第四話 現うつつ②

 わたしは手早く台所を片付けて掃除をして、家を出た。


 働くのは楽しい。

 湊が中学校に入ってから働き始めたので、パン屋さんでの仕事は三年目になる。店長と交替のパート二人で回している、小さなお店だった。接客業は性に合っていて、とても楽しい職場だった。最初は食パンをスライスするのにも手間取ったけれど、ずいぶん上手になった。


 わたしは青空に映える葉桜を眺めながら、パン屋さんへ向かう。

 春っていいな。葉っぱの緑も若くていい。

 さあっと風が吹いて、葉がさわさわと音を立てて揺れ、桜の花びらが舞った。

 ああ、きれいだな。


 ――桜が舞い散る風景を見ていたら、何かを思い出しそうになった。

 美しい緑の山々。青い空に飛ぶ美しい鳥たち。野には花が乱れ咲いていた。

 ……どこ? 

 一瞬脳裏に閃いた風景を辿る。

 しかし、泡沫のように消えてしまう。


 ああ、もう思い出せない。……でも、すごくきれいな風景だった。その印象だけは覚えている。

 考えても出てこないので、思考を閉じてまた歩き出す。

「おはようございます!」

 わたしはパン屋さんに入り、元気よく挨拶をした。

 

 晩ごはんの準備が出来たころ、湊が学校から帰ってきた。

「おかえり」

 湊は無言で自室に行った。

 湊は中三だから、ほぼ毎日塾に行く。塾の前にごはんを食べるので、ごはんの準備を調えてから湊の部屋に行く。

「ごはん、出来たよ。それから、お弁当箱を出してね」

 ノックをして、そう言う。返事はないけれど、準備をする気配がするので、リビングに戻る。


 しばらくして、湊がリビングに下りてきて、ごはんを食べ始めた。同時に「ただいま」という声がして、彬が帰って来て、少しほっとする。

「彬もごはん、食べる?」

「うん、食べる。着替えてくるね」

「彬は、今日は塾じゃないよね?」

「うん、明日だよ」

 湊は黙ってごはんを食べ終わると立ち上がった。そこに彬が来て、「湊、食器下げろよ」と言ったので、湊は黙って食器を流しに下げた。そして、塾用のリュックを持つと、出かけて行ってしまった。

「……いってらっしゃい」

小さく「いってきます」と聞こえたような気がしたけれど、気のせいだったかもしれない。


「気にしない方がいいよ。あんなもんだよ」

 彬が言う。

「……ありがと」

 息子に慰められているなんて、情けないな。

 食事を終え、彬とコーヒーを飲んでいるところに柾くんが帰って来た。

「おかえりなさい」

「ただいま」

「今日は生姜焼きだよ」

「うまそ! 着替えてくる」


 わたしの生活はおおむね平和だ。

 いつもの日常いつもの日々。

 ――ずっと、同じように続くものだと思っていた。


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