6、彼らの勇気

 デルテでの滞在は、実に平和で豊かに過ぎた。王都の人々は優しく、恐らくトランとニルスが手を回したのだろう、新聞にあれほど載せられていた〈ミセルマの子〉への中傷は見当たらなくなり、国王の声明とともに、海軍と新聞各社による不祥事の顛末と謝罪文とが大きく取り上げられた。トランの記事も載った――新提督就任は、多くの国民から歓迎された。


 「あの奥さん、もうすぐ子どもが生まれるそうだよ」


 マリーとアニーが市場から帰ってきて、お菓子を売っている奥さんを窓から指さした。奥さんはこちらに気がついて、ミカゼたちを見上げて手を振った。


 アニーは白い紙の箱をいそいそと開きながら言った。


 「〈ミセルマの子〉に取り上げてもらいたかったんだけど、あんな騒ぎだったでしょ。こっそり頼みに行こうか悩んでたんですって。だから、今度のことは本当に嬉しかったって。――お夕食の前だけど、みんなこれ食べない? さくらんぼのケーキだって」

 「それじゃあ、お茶にしましょう」


 ミカゼが言うと、カツミが宿屋の女性に人数分のお茶を頼みに行ってくれた。ミカゼの火傷は炎症を起こすこともなく、もうずいぶんましな状態になり、寝ていろとは言われなくなったが、みな彼女が椅子から立ち上がるのにあまりいい顔をしなかった。


 「それにしても、あんたが王家と縁続きだったとはね」


 口調と裏腹の上品な手つきでフォークを使いながら、マリーが言った。


 「デルテじゃ、この一週間その噂で持ち切りだよ。あんたたちの狂言が、ずいぶん大がかりだったから」


 マリーの口ぶりは、どことなくひがみっぽい。マリーはミカゼたちから報告を受けただけでハインリヒ・ルーフを追い詰めるための作戦には入れてもらえず(彼女の演技力ではルーフに感づかれる恐れがある、というのがその理由だった)、アルベルトや衣装係のアニーたちとともに宿の窓から一連の騒動を見ているしかなかったのだ。


 作戦を立てたのは、ニルスだった。ニルスは、〈ミセルマの子〉に対する誹謗中傷の不公平さと、そのせいで逮捕されてきた〈ミセルマの子〉がいつの間にか海軍府から姿を消してしまうことを不審に思い、提督秘書官としての顔を保ったままひそかにルーフの動向を探っていたらしい。


 ルーフとバーシュの提督が秘密裏に取り引きしていることを突き止めてからは、ルーフに先んじて〈ミセルマの子〉を海軍に引き取ることを思いつき、独断で行動していたようだ(メーアでミカゼに声をかけたのもこの頃だった、と本人が語った)。


 だが、国教を改めると言い出したのはメッケンドルフ一世であり、人身売買を国王が黙認しているのか、ルーフと共謀しているものがどのくらいいるのかを、ニルスは何とか確かめなければならなかった――ニルスは〈ミセルマの子〉に対する迫害に辟易してはいたが、迫害の理由――エル・トートスの戦いでリサとアルクーネが犯したとされた罪――を疑ってはいなかったので、トランの話を聞くまでは、誰かが意図的に〈ミセルマの子〉を中傷しているのだということまで気がついてはいなかったからだ。


 トランの話を聞いたニルスは、ミカゼと同じように自分の知識と事実が異なることを知り、一計を案じたのだった。ミゼルカ国内における〈ミセルマの子〉の立場を悪くし、自主的に国を出ていかせるように仕向け、たとえ疑惑の目が向けられたとしても言い逃れができるよう画策していたルーフを追い込むため、国策に則って〈ミセルマの子〉を処刑してみせる――すると、実際に彼らに死なれては困るルーフは、その処刑を止めざるを得ない、という読みだった。


 ルーフは秘書官が自分を疑っていることに気づいていなかったので、自分が処刑を止めに入ることが矛盾した行為に見えるとは思っていなかったに違いなかった。


 バーシュの方では、話はもっと簡単だったようだ。なぜなら、ルーフの取引相手であったバーシュの提督は、あくまで国益のために〈ミセルマの子ら〉を買っていたため、いずれは〈ミセルマの子ら〉を編成した船団でミゼルカを攻めようと考え、バーシュにやってきた〈ミセルマの子ら〉を嬉々としてタルヤム王に紹介したからだ。


 かくして、ミゼルカ・バーシュ両国を巻き込んだ十数年がかりの陰謀は白日の下に晒され、幕が下ろされる形となった。首謀者であったルーフは現在も逃亡中ではあるが、彼の顔を知らないものはいなかったこともあって、もはやかつてのような権力を握ることは不可能だと誰もが考えていた。


 一方で、国王までが参加した狂言による大捕りものはマリーの言うとおり町中の話題になり、捕りものの中心にいたニルスや、かつての英雄で、新たに提督として就任したトランと同じくらい、ミカゼについての噂が飛び交っていた。彼女も海軍の一員に違いないという人もいたし、あの近くにたまたまいた〈ミセルマの子〉だったのではないか、いや、バーシュから何とか逃げ出してきた〈ミセルマの子〉だったのでは、という人もいた。


 ミカゼとミゼルカ王家との関係を考察した、かなり事実に近いものもあった。だが、その発端がミカゼの祖父母にまでさかのぼるのだということまで言い当てた人はいなかったし、ミカゼ本人からそう明かされたもの以外は、憶測の域をうろつくしかなかった。


 王と王妃は、狂言の作戦を練るためニルスとともにこっそり王宮へやってきたミカゼを一目見て彼女が誰の娘であるか分かったようで、驚くカツミやティムを横目に、彼女に向かって涙を流した。そして、自分たちのまつりごとが原因で意図せず〈ミセルマの子ら〉を苦しめていることを詫び、狂言が成功し、国政が浄化された暁には、王家の一員として王宮へ入らないかとミカゼを誘った。その申し出は丁重に辞退されたが、国王は国教を改めるという国策を取り下げることをその場で約束してくれたのだった。


 マリーは赤くつやつや光るさくらんぼをつつきながら、新聞の一面を飾るトランの顔を眺めた。事態が収束したあとで描かれた肖像画が、大きく取り上げられている。本人より眉の辺りの仕上がりが凛々しいようだと、ミカゼは思う――本物のトランは、もっと人がよさそうだから。


 「陥れられた救国の英雄、か。こんな人生もあるんだねえ」

 「トランさんは、レーヌ・エリス島で野菜を育てていたんです」


 ミカゼはお菓子を一口の大きさに切り分けながら幸せな気持ちで言った。新鮮な卵と、小麦と、バターと、ミルクと、チョコレートと、果物でできたケーキ。シロップの甘さが優しかった。


 「大切な方を何人も亡くして……海軍を離れて、静かに暮らしたかったんだわ。だけど……」

 「それは間違っていたと気づいた、か。なるほど……」

 「そういえば」


 とマリーの横から一緒に新聞を見ていたアルベルトが言った。


 「この新しい提督さん、船長と同じ――」


 アルベルトが何に気づいたかは分からずじまいだった。そのとき窓の外の、かなり遠くから大きな音が響いてきた。マリーたちが反応し、沖の方を見やった。夕暮れどきの波間は暗かった。


 「大砲の音のようだったけど」


 マリーが言った。アルベルトが指さした。


 「あそこに船がいます。二、三隻いるかな……近づいてきてる。ミゼルカの旗を掲げて――海軍が、演習かなにかやってるんでしょうか」

 「どうだろうね……」


 マリーが返事をする間に、港に向いた船の砲門が一瞬光ったと思った瞬間、何かが破壊される音とともに、宿のごく近くの、広場の辺りから悲鳴が上がった。被弾した、と誰かが叫んでいる。水兵たちが駆けてきて、人々を避難させはじめた。


 一体なにが起きているのかは、じきに分かった。軍靴を慌ただしく鳴らしながら、ニルスがやってきたのだ。彼は焦っていて、挨拶もそこそこに言った。


 「お邪魔して申しわけないが、すぐにここから避難してください。王都が攻撃されています」

 「でも、あの旗は……」


 アルベルトが指さすと、ニルスは頷いた。


 「たとえば、海賊が他の船や町を攻撃するとき、奪った旗を掲げて相手を油断させるということはよくあります。でも、あの旗はもともとあの船についていたものでね。あれは、もともとミゼルカ海軍が持っていた船です」


 カツミが眉間にしわを寄せた。


 「あのバカ提督か……」

 「ええ。我々も手を尽くして行方を追っていたのですが、相手の方が上手だったようです――彼の協力者が、海軍には思ったより多かった。まさか、船を奪った挙句攻撃してくるとは」


 また大砲が撃たれた。音が先ほどよりも近い。今度は続けざまに二発が飛んできて、そのうちの一発が宿の近くに被弾したらしく、ミカゼたちの足元がぐらぐらと揺れた。


 デルテ港からミゼルカの艦隊が出航していくのが見えた。


 ニルスは続けた。


 「こちらからは、ヴィヴァン提督が指揮する艦隊が迎撃に出ています。港に停泊している船の皆さんにも、ご協力をお願いして回っています」

 「なら、うちも船を出そう」


 マリーが部屋を出ながら言った。砲撃の間隔はどんどん短くなり、たまに近くに弾が落ちるたびに、床が不安定に揺れた。カツミが有無を言わせずミカゼを抱え上げ、みなのあとを追った。


 「でも、ずいぶん無謀じゃありませんかっ? 」


 ミカゼは舌を噛まないように苦労しながらニルスに尋ねた。


 「あれだけの、船では、きっとすぐに、鎮圧されて、しまうのに」

 「ええ、そのとおりです。ルーフが盗み出したのは海軍の所蔵船の中でも小型で、少人数でも器用な航行ができる型のものではあるのですが、あまりに無謀。さすがに、私欲によってあれだけの悪だくみをしていた人が、むざむざ捕まりに戻るようなことをするとは思えない。やけになったというのも、無理があります。何か狙いがあるのでしょう――たとえば、あなたとか」

 「わたし? 」

 「ルーフはもともと、〈ミセルマの子〉の力に目をつけていました。だから、たとえ大きな危険を冒しても、その結果〈ミセルマの子〉をひとりでも手に入れられれば、こちらの追撃をかわし、より安全に遠くへ逃げることができると考えるのは自然です。ただでさえ、ミゼルカの近海の潮は乗りこなすのが難しい。ふたり手に入れば、ひとりをどこかで取引の材料にすることもできる。危険な賭けですが、その価値はあります。中でも、あなたは王家とのゆかりを噂されている。王家に対する人質にとれるかもしれない……とルーフは思うかもしれない。でなければ、もっと他の地域を襲った方が確実ですからね。デルテには、昔から〈ミセルマの子〉はあまり住んでいないと言われていますから」


 ミカゼは自分の体を支えているカツミの腕に力が入るのを感じた。宿を出るとどこからかアクルが飛んできて、ニルスの腕に留まった。脚に手紙が結ばれている。ニルスはそれを外し、すばやく目を通した。


 「退避完了。よろしい、素晴らしい動きです」


 ニルスは次の指示を走り書きし、アクルの脚に結んで放した。


 「あんたたち、船を出すよ」


 マリーがデルテの町なかから集まってきた乗組員たちに言った。しかし、アインマルトが首を振って波止場を指さした。暗がりに紛れて王都を砲撃する敵船の砲弾は、係留されている商船にも降り注いでいた。


 ニルスは頷き、ベルマリー号の乗組員たちを誘導した。


 「今回の損害は、のちほど国で補償させていただきます。他の商会の方々も集まってくれているはずですから、王宮所蔵の船を使ってください。王宮の裏から海に出て、ヴィヴァン提督の援護をお願いします。わたしが先導しましょう」


 トランの指揮する海軍の船団は、明かりを漏らさず、黒い塊となって航行する敵船団を相手に立ちまわっていたが、港に向かってあれほど激しい砲撃をしていたルーフたちの船団は、いざトランたちが攻撃をはじめると、彼らを迎え撃つでもなく、のらりくらりとかわしているように見えた。まるで、時間を稼いでいるようだ。小回りの利く小型の船を相手取り、決定的な打撃を与えられずに焦れているミゼルカ海軍の様子は、暗闇で小蝿を叩こうとしているのに似ていた。


 「あんたは避難しているべきなんだろうけど、それじゃかえって落ち着かないだろうから」


 マリーは王宮の船に乗り込みながらミカゼに向かって言った。


 「カツミのそばを離れないで。あんたの風があれば、王都の被害も食い止められる。カツミ、今はあんたがミカゼの足だ、いいね! アニー、アルベルト、あんたたちもうろちょろするんじゃないよ。頭の上を、鉛が飛んでるんだから」

 「はい、船長」


 アルベルトは小さな胸をいっぱいに張った。なんと言われようと、彼はカツミとともにアニーとミカゼを守るつもりなのだ。どちらにせよ、今の王都に安全な場所などなかった。


 王宮では、市民を一時的に保護する体制を整えていた。アニーはそちらに手を上げた。


 「わたし、そっちにいるわ……ついていっても、足手まといだもの」

 「またあとでね」

 「よし、行くぞ」


 カツミはミカゼを背負い、アルベルトを抱えて、降ってくる瓦礫や火の粉を避けながら走った。波止場に出るとマリーたち王宮からの救援が海に出ていくのが見えた。ルーフたちは港への砲撃を一時中断せざるを得なくなり、最後に飛んできた砲弾はミカゼの風が海へ弾き飛ばした。海を警戒していた水兵たちが歓声を上げた。


 「へん、もうおしまいかよお」

 「ほんとにすごい力だな……」


 波止場の一同はがやがやと暗い波間を見守った。目を細めながら海原を見ていたアルベルトが、カツミをつついた。


 「あそこ、ボートがいます。こっちに来るみたい……」

 「本当だ。さすがだな」


 舳先にカンテラを掲げた小さなボートが、波に揺られながらこちらに近づいてくる。誰が乗っているのか、何人乗っているのか、誰の目にもまだはっきりとはしなかった。


 「一艘か? 」

 「誰か怪我でもしたか」


 水兵たちはこちらからもカンテラを掲げて、ボートの様子をよく見ようとした。


 そのとき銃声が鳴った。



 海上では船同士が接舷し、白兵戦がはじまった。砲撃では埒が明かないとミゼルカ側の一艘が体当たりをかましたのを皮切りに、あちらこちらで剣が抜かれ、火薬の臭いが立ち込めた。


 「へえ、女の船長か」


 抜き身の剣を片手に船を渡ってきた水夫が、ひどく下品な口ぶりでマリーににやりと笑いかけた。もとはミゼルカの海軍で働いていたのだろうが、国防を担っていたという誇りのかけらもその顔には残っていなかった。


 「海に出すにゃあもったいねえべっぴんだな」

 「お世話さま! 」


 マリーは気丈に言い返したが、相手に気取られないようにしながらも少しずつ後ずさった。昔からあまり丈夫でなかった体は海に出て少しは鍛えられたとはいえ、彼女の腕はとうとう、いっぱしに剣を構えられるほどたくましくはならなかった。


 「お嬢さま! 」


 ティムはマリーの危機に気がついて悲鳴を上げたが、彼は唐辛子の粉を敵めがけてぶちまけることで精いっぱいで、彼女を助けに行くことはできなかった。


 水夫はにやにやとマリーとの間を詰めた。ほどなく、彼女のかかとは舷側に突き当たった。


 「なあ、船長なんて、女の仕事にするにゃあちっと危ないぜ。おれのところへ置いてやるよ。じきにうちの船長が〈ミセルマの子〉を捕まえてくるから、そうしたら金も入る。体中宝石で飾ってやらあ」

 「そりゃあ結構だね」


 マリーは足元に転がってきたワインの瓶を拾い上げた。


 「そんなに女が欲しけりゃ、夢の中でいくらでも飾んな! 」

 「おいおい、おれをおねんねさせられると思ってんのか? 」


 水夫はマリーの振り下ろした瓶をやすやすと避け、マリーの腕を取って捻り上げようとした。


 「できるさ」


 水夫の手と逆の方から伸びてきた腕が水夫の手を叩き払い、水夫が構える隙も与えずに投げ技をかけた。


 背中を甲板に打ちつけた水夫が伸びている間に、トラン・ヴィヴァンはマリーを振り向いた。


 「君は、立派な船長だからね。力を貸してくれるやつはいくらでもいる」

 「くそっ、騎士にでもなったつもりかよ」


 水夫は起き上がって苦しそうに呻いたが、トランに立ち向かう気力はなさそうだった。水夫の仲間のごろつきが、こちらへやってくる。トランは肩を回して、かつて誇りある国の剣であったはずの彼らの落ちぶれようにため息をついた。


 「騎士なんかじゃない――まともな父親になれなかったから、今さら埋め合わせしようとしてるただの馬鹿だよ」

 「――剣は? 」


 トランが手に持って乗り込んできたのは剣ではなく、深緑色の海軍旗だった。トランはにっこり笑って、眉をちょっと下げた。


 「折れてしまった――長いこと手入れしていなかったからね、仕方ない」

 「どうして、そんなもので……」


 海軍旗は大振りだが、即席の武器だ。何度も剣と打ち合えるほど頼もしいものであるはずがない。トランは水夫たちの剣先をいなしながらマリーの前に立ち続けたが、彼の武器が使いものにならなくなるのに時間はかからなかった。


 「君の盾にくらいにはなれるさ」

 「旦那さま! いけません! 」


 ティムの声は悲痛だった。彼は唐辛子を使い切り、今はハーブの鉢植えを投げつけていたが、こちらは唐辛子よりも命中率が低く、さらに残弾が少なかった。


 「たいした提督殿だぜ、なあ? 」

 「違えねえ」


 水夫のひとりが剣先をくるくる回してトランを挑発した。トランは構えを解かないまま、やれやれというように肩をすくめた。


 水夫たちはその仕草にげらげらと笑ったが、そのとき思いもよらぬ味方が現れた。今度は、マリーの知らない男だった。


 「この下衆どもが! 」


 ミゼルカ海軍のものとは違う、ワイン色の上着を着た黒髪の男が駆けてきて、鞘ぐるみの剣で水夫たちを蹴散らした。


 「おまえらのような船乗りくずれがトラン・ヴィヴァンを笑いものにするとは片腹痛い。剣を抜く価値もない! さあ行け、この腑抜けども! とっとと歩け! 」


 男は水夫たちを叩きのめし、剣を取り上げると、部下の水兵たちに縛らせて引っ張っていかせた。彼の上着と同じ、ワイン色のスカーフを巻いた水夫たちは、そばを通るときにトランたちに敬礼していった。


 「……マロード? 」


 こちらを振り向いた男に向かって、トランが呟いた。


 「君、どうしてこんなところに? 」


 マロード・ヴァイゲルはトランをじろりと見て、呆れたようにマリーに向かってぼやいた。


 「お嬢、この男はおれのことを苗屋か何かだと思っているようだが……まあ仕方がない、ひと月前も新しく野菜の苗を送ったばかりだからな。だが、おれはもともとマルテルの軍人なんだ。以後よろしく頼むよ」

 「……悪かったよ」


 トランは渋い顔でやり返した。マロードは人の悪いにやり笑いを浮かべて、トランに剣を放ってよこした。


 「まあ、君自身は忙しくて手紙どころじゃなかっただろうが、新提督就任の報は、マルテルにも届いていてな。ネリー・フランジュパニ女史も、一報をくれた。そこで、こうしてお祝い申し上げに参上したわけだが」


 近くの船のマストが真っ二つに折れ、割れた船尾の明かりから火が出た。敵味方関係なく逃げ出す船員たちを眺めながら、マロードが口笛を吹いた。


 「君の就任祝いにしちゃえらく過激だな。知っていたらこちらももう少したくさん連れてきたんだが」

 「すまない、すっかり巻き込んでしまった」

 「なに、気にするな。火種ははっきりしているからね」


 マロードはいつかの自分の言葉を自分でもじり、愉快そうに笑ったが、ふとまじめな顔をした。


 「そういえば、さっき港へ向かうボートを二艘見たぞ。怪我人が出たのか? 」



 「いてっ! 」


 カンテラを掲げていない、真っ暗な二艘目のボートの存在に波止場のみなが気づいた瞬間、明るい方のボートから銃弾が飛び出した。砲弾の何倍も小さな弾は港の石畳に跳弾し、水兵の誰かをかすめたらしかった。


 「へたくそが! 汚ねえ撃ち方しやがって」


 彼の叫びに応えるように、また銃声が鳴った。カツミがアルベルトを掴んで後ろに下がらせた。


 ミカゼは縄から風を解いた。風はどこかを飛んできた銃弾を海へ叩き返したが、明るいボートは構わずに、続けてこちらを狙って撃ってきた。


 「カツミ、下ろして」

 「ばか、そんなことできるか……」


 すぐ足元に弾が飛んできたらしく、カツミが飛びのいた。みなあてずっぽうで逃げるしかなく、ミカゼを背負ったままでいるべきか、下ろしてどこかに避難させるべきか、どちらがましかカツミも決めかねているのだった。


 近くにあった店の外灯が撃ち抜かれ、細かいガラス片が降ってきた。ミカゼはガラスを避けながら言った。


 「ここにいると、あなたの首を絞めてしまいそうなの」

 「……分かった。でも離れるなよ」


 カツミがミカゼを下ろそうとしたとき、アルベルトが悲鳴を上げた。


 「カツミさん! 」


 みなが明るいボートに気を取られている間に、もう一艘のボートが港に接舷して、やたらに銃を撃ってきた。カツミはミカゼを抱えたままアルベルトを庇おうとして右足を撃ち抜かれ、ミカゼを石畳に投げ出してしまった。


 「おい、大丈夫か! 」


 自分だって立つこともできないのに、カツミはミカゼの安否しか頭にないらしかった。アルベルトは波止場に積まれた木箱の間に放り込まれ、ふらふらしながら立ち上がった。


 「大丈夫よ……」


 ミカゼは何とか返事をしたが、何の準備もなく背中を打ちつけたせいですぐには動けなかった。ボートから降りてきた人影に囲まれても、頼みの風縄を落としてしまったと気がついても、もうどうしようもなかった。


 「やあ、〈ミセルマの子〉のお嬢さん」


 ハインリヒ・ルーフが朗らかに挨拶した。水兵たちはひとまず無事だったがみんなどこかしら傷ついていて、一発でも彼を殴ってやれないことがこの世で一番の不幸だと言わんばかりの顔でかつての上官を睨んだ。


 ルーフはもはや海賊に成り下がった部下が拾ってきたミカゼの縄を、わざわざ彼女に放ってよこした。


 「それは返してあげよう。意図して君から取り上げたわけではないし、丸腰のお嬢さんを銃で囲むほど我々は野蛮じゃないからね」


 丸腰だろうがそうでなかろうが、大して違いはなかった。縄に残った結び目は、ひとつだけ――その風を呼ぶ前に、彼女を撃ち殺すことなどわけもない。


 ミカゼは精いっぱい背筋を伸ばした。


 「わたしに何のご用でしょうか」

 「威勢のいいことだ」


 ルーフは大げさに肩をすくめた。


 「君をお迎えに上がったんだよ、ん? 君が我々とともに来てくれたら、もうあんな生ぬるい砲撃はしなくてすむ。なんなら、お仲間の〈ミセルマの子〉を一緒に連れて行ってあげてもいい……生ぬるいとはいえ、長引けば長引くほど死者が出ることは間違いないがね」


 ルーフは金塊を見るような目でミカゼを見た。ミカゼは目を逸らした。今によだれを垂らして舌なめずりでもしそうな、物欲しげなガマガエルみたいな顔つきのルーフと対面していると、何ともいえない怖気が襲ってきて吐きそうになった。


 「〈ミセルマの子ら〉は、もともと森の賢者として称えられたものたちらしいね」


 ルーフはミカゼとの距離を一歩詰めた。


 「君にだって、今何を選ぶべきかはよく分かっていると思うが」

 「ええ。……わたしの気持ちは固まっているわ」

 「それは、もちろんわたしと一緒に来るということだね? 」


 ルーフは部下の手から銃を取り、おもむろにミカゼを撃った。鋭い平手打ちを食ったような熱が頬をかすめ、手の上に髪と血が落ちてきた。


 「我々は本気だ。言い向かうなら、次は本当に撃たせてもらうよ。なにしろ、君たちの力は危険なんでね」

 「てめえ、なんてことしやがる! 」


 ミゼルカの水兵たちの間から怒声が上がった。ルーフはそちらにも銃を向けようとする部下を手で制した。


 「構うな。どうせ手出しできはしない」


 その通りだった。間に入るにしても、武器を取るにしても、ミカゼに加勢するには誰もが遠すぎたのだ。ほんの一、二歩の間であっても、彼女の前に立つことすらできないだろう。


 ルーフはいよいよほくそえんだ。


 「さあ、行こう。なに、おとなしくしていれば悪いようにはせんよ……」


 ミカゼには誇りがあった。ルーフはミカゼが返事をしないのを、銃弾に怯えているのだと思っているようだったが、ミカゼは彼に向かってまっすぐ顔を上げた。


 「お断りします」

 「なんだって? 」


 ルーフはわざとらしく耳に手をやった。水兵たちもにやにやしている。寛大にも、一度は聞き逃すことにしたようだった。


 「すまないが、もう一度言ってもらえないかね? もちろん、はいと言ってくれたんだろうが……残念だが、来てくれないというなら君を――」

 「いやよ! 」


 ルーフに最後まで言わせずに、ミカゼは叫んだ。ルーフは一瞬ぎょっとし、怯んだが、たちまち凶暴な本性をあらわにした。


 ルーフは歯を剥いて唸り、ミカゼに銃を向けた。


 悪魔め、滅べ、と声がし、それまでで一番大きな音が鳴った。ミカゼは胸の真ん中をまっすぐ貫かれたと思った。しかし……


 ミカゼは恐ろしいものには何も襲われなかった。一秒経ち、二秒経ち、十秒経っても自分がどうやら死なないので、ミカゼはいつの間にか閉じてしまっていた目をこわごわ開けてみた。


 ――羽根だ。大きな飴色の、温かい鷹の両翼と、ミカゼのよく知る人の手がミカゼを守っていた。


 「――カツミ」


 呟いた彼女の頬を、優しい手が撫でていった。


 「このっ、化けものめ! 」


 ルーフは肝をつぶし、それによってかえって無茶をした。震える手でふたりを撃とうとし、部下たちもそれに倣ったが、カツミは翼の一振りで弾丸をすべて叩き落し、水夫たちから銃をもぎ取った。


 「すっげえ」


 ミゼルカの水兵たちは口を開けてカツミに見惚れた。カツミはミカゼを抱き上げ、水兵たちに手で挨拶して、血まみれの足で波止場から飛び上がった。


 「ミカゼ、助けてくれ。おれの羽根は、完全じゃないんだ」


 カツミはミゼルカの船に向かって飛びながら言った。ミカゼは最後の結び目を解いた。暑い日の、上向きの風だ……でもカツミには、そんな助けはいらないように思えた。


 「船を向けてください! 」


 海の上は音がよく通る。白兵戦に大方のけりがついたのだろう、砲撃が止み、静かになった船団の中から、カツミに向かってランプで合図してくれる人がたくさんいた。


 「近い船に気をつけて下りなさい! 」


 答えてくれたトランの声が幾重にも反響した。


 そのとき。


 みなの温情を打ち消すように、後ろからやってきた小さな風の塊がカツミの片翼を撃ち抜き、穏やかな海原の風が切り裂かれた。


 ひと瞬きの光もない真っ暗な水底へ落ちてゆきながら、気を失うまでのほんのわずかな間に、ミカゼは安らかな幸福を味わった。カツミはミカゼを離さなかった。暗い海は美しかった。


 幸福に違いなかった。たとえそれが、生きていたいという望みとは真逆の、眠りにいざなう陶然としたあきらめだったとしても。

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