空白

 逆向きのバス停は、道路の反対側にあった。制服で満たされたいつものバスではなく、横断歩道を渡った反対側。

 僕はそわそわしながら、誰にも見つからないように祈りながら、道路を横断した。いつも乗っているバスが来た。透子がいた。窓に頬杖をつきながら、まじまじと僕を見ていた。帽子を被り直して、歩道を渡り切る。反対側にもバスが着いた。

 通学バスは方向に関係なく、学生証さえあれば乗れるから、料金を気にする必要はない。ブレーキからガスが抜ける音がして、それから乗車口が開いた。並んでいる大学生たちに混じって、スキャナーに学生証をかざす。ピ、と音が鳴った。

 すかさず、運転手が見ているモニターに、顔写真と、学年が大きく表示された。どきりとした。今まで気が付かずに過ごしていたが、通学バスでは、毎日こうして運転手によるチェックが行われていたのだった。反対方向のバスに乗っていると知られたら、降ろされるかもしれない。

 僕は大罪を犯した罪人のように、うなだれて席に座った。それしか方法はなかった。ただ目立たないように、声をかけられないように振る舞うほかなかった。運転手に、もしくは誰かに、一度でも声をかけられたら終わりだと思った。

「ドアが閉まります」

 その声に、心臓を掴まれるような心地がした。乗車口は何事もなかったかのように閉まった。ふと反対側のバスを見た。透子の後ろ姿が見えて、それから振り向いた。今度は僕を認めたらしく、あんぐりと口を開けた。人差し指を向けようとしているのが分かったけれど、それ以上はどうしようもないみたいだった。

 きっと透子は先生に告げ口するだろうけど、もう後戻りはできない。口を開けたまま、不安定に人差し指を振りかざす透子を見て、僕はむしろ誇らしく思った。


 ◇◇◇


 大学は広い。置いてあるパンフレットで写真を見たことはあったけれど、想像していたよりずっと開けている構内だった。真ん中には赤茶色の時計塔が空に向かっていて、囲うように同じ背丈の建物が並んでいた。

 僕はバスから降りて、その広さを感じ取る。悟られないように、続々と降りていった大学生たちに続きながら。バスが構内に止まってくれたおかげで、僕は守衛の目を気にしないで忍び込めた。

 講義室があるらしい建物に入ると、僕は隠れ蓑にしていた大学生たちとは別れて、掲示板を眺めた。講義室の案内が書いてあるかと思ったけれど、そこには「幽霊部員募集中」と書かれた、オカルトサークルのポスターが貼り付けてあるだけだった。

 大学生は大人になっているはずなのに、中学の部活動と同じようなことをしている。不思議に思った。

 僕が入ったのは裏口で、廊下らしかった。単純なつくりになっているから、大広間に出る道はすぐに分かった。大広間について、振り返ってみるとモニターがあった。僕が探している情報がありそうだった。三木恭弥を探す。212号室、309号室、108号室、違う。どこにもない。途端に不安に襲われる。

 僕はなんの根拠もなくこの建物に来たけれど、もしかしたら間違っているかもしれない。そもそも、今日、この時間に三木恭弥の講義があるかも分からない。もう、当たって砕けるしかなかった。

「すみません、三木恭弥先生ってどこの講義室ですか?」

 物静かそうな、メガネをかけた背の高い大学生に、僕は不安が赴くままに聞いた。

「三木先生? さあね、僕は取ってないから知らない」

 ぴしゃりと言われて、訊く相手を変えようかと、束の間だけ考えた。

「大学の歴史について勉強したいと言ったら、三木先生から資料を取ってこいと言われているんです。どこに行けば、今日の講義の一覧は見られますか?」

 口が嘘を吐いた。

「あーそうなんだ。たぶん中学生だよね。教務課に行けばいいよ。ここじゃなくて、向こうの建物だから」

 深々と頭を下げて、お礼を言ってから、僕は言われた通りに向かった。建物に入ると、受付で「教務課はここですか?」と訊いた。まずお名前を、と訊かれて、できるだけ丁寧に答える。

「桜井弓弦です。中学の授業で、三木恭弥先生から資料を取ってこいと言われているんです」

 そうしたら三木先生に連絡を、と受付が言いかけた。

「あの、自分で探してこいって。そういう授業なんです。たぶん三木先生は知らないと思います。いま、三木先生が講義している教室はありますか?」

「ああ、そういうことでしたか。それなら……ありました。C棟の302教室で、『心理学と演劇史』です。頑張ってくださいね」

 また深々と頭を下げ、お礼を言って、それからC棟へ向かった。騙しているような心地もあったけれど、必要な情報が手元に揃った喜びの方が大きかった。何より、三木先生に会える。今日、この時間が講義の日でよかった。明日にしていたら、収穫がないまま帰ることになっていた。


 ◇◇◇


「では、狂ってしまうなら、どう狂いたいのか?」

 講義室へ入ると、異様な空気に包まれていた。僕は気圧されながらも、懐かしい心地を確かめた。例えるなら、全校朝会で校長先生が静かになるまで待っている時間に似ていた。生徒たちが、先生に従わされている。席に座っている全員が、教鞭に立っているただ一人だけに注目している。

 僕はなるべく平気な顔をして、できるだけ端の席に座った。ちらりと三木先生が目をくれた。初めて見たときと変わらない、鋭い目つきだった。

「続けよう。最後に君だ。狂ってしまいたいと思うか?」

 三木先生は容赦無く目をギラつかせ、一番後ろに座っていた学生を問い詰めた。僕たちが受けていた授業とは違って、まったく遠慮がない。よく通る声が部屋中に響いた。声の中に、僕たちは強引に連れていかれる。

「ある一点に向かって狂いたいです」

「ある一点に向かってか。その”ある一点”はなんでもいいのか?」

「はい。それがなんであるかは、分かりません」

 訊かれた学生は、嬉しそうでも、苦しそうでもあった。金髪に染めている髪とピアスが、ひどくちっぽけなものに見えた。

「分からない、か。一点に向かう、というのはつまり——」

 天井を仰ぎ、三木先生は噛み砕くように言葉を探す。

「何者かになりたいと感じる憧れだとしよう。だが何者かになるということは、同時に、他の何者でもなくなるということだ。宇宙飛行士は清掃員にはなれない。音楽家は役人にはなれない。モノは人間にはなれない。束の間だけ他の役割になれるのは、役者だけだ」

 その上で、それでもなお、ある一点へ向かいたいのか? と学生へ訊いた。僕には、なんの話をしているのかよく分からなかった。宇宙飛行士になれたのなら、清掃員にもなれるはずだと思った。

「はい。ほかの選択肢は捨ててもいいと思っています」

 学生は真っ向から答えた。どこかの机が、ぎし、と鳴った。

「そう考えるなら、自分を信じ過ぎている。君は何者にでもなれるが、いつでもなれるわけではない。しかし——いい解釈だ。狂うというのは、つまりそういうことだ。他の多くをかなぐり捨てて、執拗になにかを追いかけることだ。おれにはできなかった」

 手のひらを上にしてかざしながら、間髪を入れずに続ける。

「これが、狂わなかった人間が行き着く先だ。だからこの講義では、人間が持っている能力の限界を心理学で知ることと、演劇史を組み合わせて学んでいく。演劇史は、ただおれの前の仕事の影響で、心理学の方を深めていってほしいと思っている」

 僕はただ圧倒されていた。ほかのどの先生も持っていないオーラと、壇上ですらすらと喋る姿に。

 けれど、なにを話しているかは、てんで分からなかった。このままでは分からないまま講義が進んでいってしまう。悔しいと思った。はやく大人になりたいと感じた。

「一人訊き損ねていた。遅れてきた君は、と思うか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る