第二十三話 現うつつ①

 

 高校生のころ、わたしはお昼休みと帰り道を柾くんといっしょに過ごした。

 女友だちもちゃんといたけれど、でも柾くんといるのは、あまりにも自然で、なぜだか家族といるよりも安心した。


 高校に入ったばかりのころ、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』をよく読んでいた。読んでいた、というよりも写真を眺めたり文章を読んだりしていた。それは、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に写真がついている本だったのだ。わたしは古き良き日本の美に憧れを抱いていて、谷崎潤一郎も好きでいくつか読んでいた。衣擦れの音が聞こえるようで、とても好きだった。『陰翳礼讃』も文章自体好きだったが、写真があるといっそう日本の美に入っていけてよかった。あのころ、新しい環境になじめなくてうまく人の輪に入っていけなくて、よくその本を見ていた。休み時間を持て余していたから。


「谷崎潤一郎?」

 ある日、前の席から振り返って、柾くんがそう言った。柾くんはいつも人の輪の中心にいて、入学式のときは話せたけれど、そのあとは何となく近づけずにいた。そんな柾くんが声をかけてきてくれて、少し驚いた。

「あ、うん。写真つきの」

 わたしはそう言って、本を見せた。


「きれいだね。僕、羊羹の美しさを述べてるシーンが好きだよ」

「え? 青栁くんも『陰翳礼讃』好きなの?」

「うん。僕が読んだのは、写真のないやつだけど。文章、きれいだよね、とても」

「うんそうなの! なんかね、古き良き日本が描かれていて、好きなの。美しくて。あたし、日本家屋とか好きで。着物も」

「着物、似合いそうだよね」

「……そ、そうかな?」

「うん」

 柾くんはそう言って笑った。


 わたしは柾くんのその笑顔に、何度救われたことか。

 休み時間、誰かとしゃべることが出来てほっとしていると、柾くんは「今日、帰り、時間ある?」と聞いた。

「ううん、家に帰るだけ」

「じゃあね、いっしょに帰らない? 駅前に和菓子屋さんあるの、知ってる?」

「ううん、知らない」

「小さなお店だからね。でも老舗で……きっと気に入るよ。『陰翳礼讃』に出てきた羊羹みたいな和菓子もあるよ」

「ほんと?」

「うん」


 わたしは、その日ずっと落ち着かない気持ちで過ごしたのをよく覚えている。すぐ前の背中にどきどきしていた。早く帰る時間になって欲しいような、その時間が来てしまうのが怖いような、でもとても楽しみなような、複雑な気持ちだった。


 帰り支度を済ませたあと、どうやって声をかけていいのか分からなくて逡巡していたら、柾くんは先生に呼ばれてどこかへ行ってしまった。

「どうしよう」

 みんながどんどん帰って行って、教室に一人取り残されてしまって、とても心細くなってしまったとき、「ごめん!」と柾くんが息を弾ませて教室に入ってきた。

「ごめんね、待たせちゃって。……よかった、帰っていなくて」

「うん」

「じゃあ、行こうか」

 それが、初めて柾くんといっしょに帰った日だった。

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