鬼人ヲ巡リシ闘争録

南雲麗

勇者、鬼人を知ること

「『鬼人オーガ』だ」


 対談相手以外は誰一人として入れていない小部屋にて、正教の大司祭は言った。老境を迎えた白髭の、おごそかな男。その目には、真剣さ以外の何物も存在していなかった。


「鬼人、ですって?」


 客人、公的には魔王を討伐したことになっている男、勇者が応じた。常ならば絵空事とのたまっていたであろう彼も、大司祭の言葉を否定できなかった。その目に正気の光が宿っていたし、勇者自身も経験していた。いや、経験したからこそ、この場にて問うていた。


「鬼人、だ」


 大司祭は、二度繰り返した。眼の前に座る男に、真実を伝える。それが彼の背負った――大国の国王から押し付けられた――任務であった。


「……それで納得するとでも?」

「してもらわねばならぬ」


 大司祭は、決然と言った。無論、彼にも戸惑いはある。思うところもある。だが勇者――魔王を打ち倒すべく運命づけられた者――が、『鬼人』によって無へと帰される事態だけは防ぎたかった。


「かの者の足跡は、少し調べれば幾箇所にも現れる。とある場所ではただの一撃をもって岩山を断ち割り、また別の場所では水底より万金の財を積んだ沈没船を打ち上げたという。いずれも信じ難き話だ。だが、可能とすれば『鬼人』の他にはほぼあり得ぬ。そういう話だ」

「……」


 勇者は息を呑んだ。信じられぬと、声を大にして訴えたかった。そんな空想めいた出来事と人物で己の旅路を無為にするなと、叫びたかった。許されるのであれば、目の前に座る老人の胸ぐらを掴みたかった。しかしできなかった。狼藉者として捕縛されるというのもある。だが、それは些事である。なぜなら。ああ、なぜなら。彼は、見てしまったのだから。


 。そんな、嘘のような現実を――。


 ***


 魔界の王たる魔王がそのすべての財力と戦闘力を注ぎ込み、人間界の遥か地下へと打ち立てた戦略拠点・魔王城。勇者たちは力を合わせて旅路を開き、数々の罠を乗り越え、四天王や再生魔将軍らを打ち倒し、その最奥、魔王の佇むであろう玉座へとたどり着いた……はずだった。

 しかしそこで見た光景は、あまりにも想定の埒外だった。魔王の前には、先客が立っていた。しかも、魔王の息を荒げさせていたのだ。


「勇者、か」


 魔王の前に立っていた先客が、口を開いた。褐色、赤銅しゃくどうを思わせる肌と髭を持ち、頭はつるりと禿げ上がっていた。東方の戦装束を思わせるような軽装を含めると、僧形なのであろうか。事実、鎧や剣のたぐいは、何一つとして持ち合わせていなかった。

 しかし勇者も、彼のパーティーも感じ取っていた。殺意を練り込んだように重く、禍々しい気。それは先客の纏う衣服と相まって、練り込まれ、燃え盛る鉄に向き合ったような感覚を、勇者一行に与えていた。男の吐く言葉にすら、炎のような呼気を感じ取れた。


「いかにも!」


 勇者は、己を奮い立たせて応じた。仲間たちの一歩前に立ち、声を張った。その清冽な視線を魔王へ、赤銅の男へとぶつけていた。しかし男は勇者を一瞥すると、不足とすら言いたげに背を向けた。


「我が先客だ。見ておれ」


 短く吐き捨てられる。その時、勇者の後ろから神殿騎士が声を上げた。宙を指して、彼は言う。


「勇者、アレを」

「なっ……!?」


 指の先を見た勇者は、慄きを隠せなかった。魔王城、その玉座の間の天井が、大きく割られている。無論、その先には空洞があった。だがおそらくは。空洞の向こうには。すでに離れて久しい地上があるのだろう。


「俺たちが、長い旅路を経たというのに……」


 勇者は直感した。してしまった。自分たちが正しい道を歩む間に、あの赤銅の男は大地を断ち割り、降下する形にて魔王城へと至った。無理を通り越した、難行である。常人には不可能の所業である。だがそうでなければ、天井が割られている意味がわからなかった。


「勇者、か……」


 今度は魔王が口を開いた。二本の長角を頭部に持ち、長髪精悍。若く雄々しい魔人であった。しかし今はその青肌の各所に傷を受け、纏う豪奢な装束もあちこちがほつれていた。意気軒昂たる赤銅に比して、弱々しくも健気に灯る火としか、。言いようがない。長らく目指してきた運命の宿敵と、まさかこのような形でまみえるとは。


「待っておれ……乱入者など、たやすく……」


 魔王がゆったりと構えを取る。両の手を広げたかと思えば右腕を天に、左手を地へとかざした。


「勇者を、その一党を確実に滅ぼし、人間界の希望を砕く。そのために編み上げた我が闘法だ……受けてみよ、不埒者」

「魔王……!」


 勇者は見た。魔王の周囲に魔力――紫色のオーラが漲るのを。それは特に両の腕へと集中していた。


「むう!」

「おお」

「あれは……」


 神殿騎士が、賢者が、女僧正が目を見張った。勇者に率いられる三人もまた、めいめいに一線級をゆうに越える戦人である。その構えの意味を、魔王の意図を読み解いていた。迎撃カウンターの二手、あるいは三手か。不埒な侵入者の放つ手を封じ、叩き伏せんとしている。


「ほう……!」


 赤銅の男が有する、ゆらめきがわずかに変わった。錬鉄のようなそれから、噴き上がる炎を思わせる姿へと。同時に彼は半身の構えを取り、腰を深く落とした。勇者には、思い当たる節があった。


格闘僧モンクの一種……?」


 勇者は記憶の底から一人の男を引き上げた。パーティーに加えることこそ叶わなかったが、強い男だった。寺院を襲った千をも越える魔物の群れに対し、徒手空拳にて一歩も引かず、守り抜いたのだ。彼もまた、東方由来の武闘服に身を包んでいたはずだ。同類とまではいかずとも、類似の係累にはあたるのやもしれぬ。

 しかし思考は、そこで遮られる。


「動いた!」


 神殿騎士の声に、勇者の意識は現し世へと戻された。かの男が、揺らめくように魔王へと近付いたのだ。それは同時に、魔王の視界へ幻惑の効果をもたらしていた。


「なん……」


 魔王は見た。見てしまった。赤銅の男の、滑るような動きを。それは彼にとって致命的な間隙であった。残像――噴き上がるような殺意の錬鉄と、揺らめくような動きの合わせ技による産物――が、彼が用意していた迎撃の機会を奪い去っていた。

 魔王が視界を取り戻した時には、赤銅の眼光が。燃え盛るような瞳が。眼下から彼を見上げていた。魔王は、己の運命を悟り――


ボウ!」


 赤銅の男が、なにやら叫んだ。勇者には、その意味が聞き取れなかった。ついで、強烈な閃光が生まれた。赤銅も紫も、強い光に飲まれて消え去った。響き渡るのは打撃音。それも重いものが、連続して豪奢な広間へと響き渡った。視界を奪われた勇者たちには、何一つとして事象が見えない。ただただ耳にて、現実を受け入れる他なかった。

 しかしやがて光は収まる。誰もが現実を直視する。その時勇者たちの目の前に広がっていた光景。それは彼らがこの地を目指していた時には、想像さえもしなかったようなものだった。


「が……あ……」


 魔王が、赤銅の男に腹を打ち抜かれていた。褐色の拳が、魔王の背から飛び出していた。男が拳を引き抜き、残心の構えを取る。すると魔王の身体は、力なく玉座の間へと崩れ落ちていった。男は暫くの間魔王を見下ろした後、唐突に勇者一行へと顔を向けた。


「……」


 仲間たちがめいめいの得物を構えようとする音を、勇者はその右手だけで制した。彼は気付いている。赤銅の男から、あの噴き上がるような殺気が消えていた。青く光る清冽な瞳を、火を思わせる赤目へとぶつける。すると赤銅が、口を開いた。


「名も誉れも、我には不要。魔王の首、持って行くが良い」

「なっ……ま……」


 勇者が抗議の声を上げようとした次の瞬間、男の気が噴き上がった。勇者はそこに向けて距離を詰める。彼にはわかった。理屈はともかくとして、男はこの場から離れようとしている。ここで逃せば、次にまみえる機会など皆無に近いと。


「て……」


 しかし男ははやかった。勇者が迅雷の速さで男の元へとたどり着いた時には、男はすでに消え失せていた。代わりに勇者を迎えたのは、完全に事切れ、無防備な屍を晒した魔王の姿だった。


「……」


 言葉もなく、魔王の遺体を見る勇者。胸に襲うのは寂しさと空しさだった。ここまでの旅路は、一体何だったのか。怒りさえもが、こみ上げてくる。しかし。


「勇者。気持ちは察するが、魔王の首を持ち帰らねば」

「魔王の死のみが、地上に平穏をもたらします」

「勇者様……」


 彼に割り切りを求める声。苦楽も、激戦もともにした仲間たちからだった。心の底から、勇者に願っていた。人間界の、平穏を示せと。


「……わかった」


 勇者は折れた。己のためではなく、地上のために心を折った。自身のために作られた剣を魔王の首にあてがい、なにかをねじ伏せるように、一息に刃を引いた。


 この日。人間界を我が物にせんとしていた魔王は、勇者とそのパーティーによって討ち取られたのだった。


 ***


 小部屋には、重い空気が満ち満ちていた。大司祭は勇者に背を向け、忠告を残そうとしていた。正教にとっても、大国にとっても。勇者の存在は今後にとって欠かせないものだった。魔界との戦が終われば、今度は人間界のバランスが問われるのだ。


「かの男を、鬼人を追えば、それは悪鬼の世界に足を踏み込むことになる」

「悪鬼の世界」

「そうだ」


 勇者のオウム返しに、大司祭は重くうなずいた。


「悪鬼の世界では勇者や大司祭というこちらでの肩書など、一片の価値も持たぬ。強靭な心身を持つか否か。狡知に長けるか否か。人間の本性が問われる世界だ。そして、お主が知っていた世界よりも広く、深く、そして淀んでいる。綺麗事など、容易く踏み潰されて終わってしまう。そういう世界だ」

「……」


 勇者は、無言のままだった。大司祭の言葉を重く噛み締めているようでもあり、己の意志を女神の天秤にかけているようでもあった。やがて勇者は、おずおずと口を開いた。


「失礼ながら」

「む?」

「ただいま大司祭猊下は、悪鬼の世界を覗いたことがあるかのような口ぶりでありました。それは、なぜに」


 ふむ、と大司祭はうなずいた。彼は自分が勇者から背を向けていたことを、密かに女神へ感謝した。さもなくば苦虫を噛み潰したような、他の人間には到底見せられぬほどの醜悪な顔を晒してしまうことになっていただろう。


「昔、安易な志から悪鬼に布教を試みた者がいた」

「どうなったのです」

「言うまでもなかろう」


 大司祭は、重たく告げた。勇者を止めるためとはいえ、己の恥を告げるのにはやはりためらいがあった。


「そうですか」


 それきり勇者は、なにも言わなかった。ややあってから互いに用を終えたことを確認し、小部屋を後にした。


 翌日。大司祭は部下からの報告をもって、勇者が王宮を後にしたことを知った。

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