Case.3 机上に夕焼けが落ちていて 感情を失くした大人を子供から見た場合

人工無知能

狂ってみたいと思いませんか

 大人は狂っている。


 にも関わらず、当人たちは揃って黙り込んでいて、口に出さない。

 それはそうだ。自分たちが狂っているなど、簡単に認められない。間違っているなど、真っ当ではないなどとは考えられない。


 けれど社会の先生は違った。彼は一度だけ認めた。自分達が狂っていることを、大人たちが狂ってしまっていることを。

 入学してから最初の授業だった。実習の先生が来る前で、まだ誰も先生について知らない、初対面の授業。

「まずはじめに。実は、私たちは狂っています。どうでしょう、あなた方なら、狂ってしまいたいと思いますか?」

 教室中が凍りついた。その場で誰も動けなくなったことが分かった。いつもはおしゃべりなクラスメイトさえ、どう反応したらいいか分からずにいるようだった。

 先生は次々と生徒を見渡していった。端から端まで、舐め回すように見ていた。まさに狂っているように思えた。動き回る目が、ぎょろりとこちらに向いた。

「どうですか? 狂ってみたいと思いませんか」

 凍りついたままの教室で、先生は真っ先に僕に聞いた。すぐに答えられそうにはなかったし、どうして僕なのだろうとも思った。他の誰でもないことに理由があるように思えた。

「え、えっと」

「別に答えなくてもいいですよ。勝手に聞いているだけですから」

 そう言われて、僕はむしろ縛り付けられるような使命感に駆られた。答えなければならないと思った。

「僕は……狂いたくありません。だって、みんな狂っているから」

「そうですか。では、あなたは?」

 先生は僕だけに聞いたのではなかった。すぐに他の生徒へ視線を移して、同じように訊いた。答えそのものにはまるで興味がないようだった。

「私は、狂ってみたいです」

 ある生徒は肯定し、またある生徒は否定した。先生はぶっきらぼうな返事を続け、クラスの半分ほどから聞き取ると、満足したようだった。

「無作為に答えてもらいましたが、社会というのは、実に狂っています。たとえばこの中でも、おれが聞けなかった人や、うまく答えられなかった人がいます。不公平です。でもそれが社会なんです」

「ですから、この授業では、その不公平さについて学びます。歴史は勝者がつくってきたものだし、建造物もまた、地位のある人たちが先導してきました。政治も、福祉もしかりです。教科書には、昨日削られた鉛筆の芯の量は載りません」

 息もつかずに先生は続ける。

「戦に巻き込まれた一般人については書かれていません。そういう狂っているところについて、どう狂っているのか、どこまで狂っているのか、それを学んでほしいと、おれは思っています。では、教科書の2ページ目を開いてください」



 ◇◇◇


「115ページを開いてください」

 半透明の教室で、僕たち生徒が、ぱらぱらと教科書をめくる。僕もそれに従って、言われた通りに開いた。それから、歴史の人物の顔を見つけて、落書きを始める。

「大正デモクラシーでは、民主主義と自由主義が重要です。ここ、テストに出るので、しっかりておいてください」

 先生が言うと、生徒たちは音を立ててノートを取り始めた。教室が昆虫になったみたいで、カリカリと鳴いた。

 この写真はもっと勢いのある絵面にしたほうがいい。集中線をつけて、線を太くして、髪の毛を伸ばす。ほら、これでもっと立派になった。少年誌に出ていてもおかしくないくらいだ。

「桜井くん。絵を描くと社会の勉強になるんですか?」

 すぐに先生に目をつけられた。描くことばかりに集中しすぎていたせいで、目の前に来るまで気が付かなかった。たぶん僕は、側から見たら授業を聞いていないと思われる顔をしていたのだろう。

「はい。人物が覚えやすくなるんです」

 僕は自信を持って答えた。独特な方法を持った、天才生徒のフリをした。どこかで咳払いをする声が聞こえた。先生は「そうですか」と言って、怒ることも呆れることもなく、教壇へと戻っていく。落書きで人物が覚えやすくなるわけなんてない。

「ゆずるさ、この先生つまんなくない?」

 隣の透子が話しかけてきた。短めの髪が揺れて、その柔らかさが分かった。

「うん。前の先生、面白かったのにね」

「私もそう思う。変な人だったけど、授業は面白くて成績もよくなってた」

 本当、そう思う、と続けた。

 社会は狂っています、と断言した三木先生は、すぐに辞めてしまった。あの先生は特別だった。自分も狂っていると言っていたけれど、自覚している大人は狂っていないはずだと信じられた。

 教師としては良くなかったかもしれないが、僕が社会を好きになるのに十分な理由になった。だからこそ、中学教師は続かなかったのかもしれない。

 三木先生よりよっぽど狂っているのは、今の先生みたいな、小さな世界に生きている大人たちだ。周りを見渡すことを諦めて、感情を捨てたモノになって、ただ自分の世界だけを生きている。そこには大きな目的も、大義も、動かしたいなにかもない。社会が狂っているなら、大人たちも同じように狂っている。

「民主主義を持ち込んだのは、以前までは吉野作造だとされていましたが、現代の解釈では異なっています。民主主義を唱えたのはハーフの外交官、今ではダブルと呼ばれるのが一般的ですが……」

 また、カリカリとした鳴き声が響く。僕は漫画風に落書きした人物に満足して、次の絵に移った。

「あの先生さ、いまは大学にいるらしいよ」

 透子がこそこそと話してきて、僕は落書き途中の絵を置き去りにした。ぎり、と鉛筆で教科書を引っ掻いた。削っていないままの太い芯だったから、折れることはなかった。

「大学に? どこの大学なの」

「え、えっと。さあ。そこまでは知らないよ。でも講義してるんだってさ。私たちの中学の系列じゃないかな。そんなにゆずるが興味あるとは思わなかった、びっくりするじゃん」

 透子は右手で髪をさわって、いじらしそうにしている。まさか三木先生が教師を続けていたなんて。

「大学の講義ってさ、誰でも入れるんでしょ」

「誰でもってわけじゃないでしょ。そりゃ、中学よりはオープンだと思うけどさ。まさか潜る気なの?」

「ううん。訊いてみただけ」

「だめだよそんなの。いくら成績優秀だって言っても、バレたら怒られちゃうよ」

 透子はすっかりいい子ちゃんになっている。いつもは人のことなんて気にしてないくせに、こういうときは大人ぶっていてめんどくさい。(

「だから潜らないってば。透子のお兄ちゃんって、ここの大学生なんでしょ? なにか話さなかった?」

「あ。ちょっと前に話したかも。変な先生がいたってお兄ちゃんに言ってたから、この前、名前を見たって話してた」

 僕は返事も忘れて頭の中を整理した。あの先生はここを辞めて、国立中学の系列にある大学で講義をしている。ということは、国立大だ。

「ゆずる。教室に入ったら中学生だってすぐにバレるし、大騒ぎになるよ。今でも問題児なのに」

「分かってるって。知りたかっただけだってば」

「嘘でしょ、ぜんぜん聞いてない。勝手に行っちゃダメだよ。心配してるのに……あっ」

 急に黙り込んだ透子を疑問に思っていると、目の前には先生がいた。

「桜井くん。授業中の私語も、勉強になるのですか?」

 落書きをしていたときと同じように静かに聞いてくる先生には、さっきよりも強い圧力があった。開き直るのには無理がありそうだった。

「いいえ、私語は勉強にはなりません。すみませんでした」

「分かっているならいいですよ、以後、慎むように」

 はい、とその場限りの返事をした。


 ◇◇◇

 

「ただいま」

 玄関の鍵置き場にキーホルダーをかけて、リビングに向かった。がちゃり、と玄関が閉まる音がした。じゃがいもと玉ねぎを煮込む匂いが満たされていた。

「おかえり弓弦」 

 扉を開けてリビングに入ると、珍しくママが夕食をつくっていた。ママは仕事が忙しくて、滅多に家にいない。ああ、うん。と返事をして、鞄を持ったまま二階に向かった。

「夕ご飯肉じゃがだからね、食べるでしょ?」

 まるで毎日夕飯を作っているかのような聞き方に腹が立った。いつもは家事代行の智也さんが作ってるのに。家にいるときだけ母親のフリをしているように見えて仕方がない。自分が息子からどう思われているか、考えないのだろうか。

 でもママもモノだ。きっと考えないし、感じない。何を言ったって怒らない。言い返したって仕方がない。ベージュ色の階段を登る途中で、僕はもう寝てしまうことにした。

「ううん、いらない。授業で疲れたから寝ちゃうと思う」

 そう、と返事が聞こえて、そこに残念そうな意味があるように錯覚した。そんなはずはない。モノは感情がないのだから。

 部屋に入ると、鞄をそのへんに投げてベッドに寝転がった。掃除が行き届いている僕の家には、ほとんどほこりがない。

 ネイビーに星柄の掛け布団、きれいに並んだ小さいくまのぬいぐるみ。いかにも子供部屋といった内装は、いつ帰ってきても自分の部屋だという気がしなかった。それでも僕はまだ自分の部屋を持てない。子供だからだ。

 白い天井を眺めながら、今日の透子の話を思い出す。三木先生はまだ先生のままで、大学にいる。そのことが嬉しかった。てっきりほかの教員に嫌われて、教職を追い出されたのではないかと僕は思っていた。大学に行けば三木先生に会える。透子に釘は刺されたけれど、知ってしまったらもう止められない。

 社会の授業では、先生に指名され続けて、私語も落書きもできなかった。職員室で話になったのか、他の授業もそんな状態だったから、ひどく疲れた。

 そもそも、子供が一日中授業を聴き続けるなんて無理がある。大人たちがそれを強いるのもおかしな話だ。自分達が子供だったころ、まだ人間だったころにはもっと不真面目だったに決まっている。


「ゆず! ママのご飯食べないの? ねえってば」

 無愛想な姉の声と、扉を叩く音がした。職業訓練と教養のどちらも学ぶ学校—デュアルに進学してから、ずっと図々しくなったように思う。前はもっと絵ばっかり描いていて、品があった。

「姉さん、うるさい。眠いから寝るんだ。おやすみ」

 扉越しにわざともごもごと答えた。どんどんとノックが大きくなる。「ちょっと眠いってどういうこと!? ママのご飯たまにしか食べられないんだから、今日くらい食べなよ!」

 うるさい、と、二度も言う気にはならなかった。どっかに行けば良いと思った。人間はモノになると、ずっとずっと図々しくなる。まるで他人の感情が分からなくなってしまったみたいに。姉もママも、きっともう狂っている。


 ◇◇◇


 朝のひんやりとした空気に起こされた。六時半だった。僕は布団もかけずに、着替えもしないで寝ていたらしかった。掃除機をかける音がした。ママはとっくに出かけていなくなっているだろう。

 コンコン、と扉を叩く音がした。規則的で、丁寧な叩き方だった。

「弓弦くん。おはようございます。起きていますか?」

「うん。おはよう智也さん。どうぞ」

 失礼します、と言ってから、掃除機を持ってエプロンをした智也さんが部屋に入ってきた。

「あれ。もう学校の準備したの?」

 入ってくるなり、僕の服装を見て智也さんが訊いた。

「昨日このまま寝ちゃったみたいで、着替えてないだけ」

 ああ、それなら、と納得しかけて、風呂も歯磨きもしないなんてだめじゃないか、と叱られた。はい、と素直に答えた。智也さんはモノだけれど、いやな感じがしない。父のいないこの家で、僕は智也さんに多くを教わっている。

「じゃあシャワーだけ浴びる?」

「そうする。ところでさ、智也さん、国立大学ってどうやって行くの?」

 じゃあ浴室の掃除はあとだね、と独り言を言った智也さんを遮って、僕は質問した。

「国立大学? 何か用があるの?」

「社会科見学で行くんだ」

「嘘だね。社会科見学なら、先生が引率してくれるはず。どうして行きたいの?」

 透子みたいに押し通すことはできないと悟って、咄嗟に言い訳をした。けれど智也さんにはすぐ見抜かれてしまう。僕が素直になってしまうのは、敵わない相手だからだ。

「辞めた先生に会いに行くんだ」

「だめだよ……と言っても弓弦くんは聞かないよね。自分でふらふら探すよりは、僕が教えた方が安全だ。中学に行くバスとは逆向きに乗るといいよ、国立大学前、ってバス停があるから」

 これは独り言だけど、とすぐに付け加えて、智也さんは続ける。

「大学に行くなら、制服じゃすぐ捕まっちゃうかもなあ。僕なら私服で行くかも。資料を取りにいけと言われて、なんて言い訳も必要だね」

 返事もしないで、僕はすぐに私服に着替える。キャップを深く被って、鞄の中身をリュックに入れ替えた。

「弓弦くん、学校はサボったらだめだよ。学校は大事なことを学ぶ場所なんだ、それは勉強だけじゃなくて、生きていくときに必要になる経験を学ぶ場所だ。だからサボっちゃダメなんだよ」

 言葉とは裏腹に止めようとしない智也さんを横目に、僕はありがとうと言って家の階段を降りた。

「ちゃんと引き留めたからね!」

 と言う声がして、掃除機が床を吸い込む音が聞こえた。

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