喫茶「黒猫」

松川スズム

喫茶「黒猫」

 つい先日、僕は五年間同棲していた彼女と別れた。

 きっかけは些細なことだったが、次第にエスカレートしていき、これまで積み重なってきたお互いの不満が爆発。

 その結果、大喧嘩が勃発してしまい、僕と彼女はあっさりと別れることになった。

 

 それから会社が終わると、冷えきった誰もいない部屋に帰る日々が始まったのである。

 仕事は順調だったし、生活に不自由はない。

 ただ毎日が味気ないだけで……。


 ある日の休日、街中を特に当てもなくさまよっていると、車道の真ん中に立ちすくんでいる黒猫を見つけた。

 どうやら黒猫は、その場から動けないようだ。


 前方からは大型トラックが迫ってくる。

 気がつけば、僕の身体は勝手に動き出していた。 

 周りに注意をしながら、素早く黒猫を拾い上げ、反対の歩道まで全力で走り抜ける。

 結果、トラックをギリギリで回避し、なんとか事なきを得た。


「ふぅ、なんとか間に合った。大丈夫か?」


 気持ちが高ぶって、思わず黒猫に話しかけてしまう。

 当然、話しかけても返事をするわけが――。


『ありがとな、人間。お礼にいいところに案内してやるよ。俺についてきな』

「……え?」


 黒猫は懐から抜け出すと、軽やかに地面に着地し、軽快に歩き始める。

 そして、こちらを振り向いた。


『いいから、ついてこい。お前は俺の命の恩人だ。悪いようにはしねぇよ』

「あ、ああ……」


 これは現実なのかと疑心暗鬼に陥りながら、僕は黒猫の後を付いていくことにした。






 

 しばらく路地裏を歩くと、目の前に小さな喫茶店を発見した。


『ちょっと待ってろ』


 黒猫は店の扉にある、ペットドアをくぐって中へと入っていく。

 数分後、扉が開き、若いツインテールの女性が店内から現れた。

 女性は和風なメイド服を身にまとい、黒い猫耳を模したカチューシャをつけている。


「おぬしが命の恩人か。このたびはクロを助け出してくれたことに感謝する」


 彼女はスカートの端を持ち上げて、優雅なお辞儀をする。


「えっと……あなたは?」

「わしはこの店の、店長兼シェフ兼ウエイトレスの五十鈴いすずはかなじゃ。ようこそ、喫茶『黒猫』へ」


 朗らかに彼女は微笑む。

 可愛らしい素敵な笑顔だ。 

  

 しかし、こんな若い女性が一人で切り盛りしているのか……。

 なんだか心配になってくるな。 

 この店には看板らしきものもない。

 たぶん、客なんて滅多に来ないだろう。


「さあさあ、遠慮するでない。おぬしはわしの大切な家族を救ってくれた恩人じゃ。じゃから、今日は盛大にもてなしてやろう」


 ……あれ?

 そういえば、なんでそんなことがわかるんだ?

 もしかして、さっきの黒猫が話したのか?


 いや、待て。

 よくよく考えてみれば、猫が喋るなんてありえるはずがない。

 きっとさっきのは幻聴――。


『おい、ご主人。いつまで立ち話をしてるつもりだ?』

「おお、すまんの、クロ。今戻るぞ。ささ、おぬしも入るがよい」

「は、はい、わかりました。お、お邪魔します」


 僕は考えることをいったん放棄して、そのまま流れに任せることにした。






 

 クラシック音楽が流れる店内は、落ち着いた雰囲気の内装になっている。 

 カウンター席が六つにテーブルが四つほどあるだけのこじんまりとした空間だ。 

 だが、壁や床などの至る所に木製品が使われているため、どこか温かみを感じる作りになっている。

 カウンター越しに見える棚には、所狭しとお酒のビンや洒落た置き物などが敷き詰められていた。


「好きな場所に座るがよいぞ」

「はい、失礼します」


 僕は一番奥のテーブルに腰掛けた。

 それから、テーブルの端に立てかけてあったメニュー表を確認する。

 そこには、コーヒーや紅茶など普通の喫茶店で見かけるような飲み物の名前が並んでいた。 

 僕はその中から無難にブレンドを注文する。

 数分後、五十鈴さんがカップに入った温かいコーヒーを持ってきてくれた。

 

 一口飲むと、苦味の中にほのかな甘みが感じられる。

 どうやら豆から挽いているようだ。

 なかなか本格的な店なんだな。


 しばらく待つと、テーブルに美味しそうなオムライスと小皿に盛られたサラダ、いい香りのするスープがテーブルにずらりと並べられた。

 オムライスには、ケチャップで猫の絵が描かれており、とても可愛らしい。


「あの……五十鈴さん。これはいったい?」

「先ほど言ったじゃろ。おぬしをもてなす、と。安心するがいい、金は取らん」


 彼女は再び厨房のほうへと戻っていった。

 僕は早速スプーンを手に取り、オムライスを口に運ぶ。

 見た目だけでなく、味もとてもいい。

 これなら毎日でも食べたいくらいだ。

 そして、僕はあっという間に完食してしまった。


 食事を終えると、五十鈴さんは僕の向かいの椅子に座り、じっとこちらを見つめてくる。

 な、なんだろう?

 何か顔についているのだろうか?

 いや、それより今は五十鈴さんにお礼を言わなければ。


「五十鈴さん、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

「ふふっ、おぬしの口に合ってなによりじゃ。ところで、おぬしの名はなんというのじゃ?」

「す、すみません。そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。僕は奥島おくじまえいといいます」

「詠……か。ふふっ、良い名じゃな」

「あ、ありがとうございます……」


 五十鈴さんは目を細めて優しく微笑む。

 その笑顔はとても美しくて、思わず見惚れてしまうほどだった。


「詠よ、改めて礼を言わせてくれ。クロを助けてくれてありがとう」

「い、いえ、こちらこそ、美味しい料理をご馳走していただいてありがとうございます。ところで、クロはなんで人の言葉を喋ることができるんですか?」

「ふっ、やはりそうきたか。詠にだけ特別に教えてやろう。クロが喋れる理由はな……」

「り、理由は……?」

「……やっぱり秘密じゃ」

「ええっ!?」

「ふふっ、もう少しおぬしと仲を深めたら教えてやろう」

「わ、わかりました。とりあえず、今日はこの辺で失礼します。また、来てもいいですか?」

「ああ、もちろんじゃ。待っておるぞ」

「はい、お邪魔しました」

「うむ、またな。そうそう、ここを訪れるときは街中でクロを見つけるといい。きっとまたこの場所まで導いてくれるはずじゃ」


 僕は五十鈴さんに見送られながら、喫茶「黒猫」をあとにした。

 後日、自力で喫茶店を見つけようとしたが、不思議なことに一日中探し回っても見つけられなかったのである。






 

 喫茶「黒猫」に通い続けて、もう半年になる。

 この半年で、儚さんとクロとの仲はかなり進展した。

 儚さんとは連絡先を交換して、今ではもう毎日連絡を取り合っている仲だ。

 しかし、一つ問題があった。

 儚さんの返信内容が非常に淡白なのだ。

 こちらから長文を送っても、短い返事しかこないし、電話をかけても出てくれないことが多い。


 だけど、店に行くといつもと変わらず笑顔で僕に接してくれる。

 僕はそんな儚さんが気になって仕方がなかった。


『どうしたんだ、詠? ご主人のことをそんなに見つめて』

「なあ、クロ。儚さんっていつも笑顔で明るい人だよな?」

『まあ、そうだな。その認識は間違っていない』

「なら、なんで素っ気ない返事しかくれないんだろう」

『おいおい。もしかして、ご主人に惚れたのか? やめておけ、あいつは魔性の女だぞ』

「二人とも、さっきからいったい何の話をしてるんじゃ?」


 振り返るとそこには、笑顔の儚さんがいた。

 慌てて誤魔化そうとするが、言葉が出てこず不自然に口をパクパクさせてしまう。


『俺、ちょっと散歩してくるわ』


 クロは危険を察知したのか、足早に喫茶店から出ていってしまった。


「詠よ……」

「す、すみません! 僕は儚さんを魔性の女性とは――」

「来週の土曜日は空いておるか?」

「……え? 特に予定はありませんけど……」

「それなら、土曜日の夜にここをまた訪れるといい」

「わ、わかりました……」


 こうして僕は儚さんに、強引に約束を取り付けられてしまったのだった。







 月や星の輝きも見えない曇りの夜。

 僕はクロに導かれて、喫茶「黒猫」を訪れていた。

 しかし、僕の目の前に現れたのは、いつもの喫茶「黒猫」ではなく、お洒落な雰囲気のバーだったのだ。


「儚さんはバーも営んでいたのか……」

『バーを開くのは、ずいぶんと久しぶりだな』


 クロはいつもどおりにペットドアから店内に入る。

 次の瞬間、扉が開き、儚さんが顔を出す。


「よく来た、詠よ」


 店の外装が変わったことにも驚いていたが、それよりも儚さんの服装に驚いた。

 儚さんはいつものメイド服姿ではなく、気品と妖艶さに満ちた紫色のドレスを着ていたのである。


 ドレスの胸元は大きく開いており、儚さんの豊かなバストがこれでもかと強調されていた。

 そのうえ、ドレス自体がぴちっとしており、身体のラインを嫌でも意識してしまう。

 なおかつドレスの丈が短いので、ほどよく肉のついた脚線美に魅了されてしまいそうになる。

 下ろされた長い髪の毛には綺麗な艶があり、思わず見惚れてしまいそうだ。


 元カノと別れてから女性の肌に一切縁がなかったので、思わずよくない感情が湧き起こる。


「どうじゃ、似合っとるじゃろ? ついこの間、新調したばかりなんじゃよ」


 儚さんの言葉に、僕の胸は高鳴ってしまう。

 もしかして、僕のためにドレスを――。


「それじゃあ、店内に戻るとするかのぉ」

「――っ!?」


 儚さんはいきなり腕を組んできた。

 そのせいで、儚さんの豊満な胸が腕に押しつけられる。

 僕はなんとか理性を保ちながら、儚さんと一緒に入店した。






 

「ようこそ、『シャ・ノワール』へ」


 儚さんはいつものように明るい笑顔で迎えてくれた。

 やや暗めの間接照明に照らされた店内には、大人向けで深みのあるジャズ音楽が流れており、落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 僕はソファーのあるテーブル席に案内された。

 そして、儚さんは二人分のグラスと「魔澄ますみ」と書かれた日本酒の瓶を一本持ってきて、僕の隣に座ったのである。


 すると、儚さんは妖艶な笑みを浮かべながら、僕の目をじっと見つめてきた。

 それだけで、心臓の鼓動が速くなってしまい、少し息苦しい。

 しばらく見つめ合ったあと、儚さんはようやく口を開いた。


「すまんが、今夜はワシの晩酌に付き合ってくれ」


 その後、僕と儚さんはお酒を嗜みながら、とりとめのない話を始めたのである。

 儚さんのお酒を飲むペースが早いことに少し心配になったが、意外と強いらしく、頬が少しだけ赤くなる程度だった。


 一方僕は、まったく耐性がないので、すぐに酔ってしまったのである。

 そのため、最初の会話の内容はほとんど覚えていなかった。

 そして気がつくと、僕と儚さんはいつの間にか恋バナをし始めていたのである。


「なあ、詠よ。おぬしには想い人はおらんのか?」

「えっと……今はいないです……」

「ふむ、そうなのか」

「は、儚さんは――」

「実はな、ワシにはいるんじゃよ。密かに想いを寄せる相手が」

「……え?」


 思わず自分の耳を疑った。

 動揺して、お酒を少しこぼしてしまう。


 ……まだだ。

 僕はまだ失恋したわけじゃない。

 とりあえず、話を最後まで聴こう。


「わしの想い人はのぉ。背が高くて、スタイルのよいやつなんじゃ。年齢も二十代前半で、若さに溢れておる。それに顔もそこそこいい」

「そ、そうなんですか……」

「性格は少し頑固なところがあるが、芯がしっかりとあってそれなりに信用できる。優しいやつじゃが、間違っていることをきちんと指摘してくれる、頼れる存在でもあるんじゃよ」

「……」


 最初は少し期待した。

 しかし、それはどう考えても、僕のことではなかったのだ。

 わかっていたはずなのに、心の奥底ではショックを受けている自分がいる。

 

 でも、これではっきりした。

 やはり、僕は今の気持ちを正直に伝えるべきなのだ。

 もう迷いはない。

 僕はお酒の入ったグラスを置いて、真剣な表情で儚さんと正面から向き合う。


 そして、僕は玉砕覚悟で、目の前にいる愛おしい女性に告白をした。







 昨晩、僕はまた人生の負け犬になった。

 幸い、今日は休日なので、思う存分自分の殻に閉じこもることができる。

 もう恋愛なんかこりごりだ。

 たぶん、もう一生縁に恵まれることはないだろう。


 そのとき、突然携帯が鳴る。

 確認してみると、一件のメッセージが届いていた。

 しかも、送り主は元カノだ。


『急に連絡してごめんなさい。やっぱり私はあなたがいないとダメみたいです。よければまた私を彼女にしてくれませんか?』


 携帯の画面には、はっきりとそう映し出されていたのである。

 僕はすぐさま彼女に電話をかけた。 

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