4、戦禍の友
長いこと陽に晒されてくすんだ自分の髪とは、比べものにならない。柔らかで、繊細な黄金色の長い髪が緩く風にさらわれるのを、トランは見つめている。
その風と戯れるように美しい指を天に伸ばして、彼女はこちらを振り向いた。優しく深い青の目を愛しげに細められると、彼はいつでも、同じようにほほえみ返さずにはいられないのだ。
唇が静かに、あなた、と呟いた。しかし彼女の手は、差し出された彼の指に触れる前に消えてなくなった――。
「………」
何か夢を見た、と思う間もなく、広い部屋を見回した途端に夢の中身がするすると霧散していく。カーテンの隙間はまだ暗い。夢の最初の方は明るいところにいた気がしたのだが――そのせいで夜明けまでまだずいぶんかかりそうな外の暗さが、いっそう冷たく感じられた。夢というものはどうして、良くても悪くてもたちが悪いのだろう。
彼は寝不足だった。だが、目は冴えていく一方だ。どうせもう、横になったって眠れはしない。本当なら朝までぐっすり眠れるたちのトランは、いまだにこうしたまじりまじりとした気分のうまい扱い方を知らないのだ。
彼女なら、どうするだろう。例の、トランにはまったく再現できないレシピを使って、温かいお茶を注いでくれるかもしれない。大丈夫よと言って、トランにつきあって起きていてくれるかもしれない。どちらにせよ、彼女がいればこんな気分にはならないのだから、分からない。
彼女がいてくれさえしたら。
「アウラ」
妻の名を呼んでみると、夢とともに消えた彼女が少しだけ彼のもとへ戻ってきてくれたような気がした。その面影をどんなに大切に抱きしめても、一枚だけの毛布から外へ出した手には冷たい寝台しか触れない。
返事は返ってこないのだ。もう二度と。
※
「マルテルからの要請がどうなったかって? 」
トランは執務室を訪ねてきた人物を見返した。
トラン・ヴィヴァンは、ミゼルカ海軍の中将だ。まだ若いが、人柄が誠実なのと、国王の姉の娘を妻にもらったのとで国王から信任され、王都デルテの中央海軍府に配属されている。
別に、特別自分に軍人としての優れた素質があるとは、トランは思っていない。誠実というのだって、馬鹿正直なだけ――今回のようなことがあると、いっそうそれが感じられるのだ。
中央海軍府に拠点を置く王都通信局局長ネリー・フランジュパニは、トランの皮肉っぽい顔をじとりと見た。救援要請だろうが祝報だろうが弔辞だろうが、最初に受け取るのは彼女たちだ。だが、その詳細と行く末を最初に知るのは彼女たちではなかった。
「マルテルとバーシュ、いよいよ開戦! 近頃は、それでもちきりですわ。マルテルからの参戦要請がどうなったかだって、国民には知る権利があるんじゃございません? 」
「まだ正式に決まったわけじゃないんだ。表沙汰にするわけにはいかないよ」
「なら、大筋は決まっているということでしょう」
「まあね」
トランは頬杖をついた。機密は機密だが、トランも誰かに聞いてもらいたかった。それに、ネリーの役職であれば、共有してもよさそうな情報だ。
「マルテルとともに参戦してバーシュを相手にするか、どちらにも肩入れせずに中立を決め込むか、だ。……もう答えは決まったようなものさ。昔から言われているんだろう? このあたりの海域では、何十年かに一度は小競り合いが起こるって」
「ええ。そしてどんなに徳のある指揮官でも、戦いを回避することはできないと――」
ネリーは何か言いたげにトランを見た。トランは肩をすくめた。
「だって、どんなに徳のある指揮官でも、軍人だからね。国王とは違うさ」
「それはそうですが。戦争なんて、おもしろいものじゃありませんわよ。毎日毎日、あっちで勝ったのこっちで負けたのって……わたくしが子どもの頃の話です。この年になると、子どもの方が大人よりずっと賢いんじゃないかしらって、思うことがありますわ」
「知ってるつもりさ。人間だけが犯す愚行がどんなものかくらい」
ミゼルカがマルテルと同盟することを表明したのは、この三日後のことだった。トランは艦隊をひとつ任され、バーシュとの国境付近へ送られることが決まった。彼の意志は、そこにほとんど含まれていなかった。
「あなたは、本当にどうして海軍で働こうと思ったのかしらね」
夫が暗い顔をしているので、アウラは笑った。その手から温かいお茶を受け取りながら、果たして今度の戦争に関わる人々のうち何人にこういう幸せがあるのだろうとトランは思った。そして、何人がその幸せを失うことになるのだろうと。
トランはぼやいた。
「僕は船に乗りたかったんだ。最初のきっかけは、それさ。そして、交易する船を警護したり、港を整備したり、国民の安全を守ったり、救助に行ったり、そんなことをしたかったんだよ。誰かに向かって大砲を撃ちたかったわけじゃない。……公の武力ってのは、一歩間違えばこんなありさまさ」
「あなたは優しいもの」
アウラはかたわらから夫の髪をなでた。トランはほほえんだが、それはかなり自嘲めいた笑い方だった。
「優しい、か。単に臆病なだけかもしれないよ。たとえば、君や……」
「大丈夫よ。わたしも一緒に行くもの」
たとえば君やあの子に何かあったとしたら、とトランは言おうとしたのに。彼は耳を疑った。なにが大丈夫なものか、彼にはまったく分からなかった。
「……なんだって? 」
「わたしもあなたと一緒に行きます」
アウラは繰り返した。トランの反応など分かっていたと言わんばかりだ。トランは自分の声がこんなにもすがるような響きを持てることを知らなかった。
「ねえ君、……冗談だよね? 」
「まあ」
アウラは心外そうに眉を上げた。
「冗談でこんなことが言えるわけないでしょう! 陛下がおっしゃったのよ。おまえもトランについて船に乗れって」
トランは頭を抱えた。現国王のメッケンドルフ一世はアウラの叔父だ。トランも、格別に目をかけられている自覚はある。忠誠を誓うにふさわしい君主だとも思う。
だが、実の姪を戦場へ送ろうというなら話は別だ。
「反対されるだろうと思ってたわ」
アウラは黙ってしまった夫の顔を覗き込んだ。
「でも、わたしは〈ミセルマの子〉よ。足手まといには――」
「そんな問題じゃない! 」
トランは思わず大きな声を出した。アウラとトランの間に、こんなふうに言い争いが起こったのはこのときが初めてだった。ごめんよと謝りながら、トランはアウラの気持ちを尊重しつつも自分の主張を曲げずに済む方便はないかと必死に頭を働かせた。
「君が足手まといになんかなるわけない……君の力は、将校が百人いたって代わりはできない。……でも、僕は反対だよ。たとえ陛下の命令でも」
「あなたが船に乗るのはいいの? 」
「君は女性だろ……」
「男性なら戦争で死んでも構わないっていうの? 」
「アウラ、お願いだから……」
ふたりの主張はいつまでたっても折り合いがつかなかった。
アウラはため息をついて言った。
「……あのね。陛下は、わたしの力が役に立つからあなたについていけっておっしゃったわけじゃないのよ」
「……じゃあ、なぜ。人の奥さんを戦争に連れて行けっていうくらいだ、よっぽどのわけがあるんだろうね? 」
アウラは誰かに聞かれるのを恐れるように、あたりを見回した。そして、声を潜めて言った。叔父さまに聞いたんだけど、と前置きして。
「ミゼルカは、呪われているのよ。バーシュも、マルテルも。ミゼルカ王家では、そう伝えられているそうよ。古い詩に残されているんですって」
呪い?
トランはなんと返事をしたものか言葉に詰まった。トランを黙らせるためにアウラが突拍子もないことを言い出したのだとしたら、大成功だった。だが、アウラはいたって真剣で、トランの反応がいまいちだったので、かえってむきになった。
「呪いが生まれたのは、ずっと昔のことよ。その呪いのために、この海域の三国は、何度も殺し合わなくてはならなくなったんですって……」
「……誰の呪い? 」
「叔父さまは、神の呪いだとおっしゃっていたわ。ここに国ができた頃の話だそうよ」
トランはどうしたらよいのか分からなかった。神の呪いだって? このご時世に? 本気で? だが、アウラは自分が変なことを言っているとは思っていないようだったし、アウラも彼女の叔父も、こんなに下手な冗談は言わない――まして、そんな冗談を理由に戦場へ出るなどとは、言うはずがなかった。
しかたなく、トランは彼が一番気になっていることに話を戻すことにした。
「だからって、君が船に乗らなきゃならない理由にはならないだろ。別に、君が神さまに呪われてるんじゃないんだから」
しかし、アウラは首を振った。
「三国の王家には、必ず〈ミセルマの子〉と同じように、不思議な力を持った子が生まれるの。バーシュなら〈バーシュの子〉、マルテルなら〈マルテルの子〉と呼ばれるわ。そして、必ずバーシュと他のふたつの国の間で戦争が起きる――その戦争では、王家の〈ミセルマの子〉〈マルテルの子〉が〈バーシュの子〉と戦わなければならないというの。……いいえ、たとえ本人にその意思がなくても、戦わざるをえなくなってしまうの」
「だから、今回は君の番ってわけかい? 」
「そういうことなんだと思うわ――だから、あなたがどんなに止めようとしても、わたしがどんなに行かないと言っても、もし叔父さまがご命令を取り下げても、わたしは必ず戦場へ行くことになるわ。それでも無理に呪いに背こうとすると、もっと悪いことが起きるっていうし……同じことならあなたと一緒にいられる方がいいわ」
「……僕、君のことは疑わないって決めてるんだけど……」
「ええ、疑っても構わないわ。わたしだって、全部を信じてるわけじゃないもの……呪いだなんて現実的じゃないし。でも、わたしたちが〈ミセルマの子〉と呼ばれて、不思議な力があることは本当だし、叔父さまは冗談でこんなことを言うような方じゃない……わたしに船に乗るように命じたとき、おまえには知る権利があると言って、そっと教えてくださったのよ」
それに、と言ってトランを見たアウラの顔は、意外なほど明るかった。
「どうせ行かなければならないなら、なるべく良い点を考えた方がいいわ。わたし、少し嬉しいの。毎日あなたの帰りを待って心配しているだけなんて、とても耐えられないもの」
結果として、アウラの風があったためにトランたちの艦隊は敵艦隊に対して常に有利な立ち回りを演じ、戦われた海域の地名からのちにエル・トートスの戦いと呼ばれることになるこの海戦は、トランたち連合軍の勝利に終わった。戦争自体も、この勝利が決定打となってじきに収束した。
アウラの言う、〈バーシュの子〉や〈マルテルの子〉がいたのかは、トランには分からなかった。あの海戦で戦ったのはトランたちではなく、本当は呪いに縛られた〈子ら〉だったのだろうか?
戦争が終わったあととなっては、それも知りようがなかった。ミゼルカの〈ミセルマの子〉であるアウラがミゼルカの土を生きて踏むことは二度となかったのだから。アウラの風は甲板に飛び込む銃弾や砲弾を次々に弾き飛ばしたが、その風をくぐり抜けた一発の弾丸がまっすぐに彼女を撃ち抜き、彼女はそのまま波の底に沈んでいった――。
エル・トートスの戦いでアウラが連合軍を助けたことで勝利が決まったので、トランにはミゼルカ・マルテル両国から弔意と恩賞が山のように送られ、地位も大将に引き上げられた。
「トラン・ヴィヴァン。……まことに、大儀であった」
メッケンドルフ一世は、憔悴した声色で玉座からトランに言った。その声には、トランに向けた心遣いと、国王自身の感情の揺れが、隠されようもなく現れていた。表情だけは、君主としての平静を装っていた、かもしれない。顔を上げられずにうつむいていたトランに国王の顔は分からなかった。国王も、無理に顔を上げさせることはなかった。
ミゼルカ国内はどこも勝利に沸き、沈んだ顔をしているのは国王と自分くらいなのではないかとトランは思った。称賛の中に羨望をにじませてくる同僚は、トランの心の内側に何があるかになど興味はないようで、どこの酒宴にも入ろうとしないで暗い顔をしているトランを励ましたり叱咤したりした挙句、最後にはあきらめて何も言わなくなった。あいつは位が上がってからお高く留まるようになった、などと、心ないことを言う輩も少なからずいたが、称賛や激励と同じく、トランの耳には届かなかった。
英雄など、彼には荷が重すぎた。今度のことでトランが失ったものは、彼が手に入れたものでは埋め合わせのできないほど大きなものだったのだから。陽の照っていた彼の聖域は暗く翳ってしまったのだ。それはまとわりつくようなどす黒い影ではなかったが、トランが自分のものとなっている手柄を思うたびに、あざのようにしつこく痛んだ。
※
トランが大将になった八年後、今度はミゼルカとバーシュの間でひと悶着持ち上がった。この数年は表面上何の衝突もなく、何とか均衡を保っていたのだが――。
「デルテに着くはずの商船が行方知れずになっていると、あちこちから通報が」
ネリー・フランジュパニは淡々と言ったが、顔色があまりよくない。何百を超える訴えを処理してきたのであろう疲れを思って、トランは頭を下げた。
「ありがとう、ネリー」
「何です、改まって」
ネリーはちらりと笑ってみせたが、すぐにその時間すら惜しいというような厳しい顔をした。
「マルテル、バーシュ、両国の船が、本国の港を出航したきりだというんです。ミゼルカを指してくるものだけが。そのうちのいくつかは本国へ戻り、正体の分からない船に襲われたと……」
「それで、うちの国の船は無事だというんだろう」
「ええ、もうお分かりかと思いますが……」
トランは書類にサインを書いていた白い羽根ペンを放り投げた。
「今、ミゼルカ海軍と王立学府が総力を挙げて調査している。この近辺の海域で、何か異常気象のようなものか、今まで観測されていなかった凶悪な海流があるんじゃないかとね……航路の見回りも強化しているところだ。手は尽くしているよ」
ネリーは不安そうに目を伏せた。
「……もちろん、何の証拠もありません。どこかの策略という証拠も、この国の仕業という証拠も。でも、バーシュの一部では、そういった声が上がっているようですわ。マルテルの方は表立って何も動きがありませんが、いつ態度が裏返るか」
「………」
この海域の三国は、それぞれに協定を結んで私掠船を禁止している。もしこの協定下で、どこかの国の船が略奪行為を働いているとしたら――。それが、ミゼルカの船だと思われているとしたら――。
だが、どうやって? 少なくとも、トランの管轄する海域では巡視を徹底させているし、目立った報告も上がってきていない。海軍の目をかいくぐって他国の船を襲うなどということができるはずがない。
「……うちの海軍が何か企んでいるとしたら話は別か……」
「なんですって? 」
「たとえば、誰かわざと火種をまくようなことをしているとか……」
ネリーには答えず、トランは部屋を飛び出した。彼は清廉で、勇気もあった。その点でだけ、公に武力を持つものとしての素質があると思っている。
彼のただひとつの欠点は、正直すぎることだった。不実とか偽りとか身勝手とかいうものを、トランは自分で人並みに持っていると思っているが、彼に想像しうる不実の類は、本当に不実な人間の半分にも満たないということにはまったく気がついていなかった。
「提督殿」
トランが厚い木の扉をノックすると、返事はなかったが、ややあって誰かがトランのためにドアを開けてくれた。窓際の大きな机で、ハインリヒ・ルーフ提督がでっぷりと太った腹を重そうに揺らして不機嫌に言った。
「入れといった覚えはない」
「彼はこの国の大将でしょう。この場にお呼びしてもよかったくらいだ」
トランを通してくれた男がとりなすように言った。トランは彼を知っていた。エル・トートスでともに戦った、マルテルの将官――マロード・ヴァイゲルだ。彼はトランに丁寧に頭を下げると、決して明るくはない空気の中で一度だけ親しげなほほえみを見せた。
「後々話を通せば同じことだ」
ルーフはつっけんどんに言った。もともとこの上官に敬意を抱くべきなのかどうか疑問を感じる節はところどころにあったが、はるばる国を渡ってきた客人に対して部下に対するような口の利き方をする、この上官の無神経さが、トランは特に好きではなかった。
マロードは気にするふうもなく、もう一度トランに頭を下げて、そのまま部屋を出た。彼の話はもう終わったあとのようだった。
「で? おまえの用はなんだ、ヴィヴァン」
さっさと話してさっさと出ていけとでも言いたげな口調でルーフが尋ねた。
「……さっきの方は、なんと? 」
ただの挨拶で、隣国の将官がこんなところへ来るはずがない。間違いない。トランの用と、マロードが来たこととは、関係があるのだ。
「中立を取ると言ってきた」
ルーフは脂ぎった指で皿のチーズをつまみ、ぐちゃぐちゃと嫌な音をさせながら噛み砕いた(ルーフは執務室だろうがどこだろうが、常に何か食べるものをそばに置いておくのだ)。
「恩知らずな連中だ。今さら中立だと? 臆病風に吹かれおって! 」
「……またいくさですか」
トランが尋ねると、ルーフは馬鹿にしたような目で彼を見た。
「わけの分からん疑いをかけられて、黙っているつもりか? こちらから動かんでも、いずれ向こうから砲弾が撃ち込まれてくるわ――バーシュという国は、昔からそうだろう。そんなつまらんことを聞きにきたのか、おまえは」
「……いえ……なんでも……」
トランはそれ以上何か尋ねる元気を失い、ふらふらと廊下へ出た。すると、そこでネリーとマロードが待っていた。
「こんな寒いところで……」
トランは自分の部屋へ招き入れようとしたが、マロードは手でそれを制した。
「長居はいたしません。わたしはあなたがたにとって、決して歓迎したい相手ではないはずだ。特に、あなたの上官にとっては」
「そんなことは……」
トランが言うとネリーも頷いたが、マロードは首を振った。
「エル・トートスのとき――あなたがたには、大変な助けをいただいた。忘れられるはずがない。恩知らずとおっしゃるならそれは当然だ」
あの戦いは、彼にとってどういう思い出なのだろうとトランは思った。
マロードは続けた。
「我々は――マルテルとミゼルカは、歴史的に見ても対立関係になったことはない。これだけいくさの絶えない三国にあって、常に好ましい関係が保たれていた。――しかし、今回のような分かりやすいが解明しにくい火種には、近寄りたくはないのです。中立というのは、我が国の最大の……あー……友好の表明だということを、なにとぞご理解いただきたかったのだが」
「もちろん」
「ここからは、マロード・ヴァイゲルとして言わせてもらうが」
マロードはそう前置きしておいて、トランを正面から見た。
「少なくとも、わたしはあなたのことは信じている。エル・トートスでご一緒しただけだが、そのくらいは分かるつもりだ。あなたは優秀な指揮官であるばかりか、誰よりも平和を望んでいる。軍人としてのあるべき姿だ」
「……そうだろうか」
「あなたがその地位にある限り、わたしはミゼルカという国に対して敬意を払う。もっとも、あなたの上官殿は……」
マロードはさらに続けようとしたらしかったが、自国の品性のために口をつぐんだ。
マロードのまなざしの強さは、今のトランには耐えられなかった。
「彼のような人も、組織には必要なんだ……下につくものにとっては、最高の酒の肴さ」
思わず冗談めかして言うと、相手もにやりと返してきた。
「そりゃ、さぞ杯が進むだろう。……ほどほどに」
マルテルと同盟しようとしまいと、今度はエル・トートスほどの戦果は挙げられないだろうとトランは思っていた。天下の〈英雄〉にはふたたび艦隊の指揮権が――前回よりも大規模な艦隊の――回ってきたが、もう彼のために一緒に戦場へ行ってくれるひとはいなかったから。
いくら〈神の呪い〉とやらでも、いもしない協力者を都合することなどできるはずがない。アウラが蘇るというのなら話は別だが! しかも、もしそんなことが起こるなら、トランは今度こそ彼女を戦場へ連れて行くなどということをするつもりはなかった!
それでトランは、少し安堵したのだ。〈呪い〉を出し抜いたと、アウラの仇を取ったような気になって晴れ晴れとした気持ちすらした。もう二度と、自分だけが生き残ったなどと、思わなくていいと――。
だが――。
「なんだ、そんなことか」
前回の大勝利がトランの妻の力によるところが大きいと知っているルーフ提督は、何のてらいもなくそう言った。
「王家の〈ミセルマの子〉は、何も君の奥方ばかりではない。知らんのか? お妃さまのいとこに当たる娘が、メーアに住んでおるんだ。力を埋もれさせないためだとか言って、先代が王族から抜けて地方に移住したとか。今は、一般市民の扱いだったと思うが」
「……まさか、その方を徴発せよと? 」
トランが呆然として聞き返すと、ルーフは横目でトランを見た。
「仕方なかろう、陛下じきじきの命なのだから。こちらだとて、単なる一般人であればただの足手まといだが、〈ミセルマの子〉であれば話は別だ。君の奥方が、それを証明した」
トランは眩暈がし、吐き気に襲われ、気がついたら提督の部屋を辞して、薄暗い廊下をふらふらと歩いているところだった。打ち破った気になった〈呪い〉の二文字が、頭の中を重く去来した――バーシュと、他のふたつの国の間で戦争が起こる。王家の〈子ら〉が戦いに出なくてはならない。呪いに背こうとすると、いくさよりも悪いことが起こる――ああ、だからといって……だからといって……。
気分が悪くなるほどぐるぐると考え続けたトランは、気がつかないわけにはいかなかった――どんなに嫌悪を抱こうが、自分も結局は国王に従わざるをえない立場にあり、〈呪い〉に背く資格どころか、そのための勇気すら持ち合わせてはいないのだと。
※
数日後、ふたりの〈ミセルマの子〉がメーアからやってきた。ひとりは女性で、ルーフの言う王妃のいとことはこの人だろうと、大臣たちや他の将官たちとともに立ち会ったトランは思った。もう一方は彼女の夫だということだった。
「よく来てくれましたね、リサ。それに、アルクーネ」
王妃が挨拶すると、ふたりは頭を下げた。
メッケンドルフ一世が続けて言った。
「わざわざ呼び立てしてすまなんだな。……おまえたちの力を貸してもらいたい」
「はい。――ミセルマのご加護がありますように」
リサは美しい声で言った。王宮の歌い手のような作りこまれた声ではなく、森の梢に鳴く小鳥のような素直な響きのある声が、余計な飾り気のない彼女の姿と相まってとても印象的だった。
だから、ヴィヴァン大将、と廊下で後ろから声をかけられたとき、すぐに相手が誰か分かった。
「やあ、このたびは……」
トランがかしこまって挨拶しようとすると、リサとアルクーネは親しげなほほえみを見せた。
「あなたは、良い目をされていますね」
と言ったのは、アルクーネだった。彼はメーアよりさらに北の地方の出身らしく、言葉尻にまろやかな訛りがあった。
「……良い目? わたしが? 」
トランはなんと言っていいか分からなかった。困っているトランのために、リサが言い足した。
「ええ。あの場で、国王陛下と女王陛下の他に、あなただけがその目をしていらした。戦乱を嫌い、人を愛する目……誠実で、欲がなく、悲しみが奥底に横たわっている。……何かが、失われた。でも、あなたはいくさを恨んではいない」
「……どうして」
リサは勝手にごめんなさいね、とほほえみながら言った。
「ミセルマは、〈慧眼〉の女神です。その力を受け継いだわたしたちも、人の心が分かることがある。あなたにとっては、触れられたくないことでしたでしょう。だけど、だからあなたに声をかけたのです。わたしたちに、通ずる目だから」
トランはうつむいた。だとしたら、彼らをここへ呼ぶのはやはり間違いだったのではないか――。
「わたしの両親は、あるとき王都を出てメーアの山奥で暮らすようになりました。多分、戦争を避ける目的もあったでしょう。わたしたちの力は、災いを呼ぶこともできる。森の賢者として子どもを取り上げることもあるけれど、人を殺すために使うこともできるんです。船を嵐から救うことも、海底に沈めてしまうことも同じようにできるんですもの」
「……エル・トートスのときのように」
「ええ。いくら陛下の命があったからといって、〈ミセルマの子〉が戦場へ出ていくなんて、どうしてかしらと思っていたんです。逆らえない命令だったからという理由だけなら、きっと辛かっただろうって……でも、陛下やあなたにお会いして、分かりました。そのひとは、自分の意志であなたと一緒に行くことを選んだんだと」
「エル・トートスのときに力を貸してくれた〈ミセルマの子〉は……」
トランの声は、なかなか思うとおりに話をさせてはくれなかった。うっかり泣きそうになったのを瞬きでごまかしたけれど、彼らの前でなら泣いてしまってもいい気がした。
「――わたしの妻だったんです。わたしの――娘の、母親だった。わたしは……」
リサとアルクーネは顔を見合わせ、やがてトランに向き直った。彼らはごく自然な調子で言った。
「……そう。うちにも、女の子がいるんです。帰りましょうね、わたしたち。娘たちのところへ」
※
辛くもミゼルカの拠点に戻ってきたとき、船はすごいありさまだった。帆の引き千切れた幽霊船のような船は今やひと気なく、あるかなしかの波にふらふらと揺られている。
トランはところどころ穴の開いた甲板を走りながら人を探していた。折れたマストに挟まってぴくりともしない布切れにぎくりとしたが、それは軍服と同じ深緑色の海軍旗だった。銀の錨に、ミセルマの象徴であるウミヘビ。何人もに踏まれたあとがあった。
彼女が座り込んでいたのは、その折れたマストの足元だった。人目に触れまいとするように、陰に入っている。脚がおかしな向きに曲がっていた。
「リサさん! 」
リサの肩は、震えながら上下していた。揺するのをためらってそっと手をかけると、リサはゆっくりと顔を上げた。
「大将……申し訳ありませんね。立てなくなってしまって」
「それだけですか? 」
バーシュの海軍が、トランの指揮する艦隊を――〈ミセルマの子〉を警戒してきたのは間違いなかった。風を有利に使って攻めることも退くこともできないように、何百艘もの軍船でトランたちを挟撃し、沖で殲滅しようとしてきた。そして、トランは確かに見たのだ。バーシュの軍船について飛び回る、何者かの姿を――翼のある人間のような。あれが、〈バーシュの子〉だったに違いない。
トランたちは防戦一方の不利な戦い方を強いられ、〈ミセルマの子〉の力があったために、辛うじて壊滅を免れた。退路を開いたのは、アルクーネの風だった。彼が解放した最後の風が起こした大波がバーシュの艦隊を左右に押し流し、その隙にミゼルカの艦隊は包囲網を抜けてきた。アルクーネは、一体どうやってあんな風を捕まえていたのだろう? ミゼルカの艦隊にとっても大嵐なみの暴風だったが、一枚岩の水夫たちが舵を守り切った。勝ち負けなど、気にしている暇もなかった。
アルクーネ自身は、退却のさなかに甲板をさらった波に巻き込まれて船から引きずり落とされ、行方が分からない……と、トランのもとに報告があった。
リサは苦笑いのようなため息をひとつこぼした。頼りない動きだった。
「肋骨が折れてしまったようですわ」
「まさか、肺に……」
リサは否定しなかった。呼吸が浅いのは、痛みのためなのだ。
「そうかもしれません。自分では、分かりませんが……」
リサの声は、もうほとんど聞き取れなかった。わずかに開いた唇から、温かそうな色をした血がしたたり落ちた。
「気をしっかりお持ちなさい! あなたが死んだら……」
トランはどこか遠くへ去ろうとしているリサを呼び止めようと声を張った。本当に呼び止めたかった人は、その前に彼の目の前からいなくなってしまった。
彼女もそうやって失われていくのか? 冗談じゃない!
「あなた方が死んだら、あなた方のお嬢さんを誰が愛するんです! 」
自分は今度も、生き残った。だがアウラは、娘がふたつのときにいなくなってしまった。使用人では母親の代わりはできなくて、あの子は毎晩泣いていた。
トランの姉が、わたしが引き取りましょうかと言ってくれたが、それは断ってしまったのだ。だけど、自分は父親で、やっぱり母親にはなれなくて、あの子は泣いた。泣いた。
リサの娘には、もう父親はいない。今ここで、母親までも失わせるわけにはいかない!
「リサさん」
リサは返事をしなかった。その目でトランのことも、血みどろの船も、何もない海も飛び超えて、誰かを見ていた。
「ミカゼ」
胸に小さな誰かを抱きしめて、リサはこと切れた。彼女の唇に残るほほえみのわけを、トラン以外が知ることはないだろう。
トランはリサを抱き上げて、その場をやっと離れた。駆け寄ってきた衛生兵が代わって引き取ろうとしたが、トランはそれを断った。彼にできることは、他には何もなかったのだから。
※
「ひどい」
マロード・ヴァイゲルが怒りを込めて言った。腹の底からの怒りを表に出すことが、今の彼が友のためにできるせめてもの慰めだった。
「まったくひどい……」
「マロード」
トランは顔を上げないまま相手のグラスを引き寄せた。
「飲みすぎだよ」
「これが飲まずにいられるか。……君には前に、君に地位が与えられている限りおれはミゼルカという国に敬意を払うと言ったな。こんな状況になった以上、前言撤回だ」
「……少なくとも、陛下と提督は惜しんでくださったよ。それに、これは僕から言い出したことなんだ」
「そうだとしても、おれだったら、殴ってでも止めてたさ……君の意志に反することだったとしても、そのままよそへやりはしなかった」
「分かってるさ。君が僕のために怒ってくれてることは……でも、いいんだ」
トランは椅子にかけたままだった上着を取って肩からかけた。今、彼が心から友人だと思っているのは、マロードひとりだ。バーシュとの戦いのあとのトランの扱いを聞きつけて、わざわざマルテルから駆けつけてきた。そして、トランの代わりに息巻いている。
「分かってるんだ……」
戦争は、ミゼルカの勝ちで終わった。トランたちは危うく壊滅しかけ、大敗を喫したが、どうやらバーシュはトランの艦隊を対策するために戦力を割きすぎたようだ。他の戦いでの戦果が思わしくなく、最終的にミゼルカより先に降伏する形となった。
トランにとっては、鉛のような勝利だった。
「勝ちは勝ちです」
海戦を生き残った水兵のひとりが、泣きながら言った。若い顔だった。
彼は、同じ船に乗り組んでいた友人を亡くしていた。
「大将、誇ってください。みなの働きを……お願いですから」
だが、すべてが終わったあとでトランが望んだものは、称賛でも尊厳でもなかった――もっとも、彼がそれらを望んだことは一度もなかったが。
メッケンドルフ一世は、玉座から苦い顔を向けた。
「トラン・ヴィヴァン。このたびも、まことに……まことに大義であった」
「……はい」
「……そなたにこのようなことを申し渡すのは、わしとしても心苦しい。だが――」
「いえ。わたしはあの敗北で指揮下にある艦隊に大きな損害を出しました。さらに、従軍した〈一般市民〉を救助することなく、その場を落ち延びました。彼の行方は、まだ分からないままだ……指揮官として、あるまじきことです。彼の妻も、救護が遅れたために……」
居並ぶ将官や大臣たちがざわめいた。誰もが、バーシュとの交戦がいかに過酷なものであったかを聞いている。中には、トランの副官として船に乗っていたものもいるのだ……あんな戦況を、艦隊を壊滅させずにくぐり抜けてきたトランが責任を問われるなど、どうかしている。第一、いくら損害を出したといったって、ミゼルカは勝った側ではないか!
トランが責任を問うようにとみずから進言したのだとしか思えなかった。
「わたしは、どのような処分も受ける所存です」
「うむ……」
メッケンドルフ一世はややあってようやく、呻くように申し渡した。
「……トラン・ヴィヴァン。このたびの指揮官としての責任をかんがみて、――そなたの大将位を剥奪する……」
「残念だ」
玉座の間を辞すとき、すれ違いざまにルーフ提督が言った。
「おまえのような男は、こうするに違いないとは思っていた。だが、分かっていたとしても、あまりに残念だ」
そして、トランはレーヌ・エリス島へ越してきたのだった。
「陛下は、国を出ていけとはおっしゃらなかった……剥奪したのは大将位だけだから、中将に戻って任務に就いてほしいとまで言ってくださった。ありがたいことさ。僕は自分で罰を受けると決めたのに、陛下は引きとめてくださったんだから」
「……本当に、それでよかったのか。本当に」
「いいんだよ。僕はもう、……疲れた。体のいい退職届さ。……娘だって、預けてしまった。とんだろくでなしだよ」
伯母に連れられて行きながら、一度だけ自分を振り向いた娘の目を思い出して、トランは言った。父親の事情など、彼女には関係ない。彼女にとってトランは、母親を死なせ、自分を捨てた男に他ならないのだ――だが、文句ひとつ言わずに娘は彼の手を離れた。
恨みがましいまなざしを覚悟していたトランを見つめた目はトランがたじろぐほど冷静で、恨み言よりも痛いことをトランに言ってきた……いくじなし。
間を置いて、マロードが言った。
「トラン」
「なんだい」
「うちの国へ来ないか」
ずいぶん思いつめたような言い方だったから、トランはかえっておかしくなった。
「マルテルから海軍がなくなったら行くよ」
トランは一瞬、マロードが掴みかかってくるのではないかと思った。確かに、マロードはそんな顔でトランを見たのだ。でなければ、友人の体たらくに失望して、もう何も言ってくれないかもしれない。
だが、マロードの反応はそのどちらでもなかった。彼はトランの言葉を聞くと、そうか、と呟いて椅子に座り直し、トランが淹れたお茶を飲み干した。それはすっかり冷めて、配合もめちゃくちゃで、やけになったのでもなければとても飲めないような代物だったのだが。
「それじゃあ、君はこれからどうするんだ? いっぱしのろくでなしになるのは、楽じゃないぞ」
「えっ? 」
「ろくでなしを馬鹿にするな。自分をろくでなしと認めたんだったら、ろくでなしなりの生き方をするんだ。いいか? ろくでなしってのは、自分がひどい目に合わせた連中のことなんか気にせずのうのうと生きてるやつのことをいうんだ。だが、今の君はそのくらいろくでなしになったっていいさ」
「何度も言い過ぎだよ……」
「だが、楽にはなったろう。君がろくでなしでも、幻滅しない人間がひとりはいるんだからな」
トランは黙り込んだ。マロードは木と石と土でできた小屋を見回した。以前は農夫が住んでいたらしいが、町へ移り住むことを決めて、管理していた畑ごと安く手放したものだった。小さく、古い小屋だったが頑丈で、人通りの少ない場所を探していたトランにとって、これ以上ない物件だったのだ。
マロードは開け放した窓から外の畑を見ながら、トランに聞いた。
「君、玉ねぎは好きか? 」
「玉ねぎ? 」
トランはまずいお茶に白湯を足しながらオウム返しした。
「考えたこともなかったよ……別に嫌いじゃないけど」
「そうか。ならぜひ新事業として検討すべきだな。裏に、あんなにいい畑があることだし」
「農業かい? 」
トランは思わずひっくり返った声で聞き返した。
「いきなりできるもんじゃないだろう? 僕、花も育てたことないんだから」
「心配するな。おれの家は農家だったんだ。玉ねぎだろうがじゃがいもだろうがとうもろこしだろうが、君を一人前の農夫にしてみせるぞ」
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