終章 悪魔と踊る(2)
「ハギエル・アゼルエル・ベルゼブル」
――何してんだ? この後に及んで呪文かけやがったかこの女?
壁の黄ばんだマンションの部屋の前。
目の前には見上家の表札が立ちはだかっている。
郵便受けにはニッセンのカタログが突き刺さっている。排気口から漂ってくるのは肉と野菜とハーブが溶け込んだ香り高いスープの匂い――食欲はなかった。
「篤志どうしたの、キョロキョロして」
凛音が言った。
「お前が突然呪文を唱えるからだろうが。お前今度は俺に何したんだよ」
「さっきの? ああ、あれは気にしないで。ただのおまじないだから」
「本当かぁ?」
「疑り深い」
「当たり前だろ。お前には何度操られたことか。てか何のおまじないなんだよ」
「篤志が緊張しませんようにって。すごくナーバスになっていたから」
「余計なお世話だよ。大体誰のせいでこうなってると思ってるんだ?」
「篤志のせいだよ」
凛音は断言した。
反論のしようもなかった。あれもこれも凛音に本音を伝えてしまったせいだ。
きのうのことだ。妹から電話番号を聞き出し、凛音を喫茶店に呼び出した。そこで気持ちを伝えた。
『好きだ』と伝えたのだ。
「一度セックスしただけで愛が芽生えちゃったの?」
テーブルの上に
なんとかわいげのないことを言う。
体よく断られたのだと思って立ち去ろうとすると凛音は篤志のティーシャツの袖を引き止めた。
「私達はベルゼブブの奴隷になる。未来永劫ね。だからもう私達二人で生きていくしかないんだよね。受け入れるよ、その告白。それに正直私も篤志が好き」
「ああ。ありがと」
そして恋人同士になった。
「私のお母さんに恋人だって紹介してもいいかな?」
凛音は言った。
「ちょ、待てよ。いきなりそういう話になる?」
「ん? 怖気づいたの?」
凛音は紅茶をひとくち口に含んだ。
「怖気づいたとかそういうのじゃなくてだな」
「じゃあ何?」
「会うくらい怖くねえよ、会うくらい!」
凛音の母親に会うことになった。
最寄り駅から凛音が迎えに来てくれて、こうしてドアの前に立ち尽くしている。
そういう経緯だ。
「そのスーツ似合ってると思ってる、ねえねえ」
「うるせえ。さっきからスーツで
「だってスーツだし」
篤志はさっきから見つめっぱなしだったインターホンのボタンに指を向けた。
「ねえ、どうして私なの?」
篤志の手首を凛音がつかんだ。
「やっぱり性欲?」
「好きだから好きなんだよ。それでいいだろ」
「
凛音はくすっと笑った。
「それでいいよ。馬鹿だし」
凛音はインターホンのボタンを押そうとしてその手を止めた。つぶらな瞳が篤志を見上げてきた。
「何だよ」
「私が唯一怖いものがお母さんなの。お母さん以外は怖くないのかも」
「かもしれねえな」
「前にお母さんに催眠術掛けて自由に操れることがわかった時、すごく怖くなったんだ。あれ、私ってなんでもできちゃうんじゃないって。お母さんが私のルールだった。でもそのお母さんが無力化できちゃうとしたらルール無用でなんでもできちゃうようになるんじゃないかと思って。ねえ、この気持ちわかる?」
「すまねえけど共感できねえな」篤志は頭をかいた。「親の決め事なんて、そんな煩わしいもんさっさと捨てたくなるもんなんじゃねえのか」
「うちのお母さんは支配欲が強いの。でも私も支配されているほうが楽だから」
「それじゃあ良くねえよ。自分の人生を生きなくちゃ」
「青臭い台詞言うね」
「悪かったな」
「でも、あんたならそう言うと思った」凛音は目をそらした。「きょうは催眠術なしでお母さんと向き合うと決めた」
「ふうん」篤志は相好を崩した。「カッコいいじゃん」
「でも、もしお母さんが私達のことを認めてくれなかったらどうしよう。別れろって言ってきたどうしよう」
「俺んとこ来たらいいじゃねえか」
「ミオコがいる」
「友達なんだろ?」
「篤志を悪魔の奴隷にして許さないって言われた」
「そんなの、俺も言われたよ」
「あはは」
篤志が凛音の手を握ると、凛音は同じぐらい強く握り返してきた。
凛音は篤志と繋いでいる反対の手でインターホンを押した。
ピンポーン。
ドアの向こうからベルのくぐもった音が鳴り響いた。
玄関に近づいてくる足音が聞こえる。凛音の母親が近づいてくる。
凛音の手はかすかに震えていた。その横顔からは笑顔がなくなり、唇は固く結ばれている。
――ビビリやがって。らしくねえな。
――とすると、さっきの呪文はマジで勇気を出すおまじないか何かだったのかも。
――完――
思春期は悪魔と踊る 馬村 ありん @arinning
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