(50)心を定める
帰宅時間の目処が立たないから晩御飯は職場で出前を取ると、秀一から返信があった。この半年余りでそういう日の寂しさには慣れた。みなもは帰路にましみやで自分用のお弁当を買って、アパートでそそくさと夕食を済ませた。
公務員は定時退庁、というイメージとはかけ離れた実情を、秀一が就職して初めてみなもは知った。
「部署や時期にもよるみたいだけどね、二十二時に退庁して庁舎を見上げると、まだいくつも窓の灯りがついてたりするよ」
新規採用一年目の秀一は、過重労働にならないようそれなりに配慮されているらしい。それでも定時で帰れるのは週に一~二度で、二十時台がザラだ。時間外勤務手当が割増になる二十二時以降はよほど急ぎの作業がない限り退庁を命じられるが、時には日付が変わることもある。
社会人って、大変なんだな。
みなもの労働経験は家庭教師のみ、サラリーマン的な働き方とは違う。父しゃんも秀くんもサラリーマンだ。会社や役所という集団の中で仕事をする、それはどういう感じなんだろう。
みなもにとって、今回のインターンシップは非常に刺激的だった。漠然と抱いていた「お役所」のイメージとは大きく異なる世界。しかしインターンシップ生が垣間見るものもまた、公務組織のほんの一場面でしかない。
ぼんやりと頭を廻らせながら、パソコンに火を入れる。メーカーロゴが浮かび、まもなくwindowsのログイン画面。パスワードは指が覚えている。
学務に提出するインターンシップ報告書を作らねばならない。ひとまず様式ワードファイルを開いたものの、指はキーボードの上に触れたまま、動かない。みなもの思考は別のことにに向かっていた。来週月曜日の文化人類学ゼミ、卒論構想の発表だ。
何かを生み出そうと脳内で思考を巡らす時の集中力。例えば、サークル同人誌の課題で小説を書かねばならない時、目は開いていながら物を見ていない。音は鼓膜に届いても意識が向かわない。五感とりわけ視覚と聴覚が、脳内で紡がれるイメージに置き換わっている。今、その状態が降臨していた。
これまで文化人類学の講義で聴いてきたこと。見慣れたものを、見慣れぬものにする。異文化に触れ、潜り、細部と全体構造の連環を把捉する。厚い記述。他者理解と自己理解。骨格と血肉。
「県のミッションと具体的な事務を繋ぐものとしては、例えば後で『澄舞県長期計画』の体系図を見てごらん」
夕方に野田室長から聴いたひとことが蘇る。
マウスでブラウザを立ち上げ、google検索から計画PDFを開く。目次からそれらしいページを辿ると、三角形の図が現れた。頂点に澄舞の将来像、続いてそれを実現する五つの政策の柱、政策を具体化する施策群と、実際に県庁組織で行う事務事業。なるほど体系的に編まれている。
「消費生活センターは正義の味方!」
たまたまニュースで見た二階堂の啖呵の意味、その少なくとも一端を、みなもはおばあちゃんの事件を通して感じ取った気がする。計画書のどこに位置づけられているかを探すと、政策の柱「それぞれの地域で安全・安心な生活ができる澄舞づくり」の下に施策「消費者対策の推進」、その下に事務事業「悪質商法事犯対策の推進」がある。
「六十点でも合格というのが、現実なんだよ」
美しく整えられた行政計画の事業体系と、限られたリソースで実務に取り組む公務員たちの現実の姿。骨格だけでは血肉の細部の動力は窺えない、血肉だけでは骨格の総合的な作用は見えない。
文化人類学の基本はフィールドワークだ。研究者は研究対象となる異文化集団に密接に関わり、共に暮らし、五感で観察する。その集団の血肉と骨格の総体を感じ取り、
──よし、これだ。
みなもは心を定めた。ファイルの新規作成。指が滑らかに打鍵を始めた。
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