3、エリス

 いくら他に方法がないとはいえ、見知らぬ森へ分け入ったりして大丈夫だろうかとミカゼは思ったが、翌朝その心配は杞憂に終わった。近くを通ったミゼルカ海軍の巡視船が停泊しているベルマリーとその船員たちを見つけてくれたのだ。マリーが事情を説明し、ベルマリー号をエリス港まで引っ張ってもらうことに決まった。


 とはいえ、ミカゼは海軍と聞いて、喜んでばかりもいられなかった。あのニルス・パーミリオが、何か手を回しているかもしれない――彼がミカゼの行方を突き止めるまでに、どのくらい時間がかかるだろう? もうすべてを知られている可能性は? 


 嵐の違和感を、ミカゼは忘れようがなかった。あれは、同族の仕業だ。パーミリオは、自分もミカゼのような力を持っていると言っていた――。


 「……似合わないな」


 カツミはだぶだぶのシャツと生成りのズボンを試したミカゼをひと目見るなりそう言った。アニーがマチ針をくわえてもごもごと喋った。


 「いいのよ。見習いなんてこんなもんでしょ。小柄で、着ているものだけきれい。ただし、ぶかぶか」


 アニーは調達してきた布をミカゼの頭に巻き、少し離れて〈作品〉を眺めた。


 「もうちょっと、髪をぼさぼさにしましょう。もっとおどおどした感じにしてみて。カツミと同い年には見えないにしても、ミカゼだって分からなきゃいいんだから」


 巡視船にパーミリオはいないようだった。水兵たちにも、こちらを探るような動きはない。積み荷に気を取られているふりをしながら、ミカゼは足早に彼らの前を通り過ぎようとした。


 「おい、坊主」


 背の高い水兵が、ミカゼの背中をばしんと威勢よく叩いた。ミカゼは思わず本当に咳き込んだが、おかげで彼から顔を背けても不自然には見えなかった。


 「もっと背筋を伸ばせよ。それじゃあおまえ、いかにもうすのろだぜ! 」

 「はあ、あンがとございます……」


 わざとはなをすすりながら、いかにもうすのろにミカゼが答えると、後ろで何かをごまかすようにカツミがむせた。


 巡視船は広く、快適だった。ベルマリーの船員たちは、巡視船の船尾楼で体を休めることを許された。嵐と戦った同胞たちへの、水兵たちの労いだ。


 甲板では、巡視船の船長とマリーが話をしている。何を話しているのか、ミカゼたちからも聞くことができた。


 「いやはや、大変でしたなあ。よくぞ無事に――あー、みなさんが、という意味でだが、乗り切られた。よほどミセルマに目をかけられていると見える。やはり、同じ女性だからですかな」

 「それはどうでしょうね。反対に、女は自分の領分へ入れたくないのかも」

 「さもありなん。女神が嫉妬深いのはどこの国でも同じだ」


 初老らしい船長は朗らかに笑った。


 「マッシリアに行かれる途中だったとのことだが。今回のことで出た損害は、保険業者へ一緒に請求なさればよろしかろう」

 「まあ、命が助かっただけでも余分に儲けが出た気分なのでね。可愛く見積もっておきますよ」

 「なんと欲のない。こんなときのための保険ですぞ。うんと吹っかけておやんなさい。おかの上で机にへばりついているような連中に、嵐の何たるかが分かろうはずもないのだから」


 船長は鷹揚な様子で話をしていたが、その目がふと、水兵たちに明け渡されて巡視船に引かれているベルマリーをなめた。


 「――ときに、メーアを出た商船が軒並み災難続きというのはご存知かな? マストが折れるのは当たり前、まともに使える帆が残っていればマシな方、沈没しかけたものまでありましてな。ミセルマのもとへ迎えられたものだけは出ていないが、どの船も怪我人だらけというありさま。近辺の海運保険事務はてんてこ舞いだ。用心のために見回りを強化していたら、案の定あなた方を見つけることができたというわけでしてな」

 「へえ、それは」

 「その点ベルマリーは、比較的損傷も少なくて済んでいるように見える。ベルマリー、彼女には何か、幸運なものが乗っていたらしい。羨ましい限りですな」


 船長の灰色の目が、ベルマリーからゆっくりとこちらに向けられるのをミカゼは感じた。大柄な操舵手のアインマルトが立って、ミカゼをさりげなく自分の影に入れた。


 「もしそうならありがたいものです。ベルマリーも古い船だから、きっとそのせいでしょう」


 マリーはにっこり笑って、微動だにせずはぐらかした。魅力的な笑顔だった。アルベルトがウィンクした。


 「大丈夫ですよ。船長にあの笑顔を向けられて、それまでと同じ態度を取り続けられた男は今までいませんでしたから」

 「そうよ」


 アニーはミカゼを少しでも少年らしくみせようと試行錯誤を続けながら言った。


 「そんなに緊張してると、かえって目につくわよ。でも、〈アッシェン〉は新入りだから、船酔いして見えて自然かしら」

 「何か頼もしいものが船についていると」


 巡視船の船長は深く追及することなく、マリーの冗談に乗った。


 「この船も大分歳を重ねてきたのだ。かつては初々しい乙女のような美しい船だった。今は、知性と貫禄を持ち合わせた女王のようだ。だが、あまり大きい嵐に遭えば、おそらくひとたまりも――いや、これはいかん。本当に沈まれたら困る」


 エリス港では巡視船から連絡を受けた地元の職人たちが待ち構えていて、ぼろぼろの船にわっと殺到した。


 「カツミとアッシェン、頼まれてくれるかい」


 てんやわんやの船着き場で、マリーがミカゼとカツミに言った。


 「保険事務所へ行って、この書類を出してきておくれね。日誌を忘れずにお持ちよ」


 水兵たちも手伝いを申し出たので、マリーはそれとなくミカゼを船から出した。

 港には市が立っていた。目抜き通りにも路地にも人がごった返しているのを見て、カツミは眉間に皺を寄せた。


 「しっかりついてこいよ、アッシェン。はぐれたら二度と会えないぞ」

 「はい」


 人目のあるところでは、航海士と見習いのふりをしなくてはならない。ミカゼは忠実に返事をし、カツミが保険事務所の受付のガラス窓を叩くのを見守った。


 「はい、何か」


 そばかすだらけの顔を出した事務員は、航海士の中でも上位にあるものしか着られないであろう赤い上着を羽織った色の黒い青年が立っているのを見て明らかに居住まいを正した。カツミは普段、そんな重たいものは着たがらないが、マリーいわく、抜け目ない業者と渡り合うには見た目の威厳というものがある程度は必要らしい。


 「保険がどの程度降りるか見積もってもらいたいんだが」

 「拝見いたします」


 事務員は請求書と航海日誌を受け取って、丁寧にページをめくった。


 「難破でございますね。近頃多いようで。なるほど……」


 昨夜マリーがオールの上で書いていたものは、これだったらしい。くっついていた砂粒に何か訴えるものがあったらしく、事務員はそれを手で払い落としながら頷いた。


 「結構です。お預かりいたしましょう」

 「二、三日したら受け取りにくるから、しっかり査定してくれ」

 「はい、かしこまりました。……そこの君、大変だったろうね」


 事務員は厳つい航海士にくっついてきた見習いの少年に同情している様子だった。目の前の青年や自分と同じくらいの年齢の女性が埃っぽいシャツ姿に甘んじているなどとは、夢にも思わないのだろう。


 ミカゼは子供に対するような口の利き方に気を悪くしないでもなかったが、アニーの作戦通りに事が運んでいることを思って、黙って頭を下げた。


 事務員はそれで、ますます哀れっぽい目を向けてきた。


 「これ、あげるよ」


 事務員は窓口から手を伸ばして、銀紙にくるまったチョコレートをミカゼに差し出した。カツミはそっぽを向いた。見習いが甘やかされていたら、航海士としては見ないふりをしなくてはならないのだ。


 「船の上じゃ、ろくなもの食べられないんだろう? ……僕には弟がいてね。君、同じくらいだと思うんだけど、うちの弟に比べてもかなり小柄に見えるし……航海士メイトの旦那について、しっかり体を鍛えるんだよ」

 「あいつ口数は多いけど見る目がないな」


 賑やかな市場に戻りながら、カツミが呟いた。


 「あら、どうして? 」


 ミカゼが尋ねると、カツミはぶっきらぼうに言った。


 「おれには男に見えない」


 すぐに船に戻るわけにはいかないので、ふたりは船で必要になりそうなものを見て回ることにした。厨房用に、今あるものよりもひと回り大きな鍋。冬に向けて編みものをするための、色とりどりの毛糸。カツミはナイフを新調した。


 魚の出店などは、用がなくてもおもしろかった――ミゼルカ本島よりも温暖なエリス島近海の魚はどれも色鮮やかで巨大だったのだ。


 宝飾品の出店では、〈朝焼けの星〉を使った首飾りやら腕飾りやらが安値で売られているのも見かけたが、アルベルトの言うとおりはっきり染め物と書かれていたし、そうでなくても明らかに染め物と分かるきつい色合いのものばかりだった。


 だが、エリス島の一番の特産品は、なんといってもエリスオレンジだ。普通のオレンジの十倍ほども大きなエリスオレンジは、甘味よりも酸味が強く、壊血病をよく防ぐので、各国の船乗りたちに人気があるのだ、と出店のおやじさんがミカゼに教えてくれた。


 ――ところが、この果物屋の店先でひと騒動持ち上がった。


 「お嬢さん」


 後ろからそう呼ぶ声が聞こえたが、まさかこの姿の自分にそう声をかけてくる人などいはしまいと、ミカゼは振り向かなかった。


 「あなたですよ、メーアのミカゼ」


 今度は肩をつかまれたが、ぎくりとしてそちらを振り向く前に、その手を乱暴に外してカツミが割って入った。彼の背中越しに相手を窺い見ると、見覚えのある顔がカツミと睨み合っていた。装いこそ偽っているが、間違いない。


 ニルス・パーミリオがそこにいた。


 「冗談はやめてもらおうか」


 カツミは低い声で言った。


 「これはうちの見習いだ。こんな薄汚いお嬢さんがいてたまるか」

 「君は見る目がありませんね。我々からさらっていったわりには」


 かわいそうな果物屋のおやじさんは、店先ではじまった睨み合いをおろおろと見守っている。しかし、客足が遠のいたとはいえ、これだけ人目を引いている店も他になかった。


 「どうしてわたしがここにいるのか、分からないという顔ですね」


 パーミリオはカツミから視線を外し、ミカゼに声をかけた。


 「嵐を鎮めたのはさすがです。他の船は、あの程度の損害では済まなかった」

 「……やっぱり、あなたが」

 「そう。このところの相次ぐ海難事故は、わたしの嵐によるものです。あなたがたを襲ったのも、もちろんわたし。ついでに申し上げるなら、朝方あなたの背中を叩いて声をかけたのもわたしです」


 パーミリオは姿勢を崩し、わざと粗野な声を出した。


 「おい、坊主! 」

 「どうして他の船にまで嵐をけしかけたりなさったの? 」


 ミカゼは自分の姿を忘れて叫んだ。果物屋のおやじさんが、ぎょっとしてミカゼを見た。カツミはどうしても背中の後ろから出してくれなかったが、彼の肩越しに、ニルスの薄い色の瞳を睨むことくらいはできた。


 「〈ミセルマの子〉が、その力でわざと人を傷つけるようなことをするなんて! 」

 「多少の怪我人はいたしかたない。お優しいあなたのために言っておきますが、死者は出ていませんよ。ただのひとりもね」


 パーミリオは肩をすくめた。


 「あなたがどの船にいるのか分からなかったから、少し揺らしただけです。おかげで、思ったより早く特定できました」

 「わたしは、あなたたちのところへは行きません」


 パーミリオはこれを聞いてため息をついた。


 「――わたしだって、無理強いなどしたくない。しかし、たとえ恨まれたとしても、わたしは〈ミセルマの子ら〉を守らねばならない。……わたしの英雄のためにもね」

 「……あなたの? 英雄? 」

 「そう。――あなたのご両親です」


 パーミリオはこの瞬間、常にある人を食ったような態度をまったく見せなかった。


 「あなたのご両親は、国王陛下からの信任も厚い立派な方々でした。異端として扱われ、何の誇りもなく生きていた少年時代のわたしにとって、彼らのような存在は得がたい希望と言ってよかった。特別な力を使って国を救うために現れた彼らは眩しかったのです。彼らと同じように国防に携わろうと思うくらいには。しかし、結果は――あの海戦で、彼らはその名を貶められ、〈ミセルマの子ら〉は次第に世間から追いやられるようになった……」


 ミカゼは何も言えなかった。パーミリオはミカゼの顔を正面から見た。


 「あなたのご両親は、戦時下の敵方相手とはいえ許されないことをしました。〈ミセルマの子ら〉、特にその娘であるあなたが海軍に来てくだされば、それはご両親の贖罪にもつながる」

 「……人を大勢死なせたせいで怖がられているのに、わたしにまで同じことをさせようっていうのね。滑稽だわ」

 「人の情とは滑稽なものです。もし巻き込んだのがバーシュの民間人ではなく兵士であったら、人々の反応はまったく違っていたでしょうから」


 パーミリオはカツミの肩を押しのけ、すっと間を詰めてきた。彼の茶色い目の中に映りこんだ少年の姿をしたミカゼは、救いようがなく小さかった。


 「実にくだらない。……しかし、我々はそんなくだらない人々の情を無視して生きるわけには――」


 ――がつんというような鈍い音がして、パーミリオがよろめいた。


 「無理強いじゃ守ったことにならねえよ」


 カツミはパーミリオの頭に落としたおかげで凹みができてしまったエリスオレンジをおやじさんに投げ返すと、動けなくなったミカゼの手を引いて目抜き通りの人込みに紛れた。


 「待ちなさい! 」


 ふらつきながら後を追おうとしたパーミリオに、勇気と男気を奮い起こしたおやじさんが縋りついた。


 「お客さん、弁償してくださいよ! 」



 カツミは力なく自分に手を引かれているミカゼの様子に気がついていた。今彼女を放って置いていったら、彼女は走るのをやめ、その場に座り込み、誰かが連れ去らない限りそこでそうしているだろう。


 「ミカゼ――……」


 ミカゼが何かにつまずいたような気配があって、カツミは振り向いた。ミカゼは下を向いていた。下を向いて、泣いていた。


 カツミは気づかないふりをして走り続けた。ミカゼが気づかれないようにしていることが分かったから。


 大きな通りを抜けてしばらく行くと、あっという間に人通りもまばらな郊外に出た。追手の心配をするのが馬鹿らしいくらいに、実り豊かな畑のだんだら模様が呑気に続いている。


 「どうした、君たち」


 道端にへたり込んだふたりへ、畑から声がかかった。心をこめて野菜の手入れをしていた彼からすれば、のんびりした農道にいきなり人が現れたように見えたかもしれない。古ぼけた麦わら帽子をちょっと持ち上げてこちらを窺う様子は、いかにも人が好さそうだった。


 カツミは頼ってもよさそうだと判断した。


 「追われてるんだ」

 「えっ、何だって? 誰に? 」


 案の定、農夫はあっという間に首を突っ込んできた。


 「海軍のやつに。見つかったら、多分連れて行かれちまう。……でも、誓ってこいつが悪いわけじゃないんだ」

 「海軍……」


 農夫は農夫らしからぬ目の動きでふたりの後ろを確かめた。だが、それも一瞬のことだった。


 「軍の人間をまいたのかい。たいしたものだね」


 カツミは航海士の上着をミカゼの肩に着せかけた。海軍の将校のものと張り合うくらい上等な布で仕立てられた上着は重たく、その分温かかった――着たまま走るには、少し邪魔な代物でもあった。


 「かくまってやってくれないか」

 「彼をかい? ……いや……」


 農夫はミカゼを覗きこんで、肩に置こうとしていた手をとっさに引っ込めた。


 「君は女の子だね? 一体何でまたそんな格好を……」

 「頼んだ、おじさん」


 カツミが来た道を引き返そうとしたので、農夫は慌てて引き留めた。


 「君はどこへ行こうっていうんだ」

 「町を見てくる。水兵を集めてたりしたら厄介だからな」

 「カツミ」


 ミカゼの目元は、まだ少し濡れている。すぐ戻るから、と言い置いて、カツミは町へ戻った。


 「何て足の速い子だ」


 農夫は半ば呆れたようにカツミを見送っていたが、やがてふと我に返ってミカゼを促した。


 「さて君は、お嬢さん、わたしの家へおいで。船乗り同士、一度頼まれたことはやり遂げるよ」

 「おじさま、船乗りなの? カツミが船乗りだなんて、誰も言ってないのに……」


 船乗りは、相手が同業かそうでないかがすぐ見抜けるものだ、とミカゼは聞いていた。農夫は照れたように笑って、頭をかいた。


 「昔々ね。――そう、ミゼルカのトランといえば、少しは名が通ってた」


 トランの家には、他に誰も住んでいないようだった。家というよりも、木と石でできた小屋といった方が近いだろう。窓のある壁際には古いベッドが置いてある。


 ドアの周りを避けて小麦粉の袋や薪が積んであり、上からはタマネギがぶら下がっていて、豊かではないが満足な暮らしをしているのだろうとミカゼは思った。ちょうど山の上の彼女の家も、こんなふうだったから――もう何年も、帰っていないような気がした。


 「さあ、どうぞ」


 トランは部屋の中央にしつらえた暖炉(といっても、庭の焚火の周りを石で囲ったような簡単なものだった)で手際よくお湯を沸かし、それでお茶を淹れてくれた。


 ミカゼも知っている味がした。


 「ミツスイトウだわ」


 思わずひとり言のように呟くと、自分の分を淹れていたトランが顔を上げた。直接火にかけるせいで、鉄製のポットは底が真っ黒になっている。


 「そう……よく分かったね。妻がよく淹れてくれたお茶なんだけど、何年もこうして淹れているのに、同じ味にならないんだからまったくまいったよ」

 「わたしなら、ハチミツを少し足してみるけど。でも、まったく同じ味にする必要はないんじゃないかしら――奥さまは、もしかして〈ミセルマの子〉? 」


 トランは頷き、期待を込めた目でミカゼに尋ねた。


 「それじゃあ、君もかい? この近くかな? 」

 「わたしは、メーアから……昔は、デルテに家があったそうなんですけど」

 「メーアか……」


 トランは急に真顔になって、ふいにある女性の名を出した。


 「メーアの、リサさんという女性に、昔とてもお世話になったんだ。彼女の旦那さんにもね。ふたりとも力のある〈ミセルマの子〉で……だけどわたしは、彼らに取り返しのつかないことを――」


 ミカゼは耳を疑った。彼女に涙がぶり返してきた気配を察して、トランは慌てふためいた。


 「どうしたんだい、一体」

 「――わたしの母です」

 「えっ? 」

 「その〈ミセルマの子〉……メーアのリサは、わたしの母です」

 「君……」


 トランはよほど衝撃を受けたらしく、両手で顔を覆ってそのまま天を仰いだ。長く待ちわびた瞬間か、決して来てほしくなかった瞬間をとうとう迎えたかのように。


 「……そうか、君がリサさんの……」


 ややおいて、トランはようやくそう言った。手を恐るおそるといったふうに外し、ミカゼを見る。そして、ああ、確かに目元がそっくりだ、と呟いた。


 「――ミカゼ、と呼んでいたよ。最期に――」

 「母のことを……両親がどんなふうに死んだか、ご存知なの」


 トランは頷き、うなだれた。


 「……忘れようがないよ。リサさんや、君のお父さん――アルクーネがいなければ、今この国はなかったかもしれないんだから」

 「……でも、英雄とは言えないわ」


 トランはこれに、心から驚いた顔をした。


 「どうしてだい? 」

 「バーシュとの二度目の海戦でメーアから参加した〈ミセルマの子ら〉が、バーシュの町をめちゃくちゃにしたんだって、最近は何を見てもそればかり言われてるわ。……戦う力のない人を、大勢巻き込んだって。だから、〈ミセルマの子〉は、異端とされるべきなんだって……」

 「そんな馬鹿な……」


 トランは呆然とし、それから黙って口を閉じた。彼はミカゼが前にいるからか、表面上は波風ひとつ立てずにいたが、ミカゼの目には、トランの体が怒りのために二倍にも膨れ上がったかのように見えた。


 「目的は分からないが――分かりたくもないけどね……」


 抑えようとした声は、細かに震えている。トランは赤を通り越して真っ青になった顔のまま、何度か深呼吸した。カップの中で、お茶が揺れている。


 「なんて恥知らずなことを――いや、君のことじゃない。断じて、君は悪くない。君のご家族もね」


 トランは激情を表に出さずに鎮めてしまうのに慣れているようだった。ミカゼは彼が爆発でもするのではないかと思ったが、トランはミツスイトウのお茶を飲んだあと、あり得ないくらい落ち着いた声で言った。


 「わたしはずいぶん、卑怯なことをしてしまったよ。本国がそんなことになっているのに、まったく知らなかった……何も知ろうとしないで、こんなところへ引きこもって……」


 ミカゼはわけが分からなかった。だが、トランの主張は変わらなかった。


 「いいかい、メーアのミカゼ」


 トランの声は穏やかだった。


 「今日君がわたしの前に現れたことは、偶然とは思えないんだ……君の話を聞いて、なおさらそう思った。わたしはどうしても、君に伝えたいことがある」


 もう逃げるのはやめた、とトランは言った。だから君も、よく聞いてほしい、と。

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