(51)卒業論文構想報告会
月曜日の文化人類学ゼミは、三年生の卒業論文構想報告会だ。該当者四人の中でも、香守みなもの報告は、ちょっとした波乱をゼミに引き起こした。
「澄舞県消費生活センターのフィールドワーク(仮)」
そう標題を掲げたA三版のツーインワン両面資料を元に、みなもは構想を説明していく。インターンシップで見聞きしたこと。「お役所」というものへの自分の先入観の貧しさに気付く経験。悪質商法の実態とそれに対抗する行政権限の仕組み。それを支える一人一人の公務員の姿。
「行政組織には法令によってミッションとそれを実現する業務の枠組みが与えられています。それを具体的な事務として実現することが、役所と公務員の仕事です。その現場感覚として発せられた「六十点で上出来」という言葉に、私は注目しました。受益者としての住民の立場からは批判されかねない点数は、どのようなお役所の現実を反映しているのか。その謎を解きたいというのがフィールドワークの目的です」
持ち時間の二十分をほぼ使い切って、みなもは報告を終えた。ここから続く十分が質疑応答に充てられる。「人間サンドバッグ」と呼ばれる四年生の中間報告に比べれば、三年生段階での構想報告は教員の手心が加わる「人間パンチングボール」と表現される。もちろん、パンチングボールだって痛い。
真っ先に手を上げたのは、ただ一人の二年生、大森範香だ。いつもの柔らかな表情と異なり、何故か目に厳しい色が宿っていた。
「インターンシップで少し経験したからそこでフィールドワークをするって、安易過ぎませんか? 思いつきで何かを観察して、意味のある民族誌が書けるとは思えません」
いきなり重たい拳がみなものみぞおちを襲う。学術トレーニングである討論は真剣勝負、というのがこのゼミのモットーではあるが、それにしても学生間で相手を正面から「安易」と評するのは希だ。教室内にいくつかの笑い声が起きたが、戸惑いの色をまとってすぐ消えた。
真剣勝負だからこそ、報告者は正面から打ち合わねばならない。
「確かに、たった三日間経験しただけで、私は澄舞県庁のことをほとんど知りません。でも、知らない世界だからこそ県庁は異文化で、調査をする意味はある筈だと思ってます。内部の公務員が当たり前の前提にしていることを、知らないからこそ根っこから考えられる、そこに価値があると」
「その論理は、知らない世界をフィールドワークすれば誰でも良い研究ができる、と聞こえます。でもそうじゃないですよね」
鋭いフックによろめくみなも。
「香守さんの報告は、講義で聴いたことのある人類学の理屈めいたものを、自分のやりたいことにただくっつけただけに思えるんです。それは何も明らかにしたことにならない。論文の意義に関わる根本的な問題です。何かを明らかにできる目処があるのなら、教えてください」
アッパーが顎に決まった。みなもは天を仰ぐ。
「……今は、目処はありません。何かがあるに違いないという直感だけです」
完敗。石川耕一郎准教授が助け舟を出した.
「まあ、フィールドワークはその過程で見えてくるものの方が大事だからね。調査の途中、調査後、論文執筆の過程、最後の一文字を書き終える瞬間まで、問いと答えは変わり得るもの。入口は直感的疑問でも悪くはないと、僕は思います」
石川先生、やさしー。
「それより僕が気になるのは、そもそも県庁の参与観察って、受け入れてもらえるのかな。何か約束みたいなものでもしてるの?」
「いやあ、特には。インターンシップみたいに大学から話を通してもらうようなわけにはいか」
「いかないねえ。インターンシップは県庁の公式事業で大学も連携してる。卒業研究は私的活動。そこは基本自分でやらないと」
石川先生、容赦ねー。
「センターの担当さんとは仲良くなったし、メアド交換したので相談はできると思ってます」
ここで入華教授が口を開いた。みなもに対する助言であると同時に、ゼミ生全員に向けたレクチャーでもある。
「仲良くなったというのは、錯覚だと思ったほうがいいよ。インターンシップでは県庁側はホスト、学生はお客様。社交上の笑顔に過剰に期待しちゃいけない。
「フィールドワークというのはね、調査者側の都合であって、
「役所のエスノグラフィの先例は少し心当たりがあるけど、元公務員が自分の経験を綴っているんだよね。外部の学生が役所でフィールドワークをするのは、実現すれば画期的なことだよ。でもハードルは高いよね。役所でも民間企業でも、普通は人員に余裕はなく本来業務で手一杯だ。学術調査なんて受け入れる余地はないでしょう。ましてや消費生活センターなんて、消費者相談や悪質事業者のデリケートな情報だらけで、部外者を受け入れることは基本的にタブーと考えた方がいい。
「さっきの石川先生の問いかけにはね、そういう問題が背景にあるんだよ」
入華の振りを石川が引き取った。
「です。今回のインターンシップで香守さんが消費者行政のデリケートな一幕を見聞できたのは、家族のトラブルという偶然の上に成立したものだよ。それがどれだけ興味深くても、偶然に二度目はない」
みなもは気持ちがしゅんとなった。せっかく良いアイディアだと思ったのに、やっぱり難しいのかなあ。その沈んだ表情を、範香はじっと見つめていた。
入華はレジュメに目を落とし、しばらく黙って何かを考え、徐に口を開いた。
「とはいえ、アタックする前から諦めることはないさ。幸い三年生にはまだ時間がある。正面から調査できない場合は、できるやり方を考えればいい。偶然に二度はないけれど、もしかすると香守さんは幸運かもしれない。ね、石川先生、気付いた?」
「ええ、いますね」
石川もレジュメを見た。末尾には、最終日に作った啓発ビデオのラストシーン、消費生活センターのみんなと全員で映った画像を載せていた。余白の穴埋めのつもりだった。
「香守さん、この写真の右の方にいる体の大きい人、野田
石川の口から突然野田の名前が出て、みなもは驚いた。
「あ、はい、そうです」
「役職は?」
「消費生活安全室の室長です。兼務で消費生活センター長も」
「管理職だね、しかもセンターの責任者か。ふーん」
石川と入華が曰くありげに顔を見合わせた。
「香守さん」石川がいう。「もしかすると、本当に微かなものだけど、希望があるかも知れないよ。ただ、仮にうまくいったとしても、県庁の参与観察はとても大変だと思う。本気でチャレンジする気は、ある?」
一瞬、指導教官に覚悟を問われて、みなもは固まった。微かな希望──あの組織にフィールドワークに入れる可能性。それは願ってもないことだ。
「はい、あります!」
みなもはきっぱりと言い切った。
大丈夫。私は、やる時はやる女なんだから。
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