢屋の鍵を開けて、外に出るように言った。
「糸君。準備が整ったよ」
分銅の接続は解除されたが、樹が常に銃を構えているため、不自由は変わらなかった。これから何をするのかあまり検討はつかなかったが、私を改心または反省させるか、おそらく処刑のようなことをするのだと予想した。大量殺人を犯してしまったものならば、死をもって罪を償うことも当然視野に入ると思った。
薇は音声を流していたラジカセを手に持って、廊下の先にある部屋に入った。その部屋は他の部屋と同様の大きさであったが、天井から床まで一面が一枚のブルーシートで覆われていた。夜の暗い中で目立たないように、照明はついていなかったが、代わりに床に簡易照明が置かれていた。机も椅子も一切なく、大きな白い布と手術道具と思われるものが整然と並べられていた。
私はあまりの予想とのギャップから、入り口で立ちすくんだ。この空間に入ってしまうと、今まで受けたことのないような仕打ちをされる予感を感じた。私は殺人の罪を詳しく調べられるのだと思っていたが、この様相では絶対にありえなかった。
「さっさと入りなよ」
私が棒立ちしているのを見て、薇が口をとがらせて言った。
「これから君の去勢手術を行うんだけど、血とか吐しゃ物とかで部屋を汚さないようにするためだよ。ほら、ここは王室が管理している建物だから」
「きょ、去勢って」
去勢は男性の性器を切除することで気性の激しさなどを押さえる手術であると、薇は言った。去勢を行うと性不全になるため、手術以降はつがいを作っても子孫を残すことはできなくなるとも付け加えた。他にもインフォームドコンセントなどと言って説明が書かれた紙を渡され、私が男としてできる行為や精神が無くなることが明確に書かれていた。
しかし、さらに薇は重要な事実に私は耳を疑った。
「別に僕はそういう趣味だとかプレイが好きなわけじゃないんだけどね。勘違いしないでくれよ。あくまで君の殺人欲を押さえるための処置だ。僕も男だから怖い気持ちもわからないではない。でも、僕たちが君にそれをするのは僕の役割であって、君の攻撃欲を効果的に抑制することができる、周りの人間すべてを守るための方法なんだよね」
樹は肩から腕にかかる部分を鷲掴みにして、私を部屋の中に突っ込んだ。乱雑に私を白い布に下ろし、
「お前への罰だということだ」
と吐き捨てて、左右非対称な前髪から覗く右目で私を見下ろした。
「ふざけるな!俺への罰なら殺してしまえばいいじゃないか。性器を切り取ってまで生きるなんてまっぴらだ」
明らかな悪意を感じたので私は言い返したが、樹の方は取り合わなかった。代わりに薇が樹の前に割り込んだ。私はさらに言った。
「俺は今から舌を噛み切って死ぬ。お前らの世話になってたまるか」
私は胡坐をかいた姿勢になって、口をかっと広げて見せた。私はこれ以上私の信条を汚され続ける茶番劇に付き合うくらいなら、私が子孫を残せる状態のままで、生物としての死を全うしたかった。二人が止めに入る前に舌を前に突き出して、上下の歯で髪切ろうとしたが、薇は私の顎の可動部分を左右から押さえつけた。樹よりは力が無いと思っていたが、両手で押さえつけられた部分は十分に痛かった。
薇は顔を必要以上に私に近づけて、私の瞳孔をじっくりと観察していたらしかった。私が黒目で睨み返すと、ぽつりと言った。
「おかしいなぁ」
「手を放せ!」
私が薇を壁まで蹴り飛ばそうとする瞬間に、薇はきょとんとした表情で、首をかしげて言った。
「君のその行動は、生き物の本能に反しているね」
私はその発言を聞いて頭が真っ白になって、足を持ち上げた状態で塑像のように固まった。両目がぐるぐる動き、体中の筋肉がこわばって動けなくなった。
私がそのようになったのは、薇の言ったことが正しいと思ったからだった。生きるために存在している私という生物が、生きていくうえで何の価値もない自死という選択は、考えられないはずだった。そのことは施設で叩き込まれた祖父の教えとは一線を画す行為で、祖父を裏切ることと同義であるということは、私の思考回路を破滅させかけていた。
私の動きが止まったところを見て、さらに薇は畳みかけた。少し口元をゆがめていた。
「そう、気付いたようだね」
薇は私の動揺から戦意が抜けたとみて、手を離した。立ち上がり右手で指を鳴らすと、樹が部屋に大量の書類や本を持ってきて、私のすぐそばに壁を作るように並べていった。よく見ると、それらは祖父の書斎の本棚に並べてあった本や、書き物机の中にしまわれていた書類であった。ドルベルたちが持ち出したはずの書類も、状態をそのままにして彼らによって保管されていたのだとわかった。
そして、最後のダメ押しのように、薇が胸のポケットから手帳を出した。それは薄暗くても私がこれまでずっと携帯していた、祖父の手帳そのものだとわかった。擦れた装丁やにおいを確認すれば、間違えようがなかった。
「僕たちは君のいた施設から、持ち出せるものを可能な限り持ち出した。かなり大変だったけど、すべてのメディアには目を通したよ。あとは同じ施設から生き延びた他の子とか、もちろんジャック君にも君の行動原理に関することをリサーチしていた。僕の上司にも判断も仰いで、絶対に成功する計画を考えていたよ」
薇は書類の山の一部を手に取って、ぱらぱらとめくった。青色のペンで添削をした筆跡が見えたかなり読み込んでいるようだった。にやにやと笑いながら、私に言った。
「これ、当時七歳の君なら信じても当然だったね。中毒性がすごいにも関わらず、子供でも分かりやすい作りになっている。聖書としてはかなり使える類の代物だね。ま、君に返すつもりはないんだけど。
つまり、僕が言いたいことはね、君は僕たちに従って、恥部を切り落として、社会に復帰するしかないということなんだよ」
「……嫌だ、嫌だっ…!」
私は座り込んだ体勢のまま後ろに下がっていき、後ろの壁に背を付けた。二人から逃げられないことはわかっていたが、とにかく今の私自身の考えを捨て、新しい思考を植え付けられた、そんな人工物のような人間には絶対になりたくなかった。あの地獄のような環境にいたころに形成された私のアイデンティティを改変するのは非常に嫌だった。
「これは君の周りの人を守るためなんだよ。君が変わらないと君の友達や家族を君自身の手で殺しちゃいかねないし」
薇はそう言った後、私は薇の背後に控えていた樹が近づいてきて、私の両腕の手錠の接合部分をつかんだ。そして、私の腕ごと持ち上げて壁に押し付けた。薇がこちらに投げた杭のような道具で動かないように手錠を壁に固定したので、私は立ち上がることも壁から離れることもできなかった。足が自由でも体が動かなければ、どれだけ暴れても手術を免れることはできなかった。
私が暴れすぎて少しばててきたときに、足が床についた瞬間をついて薇は私の右足を手前に引き込んだ。裾を膝のあたりまでまくり上げ、私が皮膚に差し込まれる寸前の注射器の針を見て恐怖する前に、薇は一息で薬品を注射した。私は注射針が抜かれた後に時間差で、悲痛な悲鳴を上げ、すかさず左足を引っ込めた。打って変わって動かなくなったので、薇は注射器からメスに持ち替えた手を空中でくるくる回した。
「ただ下半身に麻酔をしただけだよ。今のうちに左足も伸ばしておかないと麻酔が聞いたままになる。兄さん、頼むよ」
樹は一つ頷いて私のたたんでいた左足を無理やりに伸ばし、少し股を開いて足首におもりを付けて固定した。麻酔の影響で大分感覚が無くなっていたので、動かせなかったし触られた感覚もなかった。
腰から上しか動かせなくなってしまった私は、この状況から抜け出せないことはわかっていても、もがき続けた。薇はハサミで手術する部分の服を切っているときに、樹に出発までの残り時間を聞いた。
「もう出発まで二十時間を切っている。十二時までに終わらせないと」
「では、糸君観念して」
薇がむき出しになった私の性器にメスを当てたので、私はヒッと声を出した。やめろという叫びも届かず、薇は迷うことなくそれを根元から一刀両断した。
切り離された部分からは血が噴き出し、胃から胃酸が逆流してきて、せき込んだ勢いで口からそれを嘔吐した。吐しゃ物には血も混ざっており、次第に鼻からも血が噴き出てきた。外的なダメージの感覚は全くなかったが、性器を切除されたことによる体内の変化は尋常ではなかった。止血はとうに終わっていたが、口から内臓を吐き出すくらいの勢いの過呼吸で、頭がだんだん熱くなってくらくらした。
私を具体的に男たらしめるものが奪われる瞬間を見てしまった。両方の玉も、竿も私の体から切り離されてしまった。
私は胃から逆流してきた液体だらけの口の中をがたがた震わせて、声を出さずに泣いていた。ただ悲しくて涙を流す以上のことは浮かばなかった。
こわばっていた体から、力がゆっくりと抜けていき、薄暗い部屋の空気に昂っていた感情が溶けていった。口の中の酸っぱい液体をゆっくりと服にこぼして、私は呼吸を整えた。心臓の音はまだ大きかったが、不思議なくらい落ち着いた心持になっていた。
「気分は落ち着いたかな」
涙はまだ止まらなかったが、黙って手を後ろに回していた薇が私に問いかけた。軽く頷いたときに、彼らに対する敵対心が収まりかけていることに気が付いた。薇は樹にアイコンタクトを送って何かを指示した。
「これなら多分、大丈夫そうだね」
私は全ての拘束から解放され、甚平に着替えさせられた。拘束具が無くなったといっても、麻酔のせいで足は全く動かせなかったし、ずっと上がっていた両腕も重かった。手術の副反応の有無と精神的安静のために、樹によって別室のベッドに運ばれた。
ベッドに座らされると、薇が触診をして栄養不足と診断したので、点滴をすることになった。同時進行で樹が私の無節操に伸びた髪を丁寧に切っていた。散髪が終わったところで鏡を見せてもらうと、毛の長い犬のようだった髪形は、それなりに短くなって邪魔にならなくなった。
用事が済んだと思って私は眠るつもりだったが、彼らが部屋を出ていく様子はなかった。私の視線に気づいた薇が笑いかけてきた。
「眠いなら寝てもいいよ。電気を消すから。僕たちのことは気にしないでー」
電灯の電源の近くの壁に背を付けていた樹が電気を消すと、私はすぐに眠った。眠りに落ちる寸前で誰かが入ってきたようだったが、気に留めることはなかった。
翌日、目が覚めるとやけに頭がすっきりして、体中にエネルギーが満ち満ちていた。私が目覚めたことに気づいた薇は、私の体温を測って健康観察を終えると朝食のワンプレートを運ばせた。病院の割には食材そのものの味が良く、すぐに食べ終わった。
股間に空気が通るようで少し変な感じがしたが、すぐに慣れてしまった。
薇が日本に向けての詳細な連絡をした後、例の制服を着て日本へ向かう準備が始まった。と言っても私の持ち物は首輪を残して一切を奪われてしまったので、確認するようなことはなかったのだが、一つだけ気になることがあった。移動用の車に乗る前に私は二人に尋ねた。
「ジャックは生きているの」
「…これはこれは。まあ、なんというか、…生きているよ。でも後遺症が残った」
「後遺症ってどの程度の」
「軽く説明すると、日常生活の半分くらいを制限される感じ。トイレとか本を読んだりとか歩いたりとかはできるけど、ご飯を食べたりとか走ったりとかができなくなった。薬も日常的に飲んでいないとすぐに内臓が弱ってしまう」
「俺はジャックに会えますか」
「今は無理だ。君は帰るんだから。その前に君のお姉さんとも合流しないと」
移住者が集められた地区に車に乗って移動した。人を輸送するための巨大なトラックがそこら中に並んでいて、私たちは姉と待ち合わせをした場所を探していた。その場所で待っていると、成長した姉が小走りをしてこちらへ向かってきた。
「お待たせして申し訳ないわ」
十年顔を見ていなくとも、私にはそれが姉であると断言できた。私も背は伸びたが、姉も同様に背が伸びていたため、少し悔しいと思った。しかし、悔しいと思う以上に十年後に再び会えたことは少しうれしかった気がする。
双子は以前よりも美しくなったと姉を称賛していたが、それらには生返事を返しつつ、私に目を向けていた。目が合いそうになると私は少しうつむいたが、それでも姉は私を気にかけていた。姉は軽やかなステップで近づいた。
「帰ろう」
彼女は私の肩を抱いて、そう言った。私は目を閉じて頷く。
抱きしめられた腕には細いものでひっかいたような跡が残っていた。ああそうなんだな、と私は思った。姉もここに残していくものがあるのだ。耳の後ろから涙をすする音を聞いて、なんとなく笑ってしまった。
この世界は海の青の世界から土の赤の世界にすっかり変わってしまった。だからと言って私たちの生活がいっぺんに変わるわけではなく、おのおののアイデンティティを守るために生きている。私がうつろな感情をトラックの中で揺らしているさなか、そのようなことを考えていると、姉が言った。
「ねえ、今まで何してたの?聞かせてよ。私は仕事ばっかりだったから」
「相変わらず、仕事に没頭すると周りが見えなくなるね。じゃあ、俺が施設に入って友達ができたところから話すよ」
私と姉は笑いをおりまぜながらたわいもない話をして時間をつぶし、日本へ思いをはせた。
私は今まで起きたことを包み隠さず姉に話した。あれほど毛嫌いしていた姉に対して、私は驚くほどすらすらとこれまでの経緯を話すことができたのが不思議であった。とにかく心が穏やかで、家族と会話することを楽しもうと思っていた。
もちろん、これを聞いたら私のことを怖がるだろうかというためらいもないわけではなかったのだが、話してみれば姉はすんなりと話を聞いてくれた。複雑でわかりにくいところは、頷いて笑顔を返すだけにとどめていた。それでも、今の私のことを受け入れようとしている姿は、とても温かかった。
日本までの陸路は何日もかかる大旅行で、その間を姉と共に過ごした。私たちの他に人間はいたが、誰も殺す気にはなれなかった。高温の世界から戻ってきた輸送隊員が酸素吸入器を使っているのを、私がぼんやりとみていると、姉は不安そうに私に言った。
「やっぱり殺したくなるの?」
私はこの質問にどう答えるべきか迷った。あの生物は紛れもなく私と同じ種類の生物で、殺さなくてはいけないことは頭ではわかっていた。彼らを私が殺して、ここにいる人間も全員殺して輸送トラックが動かなくなって高温で焼かれ死んだとしても、私は私の信条に間違っていない。
けれども体は一つも殺したいという衝動に反応しない。手を出さないことがベストであるという考え方が後から覆いかぶさってきて、殺したいと思う感情を消しゴムのようなもので消しにかかってくるのだ。それによって、私の体から力が抜けていき、ここまで来るまでに何度もそれが繰り返されて、もはや諦めのような感情も出てきたのだった。
そして、私は考えた末に、一つの結論にたどり着き、手を膝に置いて言った。
「姉さん、俺は我慢しているんだよ」
姉は頷いて私の二の句を待った。
「きっと我慢していると思うんだ。いつからか、何歳からか覚えていないけど。これは俺の意志で無理やり押さえつけているものじゃない。できることなら自分の意志のままにしたいこともあるけど、それができないのはきっと世界の真理で決まっていることなんだろう」
「よくわからないけど…それはつらいかもね」
「俺はそれを我慢して受け入れているんだよ。つらいなんて屁でもない。だってそれは決まっているんだから」
「…それはもしかして運命のこと?きっとそれは変えていけるよ」
「本当?」
私は問い返した。
「糸が望むなら」
私は私の意志が叶う、かなえられることを望んだ。これからはそうやって生きていけばいい。私が望む世界にしていけばいいのだ。
この世界は私を運命に縛り付けていいように操ろうとしてくる。私にそうしろと言ってきたことをすべて飲み込んで実行したとしても、運命は私を開放してはくれない。例えば、私の意志は、こんな暑さに苦しむような世界でも、それを自然界の摂理であり、人間の生の限界であると受け入れて死んでいくことだ。しかし、この世界はそれを拒絶し、私を何としてでも、どんな手段を使ってでも私を生かそうとするのだ。
私は何物もあるがまま自然の摂理に従う世界を切に願う。この地球が滅ぶというなら、私は積極的に地球と心中をする心構えがある。地球がもとに戻ろうというなら、私はこの身をささげてでも地球に貢献したいと思う。
今は動いてはいけない。姉のいう運命というものはおそらくそう言っていた。私はいずれこれを捻じ曲げて私の意志のままに動くようにしていくのだ。今はまだ従っていればいい、きっといずれ私が思う存分に動けるときがくる。その時まで人間を殺さないようにしよう。
そうすれば、きっと、私は我慢の結果が得られるのだから。
ある異常者の話 コオロギコズエ @nozimakun
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