(49)彼女が師匠と呼ぶ人
「……こんにちは」
ふいにみなもの背後から声が聞こえるのと、正面に座る野田の視線がみなもの頭上に向けられたのが、ほぼ同時だった。
みなもが振り向くと、すぐ背後に男が立っていた。最初に目に飛び込んで来たのはキャメルのジャケット、ネクタイはしていない。腰を捻って仰ぐとようやく顔が見えた。ウェーブのかかった髪、黄色いサングラス。年齢は五十歳前後か。少しその筋の人にも見えた。
「やあ、大森君」と野田。
「あっ、師匠。お久しぶりです」と二階堂。
「来客中だね、またにしようか」大森と呼ばれた男が遠慮する素振りをみせると、慌てて二階堂が立ち上がり、彼と相対した。
「いや、インターンシップの学生さんです。プログラムも終わってセレモニー待ちなので、大丈夫ですよ」
小室も新たな来客に席を譲ろうと立ち上がりかけたが、大森はそれを掌で留めた。
「近くまで来たついでに立ち寄っただけだから。あさみん、月曜の夕方すまいル、観たよ」
「えー、師匠にも観られちゃいましたか、はは」二階堂はぽりぽりと頭を?いて目線を外す。その様子をみなもは、じっ、と観察していた。
二階堂さんが師匠と呼ぶ人は、二階堂さんをあさみんと呼ぶ。クールビューティなお姉さんがなんだか女の子の顔になってる。ダンナ様ではなさそうだし、んー、興味津々。
「で、ちょっと感想を伝えておこうと思ってさ」
「わあ、ありがとうござ」
います、まで言い終わらないうちに大森がかぶせるように言った。
「ポジティブなのとネガティブなの、どっちが先がいい?」
うっ、と二階堂は一瞬言葉に詰まった。
「……えーと、じゃあ、ネガティブなのを先に」
大森は頷いた。
「うん、ではまず澄舞県商工会議所連合会の顧問行政書士として、少し苦言を呈します」
低く張りのある声に、二階堂の表情が固まり、野田の表情からも緩みが消えた。室内の皆の注目が大森に集まった。
「消費生活センターは正義の味方、と言ったね。今回の事件のように悪質商法の行政処分をする場面では、そのとおりだと思う。でもね、多くの一般事業者は、法律を守って商売をしている。センターは、消費者から苦情があれば事業者と対峙する存在だ。一方のセンターを「正義」だと高らかにいうのなら、他方の一般事業者は「悪」ということにならないか?」
「そんな──」
二階堂の声が少し擦れた。大森はすぐに笑顔で言葉を継いだ。
「──と、いちゃもんを付けられる隙があるね、という話だよ」
「連合会で誰かがそう言っていた、わけではない?」
野田の問いに大森は頷いた。
「ええ。あくまで危機管理の視点です」
危機管理。小峠課長と同じようなことをいう、と野田は思ったが、もちろん口には出さない。
「僕は今は県庁の人間じゃない。市民を代理する行政書士として役所と交渉する立場だ。そのミッションに適合するように物事を見るし、行動する」
ミッション=使命。先程出たばかりの言葉だと、みなもは思った。
「ごめんね、あさみんをいじめたいわけじゃないんだ。隙を見せれば、足下を掬われる。センターと利害対立する側が、あの発言をどう受け取るか。可能性を幅広に想定してリスクを避けた方がいい。そう伝えておきたかったんだよ」
二階堂だって、インタビューの時点でそれは分かっていた。だから、本番では慎重に言葉を選んだ。使う筈ではなかった映像を放送された。でも、そんなことは県とすまテレの間の話だ。県を辞めた大森に説明できる筈もない。
二階堂は寂しそうな表情で微笑んだ。
「ありがとうございます。ああ、ダメだな、私。いつまで経っても師匠に叱られる不肖の弟子ですね」
「めげることはない。失敗は、学びの機会だよ。──さて。じゃあ今度はポジティブな方ね。県庁の元先輩としての所感」
大森は優しい目で二階堂を見下ろした。
「不利益処分は行政に特別に与えられた刃だ。法令の課したミッションを遂行するために、適正に用いなければならない。それはとても難しく、とても大切な仕事だ。調べたら、特定商取引法の業務停止命令は澄舞県庁で初事例じゃないか。大役を果たしたね、ご苦労様」
その言葉に、二階堂の沈んだ顔からゆっくりと大きな笑顔が咲いた。師と仰ぐ人に褒められるのは嬉しいことだ。
「ありがとうございます。やりきりましたよ」
二階堂は右腕を掲げて、力こぶの辺りを左手でポンと叩いてみせた。
「この場所では、きちんと刃を振るえるんだね」
「はい」
「良かった」
しばらく言葉が止まった。二人の間で、何か言葉にならない会話が続いているように、みなもは感じた。
「まあ、野田さんの下なら、そこは安心だよね。鍛えられたでしょ」
「ええ、それはもうたっぷりと」
「野田さんは馬力ある人だから」
大森の言葉に、野田は破顔した。
「なに、褒めても何もでないよ? 飴食べる?」
野田は自席の缶に手を伸ばし、飴をふたつ取って大森に差し出した。大森も笑って
「昔もよくこうやって飴もらいましたね。ひとつだけ、いただきます」
と一個をつまんだ。
その時、入口の方で気配がした。小峠課長と河上補佐が来て、近くにいた相談員に入口に貼ってあるポスターについて何かを話している。
大森は野田と二階堂にささやいた。
「さっきの話、僕の私的な感想なんで、上に伝えなくていいですからね」
執務室まで来た小峠は、大森を見て目を見開いた。
「あ、大森さんじゃない。おひさ」
「どうも、ご無沙汰してます。丁度退散するところで」
「なんだ、ゆっくりして行けばいいじゃない」
「いや、次の予定もあるので。じゃあ、あさみん、頑張ってね」
大森は二階堂に小さく手を振った。二階堂も嬉しそうに笑って手を振り返す。
「野田さんも、また勉強会企画してくださいね」
「分かった、また連絡するよ」
去って行く大森の背中を、皆が見つめていた。彼の姿が消えてから、小峠が野田を振り返る。
「大森さん、何用?」
「いや、近くまで来たから立ち寄ったそうです」
「ふうん」小峠は少し何かを思案している風だ。「ま、いっか。じゃ、始めましょう」
インターンシップ終了のセレモニーは五分ほどで終わった。皆の拍手の中を小室とみなもは出口へ歩み、最後に皆に一礼して、澄舞県消費生活センターを退室した。 エレベーターを待っていると、二階堂がやってきた。
「最後だから、玄関まで送るよ」
エレベーターの中でみなもが尋ねる。
「さっきのお客さんは、OBさんですか?」
「そ。大森雄大さん。私の新採の時の指導担当だったんだ」
「ああ、それで師匠」
「そゆこと」
小室も口を開く。
「行政書士は法律系学生の目指す試験のひとつですけど、公務員経験者も取得できるんですよね」
「そうね、大森さんもそのパターンの筈だよ」
行政書士・司法書士・税理士など、公務と密接に関わる民間法律職は、資格試験に合格することが標準のコースだ。しかしそれぞれに関連分野の公務経験を評価して試験を免除する特認制度があり、行政書士なら高卒以上で十七年以上の行政職公務員勤務経験があれば、申請によって資格を得られる。
「法律家さんなんですね。サングラス掛けてたから、恐い人かと」
「ううん、優しい人よ。サングラスは、多分、医療用。最近目を悪くされたって聞いてる」
「あ……そうでしたか」
みなもは自分の迂闊な思い込みを恥じた。
一階ホールであらためて三人は向かい合った。澄舞駅まで歩くという小室は南玄関へ、県庁前でバスに乗るみなもは北玄関へ向かうことになる。
「それじゃあ、二人とも、お疲れ様でした。これからも、頑張ってね。あと、もしその気があれば、澄舞県庁受けてね」
二人は笑って頷いた。
みなもは、北へ。小室は、南へ。二人の姿が消えるまで見送る二階堂。
一期一会。それぞれに異なる場所で生きる三人は、よほどの縁がない限りもう会うこともない筈だった。
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