5、ハルレキン

 トランの話が終わってしまうと、小屋には沈黙が訪れた。ミカゼは混乱していた。何から考えていいのか分からない。ただひとつ確かなことは、トランが語ったことはこれまで自分が信じていたこととはまったく違うということだった――トランは言った。


 「君のご両親は、わたしたちに力を貸してくださった。そして、そのさなかに亡くなったんだ。バーシュの民間人を巻き添えにしたという話だったけど、あの場にいて巻き添えになった民間人は君のご両親だけだよ。……だって、あの海戦は町からずっと離れた海の真上でのことだったんだからね。何百艘もの船が砲弾を打ち合う戦場が、そんなに町に近いはずがあるかい? あの頃海軍にいた人間なら、みんな知っているはずなんだが……」

 「そうだったの……」

 「そう。だから、君があの人たちの娘だという理由で肩身の狭い思いをしているんだとしたら、わたしはとても悲しい……」


 トランはふと立ち上がり、隅の棚に置かれていた陶器の器を取ってきた。この小屋にあるものの中で、この陶器ほど小屋に不釣り合いなものは他になかった。


 トランが蓋を取って中身を見せてくれたので、ミカゼは覗き込んだ。銀製の髪飾りがひとつ。手入れはされているが、古いものらしく、少し黒く曇ったようになっている。


 目立たないが、内側にミゼルカ王家の紋章が刻まれていた。


 「君のお母さんのものだよ」


 とトランが言った。ミカゼは震える指で髪飾りをつまみ上げた。


 「これ……」

 「リサさんもお母さんから譲り受けて、いつか君が大人になったら譲るつもりだと……それで、勝手に外してきてしまったんだが、屋敷は売ってしまったから、ここへ持ってくるしかなかった。渡せる機会なんかあるはずないとほとんど諦めてたよ。……君がわたしを許してくれるかも、分からなかったしね」


 ミカゼは髪飾りをすぐに自分で使う気になれず、しばらく手の上で転がしていた。まさか、こんなところで母の形見と出会うことになるなんて。


 そうしているうちに、もうひとりの〈娘〉のことが思われた。もうひとり、いくさで両親をなくした少女のことを――。


 「……トランさん」

 「なんだい」

 「あの、トランさんの娘さんは、そのあと……」

 「――さあ、どうしているかな。わたしはもう、あの子に父親面することはできないからね。……もう何年か前になるんだが、姉から連絡が来てね。十八になってすぐ、家を出ていってしまったんだそうだ。姉は大慌てで……マリーが出ていってしまった、ってそりゃあもう大変な騒ぎになって……でも、わたしはあの子を探さなかった。少し、ほっとしたんだ。体が弱くて、あまり出歩くこともなかったあの子が、たくましくなったものだと思って……。やっぱり、アウラの娘だなあってね」


 トランはどこか嬉しそうに言った。ミカゼは、トランの娘が家を出て、どこへ行って何をしているのかがなんとなく分かるような気がしていた――トランの娘は、きっと今もどこかで、父親の予想よりずっとたくましく生きているに違いない。そして、彼女のそばには、海があるに違いない――それが海に惹かれて船乗りになった父親由来の性分だと、彼女は知らないかもしれないが――。


 トランの娘が、今父親のことをどう思っているのかは分からない。だが、彼のおかげで、ミカゼは自分の人生から久しく奪われていたものを取り戻したのだ。


 「トランさん、ありがとう。父さんと母さんを、覚えていてくれて……。ふたりのことを、教えてくれて……」


 ミカゼが言うと、トランは笑って頷いた。長いこと背負ってきた荷物をやっとおろしたというような、安堵のにじむ笑顔は、これが彼のもともとの表情なのだと思わせる明るみがあった。


 「わたしは自分が何のために生き残ったのか、理由をずっと考えていたんだ。もし運命やら使命やらというものがあるんだとしたら、わたしはわたしの運命の上で何をしなければならないんだろうって……それが今日分かったよ。君に話をするためだったんだって……」

 「それだけではありません」


 突然その場にいないはずの三人目の声が戸口から割って入り、ミカゼは飛び上がった。トランはミカゼを自分の背の後ろに入れた。ミカゼはいつ自分が庇われたのか分からなかった。


 「驚いたな。……気がつかなかった」

 「軍を離れて十年以上経つのに、すぐに味方を守り、侵入者に反撃できる姿勢をお取りになった」


 ニルス・パーミリオはまじめな口調で言った。腕に鷲を乗せている。


 「感服いたしました」

 「……よく知っているね。聞いてたのかな? 」

 「立ち聞きなどするつもりはなかったのですが、大変興味深いお話だったものですから……それに、わたしはそちらのお嬢さんに警戒されていますし……確かに、警戒されても仕方のないことをしてきましたしね」


 ニルスはミカゼに目をやった。


 「君たちは、確かに速かった。わたしだけだったら、完全に見失ってしまったでしょう」

 「じゃあ、その鷲が」

 「そう。この子はアクルといって、わたしの友人です。おかげで、お話のかなり最初の方から聞かせていただくことができた。君の騎士殿が町の方へ戻ってくるのを見かけましたが……」


 とニルスが言いかけたとき、小屋の戸が外から開いて、カツミが入ってきた。


 「町には――」


 あいつはいなかった、と続けようとしたのだろう――カツミはニルスあいつがいるのに気がつくと一瞬ぎょっと立ちすくんだ。ニルスとミカゼの間がどのくらい離れているか、間に割って入るのにどのくらいかかりそうか、その隙にニルスがミカゼに何か害を及ぼすかどうか、というような考えが、彼の頭をよぎっていったのが分かった。ミカゼが


 「待って! 」


と止めなければ、トランを巻き込んでひと騒動起こっていたかもしれない。その一瞬、小屋の中の空気はそのくらい張りつめていた。


 カツミはミカゼを窺い、さらにトランが頷いたのを見て、ニルスが彼女を追い詰めに来たわけではないと判断したらしい。黙ってニルスの横を通り過ぎ、ミカゼの横に立った。


 ニルスが言った。


 「ご理解いただいてどうも」

 「……別に。気が変わったのか」

 「ええ、まあ。わたしは不名誉な中傷を真に受け、彼女や他の〈ミセルマの子〉を救おうと――もとい、わたしの考えを押しつけるようなことばかりしてきましたが……閣下のお話によると、そんなにもってまわったことをしなくてもよさそうだ」


 ニルスは楽しそうに笑った。ニルスの笑顔といえば、どことなく皮肉っぽい顔しか見たことのないミカゼとカツミは、思わず彼に見入った。


 「わたしは信じたいものが信じられずに、ずいぶん自分自身を疑わなくてはなりませんでした。でも、それはもうやめです。真っ向から戦いを挑むことにしますよ。そのために……」


 ニルスは彼の機嫌のよさに気圧されているトランの方へ向き直った。


 「お戻りいただけませんか、閣下」

 「海軍にかい」


 トランは気弱に言った。彼は口には出さなかったが、僕は土いじりの方が性に合ってるんだとでも言いたげだった。


 「わたしは、自分で席を立ってきたんだよ……追い出されたわけじゃない。今さら戻ったところで、君の役に立てるとは思えない」

 「閣下がみずから席をお立ちになるように仕向けた人物がいるとしても、ご意見は変わりませんか? 」


 トランはニルスを見つめた。その横顔が次第に熱を帯びたようになるのが、ミカゼには分かった。それは怒りの熱かもしれなかった。


 「どういう意味かな」


 ニルスに尋ねる声は穏やかだったが、彼の心の動揺が分かる程度には震えていた。


 「わたしが何もかも捨ててここへ引きこもったのは、戦場にふさわしくない人たちを犠牲にして自分ばかり生き残るのが嫌だったからなんだ……」

 「閣下がそういう方であることは、たやすく分かることであったろうとわたしは思います――そういう、鼻の利くものにとっては、特に」

 「……何か知っているんだね」


 ニルスは肩をすくめた。そうすると、思いがけなく親しみやすい青年の顔がのぞいた。


 「上司と容姿は選べませんからね」

 「君は容姿に悩みがあるのかい」


 トランがニルスの軽口に乗っかったので、ミカゼとカツミは顔を見合わせた。


 「ええ、あとほんの少し、鼻が低ければと思うことはあります」


 ニルスはまじめくさった顔で筋の通った鼻先をこすり、なぜか、ミカゼの少年姿をしばらく眺めた。


 「こうしてみると、なかなかよくできた装いですね。わたしはもともとの君を知っているから騙されませんでしたが、見習いの少年と言われれば、見間違える人もいるでしょう」

 「友だちが仕立ててくれたんです」


 ほんの数時間前のことだというのに、ベルマリーでアニーがミカゼを変装させてくれたときのことがやけに懐かしく感じられた。


 「なるほど……」


 ニルスはしばらく何かを考えていたが、やがて小屋の中の一同を見回した。


 「わたしに考えがあります。聞いていただけますか」

 「いいとも」


 トランがすぐに答えた。トランはミカゼやカツミよりも、事情をよく分かっているらしかった。彼の目は、燃え立つように輝いていた。


 ニルスは両手を広げた。


 「ミゼルカにとって、歴史的な瞬間になることでしょう――我々全員にとっても」



 その日、ミゼルカの王都デルテの広場には、いつも以上の人だかりができていた。民衆の関心ごとはふたつあった。ひとつは、毎週決まった曜日に立つ市場の賑わい。もうひとつは、予告なく広場の真ん中に現れた、木の十字架だった。


 もう夕刻に近いというのに、人波は減らなかった。


 「何がはじまるのかしら」


 野菜売りのおばさんがお客にパプリカを取り分けながら呟いた。


 「なんだか気持ち悪いわ」


 お客の連れている娘がませた声で言った。


 「わたし、聞いたわ。悪いことをした魔女や悪魔が、十字架で火炙りにされるって」

 「マルシアちゃん! 」


 母親はぎょっとして娘を黙らせた。わが娘の口から、火炙りなどという不吉な言葉が出るなんて! だが、娘はむきになって話し続けた。


 「だって、聞いたわ! バーシュではそうやって、悪いものを追い払ったって! 」

 「そうらしいな」


 親子の近くに水兵がひとり来て、野菜売りの屋台からりんごをひとつ取った。彼がそのままかぶりつこうとしたものだから、屋台のおばさんは傷んだセロリで水兵をつついた。


 「お代がまだよ、お兄さん」

 「おっと、ごめんよ。余計にもらってくれな」


 水兵は気取って、指で金貨を一枚はじいた。おばさんは目を丸くした。


 「銅貨一枚でいいのよ」


 おばさんはおずおずとエプロンを握り、金貨を返そうとした。水兵は笑って手を振った。


 「我が国の商売人は正直だな。いいんだ、これからうんと割のいい仕事が入るんだから。大捕りものだぜ」


 見てみなよ、と水兵が指さした方から、人々の声が上がった。脇を水兵ふたりに固められて、みすぼらしい身なりの娘が引きずられるように歩いてくる。黒い髪はぼさぼさに絡み、垂れて顔を隠しているのがいかにも力ない。何日も同じ服を着せられているのだろう、胸元のだらりとしたリボンの他には何の飾りもない埃っぽいドレスは、裾がところどころ破れていた。


 彼女には、自分で髪を整えることも、ドレスを払ってせめて小綺麗にすることも許されていないのだ。骨そのもののような細く、色の白い腕は、荒くあざなわれた太い麻縄で解きようもなく背に縛られていたのだから。


 「あれはいったいどうしたの」


 野菜屋のおばさんはびっくり仰天して叫んだ。パプリカを受け取ったお客は不穏な気配を感じ取り、自分もかなり名残惜しげではあったが、ぐずるマルシアの手を引いて帰っていった。あとで教えて、と目配せしながら。


 「あんな女の子を、罪人みたいに……」

 「ただの女の子じゃない」


 水兵は行儀悪くりんごの種を吐き出した。


 「魔女さ」

 「魔女? ……」


 おばさんは、マルシアの言葉を思い返していた――魔女や悪魔が、十字架で火炙りにされる。確かに、町角に立つようになった布教師は、そんなことを言っていた……。


 「まさか、本当に火炙りに……」

 「ああ、まだ決まったわけじゃないけどな」


 水兵はこともなげに言った。


 「魔女ってのは、変な草を使ったり、産婆のふりして子どもを殺したりするっていう連中さ。前は、〈ミセルマの子〉って呼ばれてたろう。今度とうとう新しい決まりができそうなんだ。それに照らすと、ああいう連中はもうこの国にゃいられなくなるだろうぜ」


 〈ミセルマの子〉。おばさんは、そっけない木の十字架に引っ張られてきた娘が縛りつけられるのを見つめた。もう何年も前に産んだ子は難産で、近くに住んでいた〈ミセルマの子〉の助けがあってようやく生まれた。難しいお産だったけど、よく頑張ったわね。あのひとは、そう言ってくれたっけ。


 彼女自身も、〈ミセルマの子〉に取り上げられたし、彼女の両親も、そのまた両親もきっとそうだった――。


 「これからは国益に従事しない〈ミセルマの子〉はみんなああなるのさ。あれは、見せしめだ」


 水兵の声に、自分の店の近くにいる人が眉を寄せたのにおばさんは気づいた。おばさんは勇気を出して言った。


 「……〈ミセルマの子〉って、そんなに悪いことをしていたようには思えないけど……」

 「でも、前の戦争でバーシュの民間人を平気で巻き込んだって話だ。布教に来てた連中が言ってたろう。――それを聞いて、あんただって思ったんじゃないのか? あいつらが自分たちとは違う、妙な力を持ってることは誰だって知ってた。それがとうとう牙をむいたんだって」


 店の周りに集まった人々が、水兵の言葉を聞いてうつむいた。おばさんも、噂話のひとつとしておもしろおかしく人に話したことがあった――やっぱり、普通じゃないとは思ってたわ。昔からそうだったじゃない。わたしたちとは、根っから違うのよ。恐ろしいわねえ……。


 おばさんはエプロンを握りしめた。


 「だけど……」

 「告発してくれれば、あんたにも大きな金が転がり込むよ。ま、そのうちにあんたが告発されるかもしれないけどな! こういうことは、本当にそいつに罪があるのかなんて考えなくなっていくもんさ。それさえ気をつけりゃ、まったくいい商売だよ」

 「それは……それは……それは素敵ね」


 水兵によそへ行ってほしい一心でおばさんはそう言ったが、失敗だった。水兵は気をよくして、また口を開こうとした。


 「千歳の都デルテにお集まりのみなさま」


 若い男の声が広場中に響いた。娘の縛られている十字架のそばに、手に手に松明を持った水兵たちを従えて、海軍の軍服を着こんだ青年がしゃんと立っている。ミゼルカ海軍の提督秘書官だ。娘はうつむいたまま、頭を少し彼の方へ向けた。


 「あれがうちの大将さ」


 水兵がりんごの芯をぶらぶらさせた。


 「本日はみなさまに、神の下す鉄槌をご覧いただく」


 群衆は静まり返った。秘書官は構わず続けた。


 「先日、国王メッケンドルフ一世陛下のご意思により、我が国の国教が正式に定まることと相成り、本日この場をもって発表いたす次第であります」


 秘書官は群衆を見回し、ひとり残らずこちらに注意を向けていると確信すると、満足げに書面に目を戻した。


 「ひとつ、ミゼルカ国民の信仰すべき神は、〈創造主〉ただおひとりとする。ひとつ、ミゼルカ国内における信仰の教義は、バーシュ王国タルヤム陛下より賜った宝典を礎とする。すべて国民は、これを学び、共通の信仰のもとで強固な結びつきを得られるよう努めなければならない。ひとつ、ミゼルカ国内における新教義の布教は、この自由を認める。ひとつ、土着の民間医は異教とし、その活動の一切を認めぬものとする。この文言にたがうと判断されるものについては……」


 秘書官はわずかに自分に向けられた娘の顔を一瞥し、絹の飾り紐がついた書状を持ち直した。


 「相応の刑に処するものとする」


 場がどよめいた。海軍と〈ミセルマの子〉、双方に向けられた非難と野次が飛び交った。いいぞ! このばかやろう! だめよ! やっちまえ! 秘書官はそのどちらも耳に入っていないような顔を保った。


 「さあ、お嬢さん」


 秘書官は水兵のひとりから渡された松明を、女神に捧げるようなしぐさで娘に突きつけた。足早な秋の夕陽がかぶさって、煌々とした炎はいっそうむごい色で燃えた。水兵たちが娘の足元に木を組み上げ、ほぐした蒲の穂をいっぱいに詰めた袋を抱えてやってきた。


 「これが最後です。我々とて、むやみにあなたのようなお嬢さんをこんな目に遭わせたくはない。国の決定を受け入れるおつもりは? 」


 娘は長いことうなだれていた顔を上げた。西日と炎の両方に赤く照らされた青白い頬は、見たものの胸を打つほど美しかった。


 「わたしからお話することはもう何もないわ。……わたしは、間違ったことをしているとは思いません」


 やめて! 群衆の中から誰かが叫んだが、娘にはもう誰の声も届かないようだった。その目には誰を呪う色もなく、彼女を救いたいと願う人にも、彼女を灰にしようとしている人にも、等しく同じまなざしを向けていた。


 秘書官はほほえんだが、それはため息をつくのとほとんど変わらない表情だった。


 「では、あなたの望むとおりに」


 水兵が蒲の穂を両手いっぱいに差し出し、火をもらい受けようとした。


 「待ってください! 」


 人ごみをかきわけて、小柄な男性が秘書官の前に現れた。頼りない体つきで、石畳につまづいてはいつくばるような格好になる。秘書官は彼を助け起こした。


 「なにかご意見があるなら、おっしゃってください。我々は、国民の声を無視したりはしません」

 「わたしは医者です」


 男性はハシバミ色の目を必死で見開いて、秘書官の袖をつかんだ。


 「この国の医者は、まず〈ミセルマの子〉から知識を学ぶのです。〈ミセルマの子〉は古来人々の優れた癒し手であり、生まれてから死ぬまでを見守ってくれる存在でした……わたしの師も、〈ミセルマの子〉です。それを異教だなんて、あんまりだ! 」

 「……おれも言わせてもらおう」


 群衆の頭ひとつ上から、機嫌の悪そうな低い声が割って入った。その声の調子に怯むことなく彼を観察できたものがいたなら、荒く削り出した木像みたいな精悍さを持つこの船乗りが、まだ年若い青年だということが分かっただろう。だが、安酒場で酒を浴びている連中が着られるとも思えない上等な上着を肩から引っかけ、頬の十字傷を隠しもせずにそこに立つ青年は、とんでもない迫力を帯びて見えた。


 彼の前には火刑台を取り囲む群衆が山のようにいたのだが、その人垣は自然と左右に分かれ、彼を前に通した。


 「よお」


 思いがけなく優しい口ぶりで挨拶しながら、青年は磔の娘に歩み寄った。


 「あんたたちの風のおかげで、おれは昨日、命を拾ったぜ。エメラルドをずいぶん流されちまったが、女神さまにゃあ安い供物だったさ」


 娘がほほえみ返したのが分かったのか、青年は親しげなほほえみを浮かべて、彼女の髪を直してやった。


 「こういう深い色の髪に飾ると、よく似合う石なんだぜ……」


 青年は目つきを険しくして群衆の方を向いた。


 「これだけ人間がいて、このお嬢さんを助けようってのは、そこのお医者の先生とおれだけなのか。ここは港町だろう。船乗りはひとりもいないのか? ミセルマの風なしにここら辺りの海流に乗って、十年も船乗りを続けられたやつはいるか? どうやら国王陛下は、ご自分の国をつぶしたいとお考えのようだな」


 秘書官は眉をひそめた。


 「言葉が過ぎますよ。陛下に対する不敬には、わたしたちも黙っているわけにはいきません」

 「ならこのお嬢さんと並べて火炙りにでもしてくれるのかい。あんたらにそうされなくたって、加護の風がなくなりゃどうせ海に沈んで遠からず死ぬことになるだろうぜ。それとも、船乗りを全員転職でもさせるかい? この国の船乗りだけじゃない。今まで〈ミセルマの子〉から風を買ってた連中は、みんな同じように死ぬことになるんだ。恩知らずにはちょうどいい死にざまさ……」


 集まっていた人々は気まずそうにうつむいて黙り込んだ。青年は声を大きくした。


 「〈ミセルマの子ら〉は、長いことおれたちを守ってくれた連中だ! くだらない噂話なんか、信じるな! 仲間を裏切って刺したやつは、いつかその仲間が守ってくれてた背中を刺されるんだぜ! 」

 「おっしゃりたいことがそれで全部なら、のちほどお望みどおりのご沙汰が下されるのをお待ちください」


 秘書官は船乗りの青年をぴしゃりと退け、今度こそ娘の足元に火をつけようとした。悲鳴交じりのざわめきが、人々の間から湧き上がる――。


 「やめ、やめ! 」


 突如、秘書官と同じように深緑色の軍服を着た小太りの男が息せききって駆け込んできて、秘書官の手から松明を奪い取った。


 「パーミリオ君、いったい何をしとるんだ。誰の許可を得てこんなことを……」

 「何をとは? ルーフ提督殿」


 松明を奪われたニルス・パーミリオは、おどけた仕草で両手を上げた。


 「国策を実行に移そうとしていたのですが……このお嬢さんは、町外れで毒草を売買していたのです。かつてであれば民間医として認められた行為でしたが、〈ミセルマの子〉でなければまともに扱えないような類の薬草は、今後一切の売買を禁じられます。それで間違いないはずですが? 」

 「だが、まだ新法は公布されていないはずだ……わたしは何も聞いていないぞ」

 「ですが、この書状は」


 とニルスは持っていた巻紙をルーフに向かってひらひらと振ってみせた。


 「陛下がお出しになった正式なものです。ですから、わたしはこうしてご命令を知らしめようとしているのですが……第一、あなたがこのご命令を守ってはならないとおっしゃるはずがない。この国策を推し進めてきたのは、あなたではありませんか。新聞を傘下にお入れになったり、バーシュの提督殿と何度も打ち合わせなさったり、実在しない罪を捏造――創作するために、大変なご苦労をなさったとか。その成果が、本日ようやく実を結ぼうとしているのではありませんか」

 「捏造だと! 」


 ルーフはニルスが自分に不利な裁判をはじめたかのような顔をして彼を黙らせようとした。


 「何を証拠に言っている! なぜわたしがそんなことをしなければならんのだ? 」

 「証拠? 」


 ニルスは意外そうな顔をしてみせた。


 「証拠とは? まるで、断罪されているかのようなおっしゃりようですが……わたしは、あなたの秘書官ですよ? 新聞社を訪ねた途端、聞いてもいないのに泣きつかれたのでこっちが驚いたくらいです……なにをそんなに怯えているのかは、分かりませんでしたが。新たな政策が打ち出されるのですから、もっと積極的にご協力いただかなくては、ねえ」

 「わたしは……新たな政策を……」

 「もちろん。我が国は国教を定めると決定したのですから、その障害になりうる人々をどうにかしなくてはとお思いになったのでしょう? そうでなければ、筋が通りませんしね? 」


 ルーフは赤くなったり青くなったりしながら、口をぱくぱくさせて周りを見回した。広場の人々の目は、いまや完全にルーフに向いていた。


 ニルスはまるで賞賛するかのような口調で続けた。


 「まったく、お見事な手腕でした。秘書官であるわたしにすらすべてを明かさず、水面下で陛下の国策をひそかに進めていらした。おかげで、国民は自分で見てもいない言説を信じ込まされた。〈ミセルマの子ら〉はいつの間にやら異端に追いやられ、あなたの目論みどおり、みずからミゼルカを出ていこうという気になったものもいた……それも、これはあのエル・トートスの海戦の頃から何年もかけてあなたが準備なさってきたことなのでしょう? 」

 「そうか。それは知らなかったな」


 みなの後ろから新たな介入者が現れたが、その場にいるもので彼が誰なのかを知るものは限られていた。ルーフにも、すぐには分からなかったに違いない。なにしろルーフが彼を陥れたとき、ルーフは彼が二度と自分の前には現れないと高をくくっていたのだから。


 真新しい深緑色の軍服を着こなし、彼はかつての上官を見下ろした。ルーフはうろたえ、幽霊でも見るような目つきで目の前の男を穴の空くほど見た。


 「おまえ……まさか……! 」

 「まさかはこちらのセリフですよ」


 ルーフがあまりに狼狽するので、男はかえっておかしくなったようだった。


 「まさか、あなたがアウラの力に目をつけていたなんて……〈ミセルマの子ら〉の身柄をバーシュに売り渡そうとしていたなんて、あの頃は思いもしませんでしたよ。そのためにあの二度目の海戦で、わたしが自分から国を出ていくように仕向けていたなんてね……わたしが死んだなら、それはそれで構わないとでもお考えだったんでしょう。全部あなたの思うつぼだったわけだ」

 「トラン・ヴィヴァン……! 」

 「若者を上から手玉に取りたがるのは相変わらずのようだ。しかし残念ながら、彼はわたしよりもずっと賢い青年ですよ。どんなことでも自分の頭で考え、みずからの正義を見失わない。それに、自分の間違いを認める勇気があるのだから」

 「提督ほど素直でないだけです」


 ニルスはトランに褒められたので、にっこり笑って謙遜した。


 ルーフは笑ってなどおれなかった。


 「提督だと……? 提督はこのわたしだ」


 ニルスははあ、と気のない返事をした。


 「おっしゃる意味がよく分かりませんが? 」

 「人目のあるところでわたしを陥れようとしても無駄だ。おまえたちの言っていることは、すべて憶測に過ぎないのだからな! ただでは済まさんぞ! 」


 ルーフは喚き、広場の人々に向かって手を振った。


 「散れ! 散らんか! こんなことは許可しておらん! おまえたちは、どうせ今度はわたしを噂話の的にでもするつもりだろう! そうやって、この娘はここに縛られたのだからな! 」


 ニルスとトランはこれを聞いて肩をすくめた。ルーフは十字架の娘に近寄ろうとした。


 「さあ、君の縄はわたしが解いてやろう……妙なたくらみがないことくらい、自分で証明してみせねばな」


 だがルーフの前に、青年船乗りと小柄な医師、水兵たちが立ちふさがった。ルーフはいらいらと言った。


 「なんだ君たちは。……ははあ、あの大馬鹿どもにそそのかされたか。いいからそこをどけ。その娘を助けようとしているという点では、わたしと君らは同じ意見のはずだろう」


 誰も従わなかった。それどころか、十字架の前に立つ人間は次第に増えていった。


 ルーフはますますいきり立った。


 「あんな死にぞこないの言うことを信じるのか! 何十年も、海軍の提督としておまえたちを守ってきたのはいったい誰だと思っている! ……いいか、あの男はな、かつての地位を剥奪されたんだ。あの男自身の意思でな! 」

 「だが、新たに任命された地位の放棄まではしとらん」


 今度はいったい誰だ、と声の主を振り向いたルーフは、ただひとりその男から後ずさった。


 「へ、陛下……」


 メッケンドルフ一世が、ゆったりとした足取りで市場を抜けてくるところだった。国王が着慣れないであろう質素な装いだが、普通の初老の男にはない気品と、彼につき従う大臣とが、国王の顔を間近で見たことのない人々にさえ、彼の身分を確信させた。


 メッケンドルフ一世は、隣にもうひとり男を連れていた。どうやら、ミゼルカの人間ではないようだ。赤銅色の肌に、ミゼルカにはない美しい織物を身にまとっている。あれはバーシュの、と誰かが言った。バーシュの、タルヤム国王だ。


 トランとニルスが宮廷風の優雅なお辞儀をした。


 メッケンドルフ一世とタルヤム王が広場の真ん中までやってくると、大臣が巻紙を広げて読み上げた。


 「トラン・ヴィヴァン。本日このときより、国王メッケンドルフ一世陛下の御名において、そなたをミゼルカ海軍提督に任命する。念のため申し添えるが、辞退は認めない」

 「承りました」


 トランが任命書を受け取ると、大臣は頷き、今度はルーフの方を向いた。水兵たちがじりじりとルーフを取り囲んだ。


 「ハインリヒ・ルーフ。私欲によって事実を改ざんし、我が国の歴史上多大な貢献をしてきた〈ミセルマの子ら〉を不当に貶めた罪、人身を売買した罪、報道機関を脅迫し、国民の目を曇らせた罪は重い。さらに、〈ミセルマの子ら〉は我が国になくてはならぬ賢者たちであり、彼らをミゼルカから引き離そうとしたことは、ミゼルカの国力を著しく欠こうとする企みにほかならない。国王メッケンドルフ一世の御名において、そなたを国家転覆罪に問う」

 「こじつけだ! 」

 「こじつけではない」


 それまで黙って場の成り行きを見守っていたタルヤム王が、ミゼルカの言葉で言った。


 「貴様と共謀していた我が国の提督は、すでに捕らえた。貴様らにだまされ、海を渡ってきた〈ミセルマの子ら〉は我が国で客人としてもてなされている。近いうちにミゼルカへ戻れるよう手配しよう。……メッケンドルフ殿が国教を改めようとしていたのには理由があるのだ。むろん、〈ミセルマの子ら〉を迫害するためなどではない。貴様のようなものには分からんだろうがな」


 ルーフはもはや声も立てられずに、青ざめた顔でトランを睨みつけた。


 「……やはり、おまえは殺しておくべきだった」


 トランは肩をすくめて、ずれてもいないクラヴァットを小粋に直した。


 「わたしひとりのせいでこうなったとお思いなら、そんな考えだからこうなったのですよ」


 トランは水兵たちに指示し、ルーフを連れていかせようとした――だが、これだけはうまくいかなかった。


 「おのれ! 」


 追い詰められたルーフは、一瞬の隙をついて水兵のひとりから松明をもぎ取り、火刑台に投げつけた。火刑台では集まった人々が娘の縄を解こうとしている最中だったが、彼女が解放されるより早く火が燃え上がり――不運にも、彼女のドレスに火がついてしまったのだ――娘は人々の悲鳴もろとも煙の中に消えた。


 全員がそちらに気を取られた。ルーフはまんまと逃げおおせたが、誰も彼に注意を向けなかった。


 「誰か水を! 」


 トランが叫び、近くに店を出していた男性がすぐに応じた。


 「カツミくん! 」


 小柄な医師が青年船乗りを止めたが、彼はその叫びを無視して火の中に飛び込んだ。青年はしばらくして――恐らく時間にして数秒の間だったが、火の外で見ていた人間にとってはやけに長く感じられた――娘を抱いて火から転がり出てきた。水は、ふたりの頭から浴びせられた。


 青年は青ざめて、娘の肩を揺すった。


 「おい、ミカゼ……大丈夫か? 」

 「大丈夫……」


 ミカゼは答えたが、危うく窒息しかかった喉ではろくな返事はできず、カツミにもたれて咳き込んでしまった。ドレスが焼け、足や体に火傷を負っている。カツミは彼女に自分の上着を着せ、蒲の袋を引っ張ってきて熱を持った爪先をくるんだ。


 「なんて無茶なことをするんです、君は! 」


 と小柄な医師ことティムがカツミを叱った。いつもは穏やかな彼の剣幕に、カツミもミカゼも肩を縮めた。


 「船医さん……」

 「だけど、よくやりました。ミカゼ、君も……しかし、しばらくは安静に」

 「アクル! 」


 ニルスが相棒を呼ぶと、大鷲がどこからか彼の腕に飛んできた。ニルスはルーフが逃げていった方へアクルを放した――ミカゼたちには知りようがなかったが、ニルスとアクルの間にだけ通じるやり取りというものがあるに違いない。


 メッケンドルフ一世とタルヤム国王は握手を交わし、水兵たちに守られながら王宮へ戻っていった。タルヤム国王は立ち去る前に、自分を見送るミゼルカの人々――物珍しげに彼を見ている市民や、敬礼しているトランや、ティムに火傷の具合を診られているミカゼ――を見回した。その目が、ミカゼについているカツミに留まり、しばらく彼を見ていた。だが、カツミがそちらを見たとき、タルヤム王はすでに背を向けていた。


 「さあ、帰ろうぜ」


 カツミはミカゼの足に触らないようにしながら抱き上げた。


 トランとニルスが敬礼した。ニルスは手に持っていた書状を、火刑台に残っていた火の中に放り投げた。国教を改めるという、偽の書状だ。


 「ベルマリー号のみなさん、ご協力を感謝します」

 「ええ。……こちらこそ」

 「なかなかの名演技でしたよ」


 ミカゼのすすけた顔を見て、ニルスは自分の頬を袖口で擦る真似をした。


 「言っておくけど君も鼻先が黒いよ」


 しまらないね、とトランが笑った。

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