大人気ない
講義が終わってから、僕は帽子を被ったまま、三木先生のもとに駆け寄った。結局僕は、以前に狂いたくないと答えた僕は、どう答えたらいいか分からずに空白で答えた。
なにも言えなかったのだった。持っていたつもりだった言葉は、何一つ出てこなかった。狂いたくなかったはずなのに、今度はちゃんと答えられなかった。
三木先生は「そうか、ここで答えるのは難しいようだな」とだけ言い、それから講義は進んでいった。狂気と演劇の関係性や、心理学の応用方法などだった。僕にはさっぱり分からなくても、周りの学生たちは熱心にノートを取っていた。どうしてか、三木先生がノートを取る学生に目を向けなかったのが印象に残った。
講義直後の三木先生のもとにはすぐに列ができていて、僕もそれにならって並んだ。列の最後だった。順番が回ってくると、三木先生は教卓に半身を隠したまま、僕の全身を確かめた。潜りであることがバレたかも知れなかったけれど、もはやどうでもよかった。
「大人になっても、狂わずにいるにはどうしたらいいですか?」
なんの挨拶もせずに、僕は我慢できずに訊いた。
「それは不可能だ」
答えはすぐに返ってきた。まるで用意されていたみたいに。
「多かれ少なかれ、いずれみんな狂い始める。モノであろうと、そうじゃなかろうと、みんな揃って狂ってしまう」
「おれの戦友だってそうだった。年を重ねるとどんどん社会に飲み込まれて、自分が分からなくなるんだ。一人の人間である前に、なんらかの役割、肩書きを背負っている社会の一部として扱われる。当たり前だと受け入れて、それが正しい姿だと誤解したまま過ごしていく。普通とはそういうことだ」
僕は自分の意見を真っ向から否定されているのに、どうしても興奮を抑え切れなかった。三木先生は僕の知らない世界を知っていて、とてつもなく大きな、溢れるほどのなにかを持っている。
それは僕にとって、自分が否定されることよりもはるかに大事なことだった。どんどん自分の理性が溶けていくのを感じた。どう思われても構わない。自分が持っている好奇心を満たしたいがために、会話を続けるべきだと思った。
「では、狂った先にあるものは、なんなのでしょうか」
すぐに次の質問をした僕に三木先生は驚いて、少しの間があった。それでも、すべての質問に答えるつもりらしかった。僕たちはたぶん戦っていた。互いにカードを切って、寿命を削って、みじめに、狂った争いを仕掛けていた。
「狂った先にあるものか。それは死だ。なにもないと言ってもいい。狂ったその先にあるものは、生き物としての死だ。年をとるごとにおれたちは死んでいく。その中間地点として、狂う。先にあるものを考えても仕方ない。おれにできるのは、誰もが狂っていくことをみんなに認めさせることだけだ」
ふう、と三木先生は息をついた。
「もういいか。知りたいことは聞けただろうと思う。それから、IDを出せ。ここの学生じゃないが、系列の生徒だな。学校には報告しておく。今度来るときは、ちゃんと先生に報告してから来るんだな」
はい、と返事をして、学校から配られている生徒手帳を出した。手元でメモをとってから、IDを僕に返して、三木先生は荷物を整理し始めた。
◇◇◇
遅刻して出席すると、授業が終わったら職員室へ来るように言われた。僕の好奇心は冷め止まぬままで、頭の中で三木先生の答えがこだましていた。狂うこと、死ぬこと。大人になること。どちらもいまの僕にはすぐに関係することではなかったけれど、頭の外へ追い出すことはできなかった。
「反対行きのバスに乗ってどこに行ってたの? 勝手にサボっちゃダメだってあんなに言ったのに」
隣の透子が、僕に向かって鬼の首をとったみたいに責め立ててきた。
「だって、思い立ったが吉日でしょ? それに、三木先生の居場所は、透子が教えてくれたんだから共犯だよ。どうして透子だけ呼び出されないんだろう」
う、と透子がうなった。僕は怒られるのなんて慣れていて、透子は真面目ぶっているから慣れていない。
「大学に行って何してたの? まさか三木先生に会ってきたの?」
そうだよ、講義を聞いて、話をしたんだ。そう僕が言うと、透子は信じられないといった顔をした。
「透子は大人になりたいと思う?」
「ううん。子供のままでいたいよ。できることならね。でも、ずっと子供のままではいられないし、いられたとしても、いつかつまらなくなると思う」
ゆずるは? と透子は続けた。透子の答えは、透子らしく思えた。
「僕は早く大人になりたいと思ってた。子供として扱われるのなんていやだって」
今は思ってないってこと? そう訊かれて、考えている間に、チャイムが鳴った。無断で遅刻したから、少しでも誠実さをアピールするために、はやく職員室に向かわなければならない。透子の話を早々に切り上げて、僕は職員室へと向かった。去り際に透子は「自分できくなら、ちゃんと答えてよ!」と言った。
廊下には教室から生徒が吐き出されていた。夕焼けが差し込んでいて、それが窓の形に切り取られていた。周りの影は黒い。
ついさっき出てきたばかりの教室を振り返った。机の上にも夕焼けが落ちていた。これから陽は落ちて、学校中は暗くなる。
たくさんの声がした。でも騒がしくはなかった。慣れ親しんだ廊下からは、ほこりの匂いがした。毎週掃除をしているのに、学校はいつもほこりまみれなんだと思った。
ここにいる誰もが、いつか大人になるのに、いまはみんな、そんなことは忘れている。モノか人間かを選んで、自分が何者になるのか、いつか考えるはずなのに、いまは考えないようにしている。夕焼けみたいに中途半端な時間を過ごしている。なにも決めないし、なにも決められない。
それで、僕たちは、いったいいつ大人になるのだろうか。
「失礼します」
職員室に入ると、担任の先生が待ち構えていた。
「授業をサボって大学に行くなんて、どういうつもりだ」
「はい。以前お世話になった三木先生の大学での講義をどうしても聴きたくて、大学に行っていました」
僕は努めて真面目であるように見せた。あたかも担任のこころの狭さが、僕を悪者にしているかのように見せようと思った。たぶん、モノにも良心はある。
「その心意気は良いんだが、誰にも連絡しないのは悪気があるとしか思えない。だいたい、成績が良いからって何をしてもいいわけじゃない。サボりはサボりだ」
「はい、すみませんでした」
「だから、今度から行くときは報告してくれ。電話でもなんでもいい。大学へ行くなら、それは許可しよう」
僕は驚いた。先生に言ったところで、許可は出ないと思っていたからだ。そんな優しさは先生にはないと思っていた。
「わかりました」
「だが、今回の分は無断だ。四百字詰め二枚で、大学での講義について、反省文を書いてこい。明日までだ。これは三木先生の頼みだからな、こんど会ったらお礼を言うんだ」
大人だ、と思った。この狂った社会の中で、三木先生だけが大人なのだ。
僕は原稿用紙2枚を渡されて、二つに折り畳んでから教科書の間に挟んだ。
◇◇◇
「ただいま」
「ああ、おかえり弓弦くん。怒られた?」
家に帰ると、智也さんが出迎えてくれた。カレーの匂いがした。持ち出していた鍵を壁にかけて、靴を脱いだ。
「うん、まあね。でも、三木先生が話してくれて、反省文を書けばいいってことになったよ。透子がうるさくてさ、なんか突っかかってくるんだ」
「いいサボり方をしたね。大学へ行ってみてどうだった? 楽しかった?」
僕は智也さんの問いに対して頷いた。智也さんは「それはよかった」と心なさそうに言った。
◇◇◇
「反省文」
3年Dクラス 桜井 弓弦
私は担任の先生に連絡をせずに欠席をし、大学の講義へ参加していました。反省しています。
私はその日、大人になることについて考えていました。中学生になって、三木先生の授業を受けてから、大人とはどういうものなのか、大人になるとはどういうことだったのかについて考え始めました。三木先生は中学での授業をしておらず、聞きたいことがあっても聞けませんでした。
そこで私は、直接講義を聴きに行くことにしました。いま考えると反省すべき点はたくさんありますが、私にとってはよい選択だと思えていました。私はいつものバスと反対向きに乗り、誰にも連絡せずに、大学へと向かいました。三木先生は、そこにいました。夢のように現実感のなかった先生が、いまここにいるこが確かめられました。
講義を聞いたことで、また三木先生と話ができたことで、得られたものはたくさんありました。私にとっては、いつもと変わらずに出席することよりも、いいことのように思えていました。
私が書きたいのは、三木先生の影響を受けたことではありません。私は、私のせいで、自分の判断で欠席をしたことを反省しています。だからどうか、三木先生のせいにするのはやめてください。
私は、これから大人になっていきます。同級生と同じように大人になっていきます。短い夕焼けがすぐに夜になっていくように、長い夜が過ぎて朝が来るように、私の意志とは関係なく、そうなっていきます。
しかし、私は狂いたくありません。私は狂わずに大人になりたいと思っています。ですから、私は今回のような行動に、後悔はありません。
このようなことを引き起こしたことを反省します。今後は、担任の先生に連絡することを約束します。
Case.3 机上に夕焼けが落ちていて 感情を失くした大人を子供から見た場合 人工無知能 @NotAI
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