(48)総括の時間
最後の挨拶セレモニーを予定している十六時半まで、あと少し時間がある。もうじき小峠課長と河上補佐もこちらに来る手筈だ。それまでは、所長席前の開放的なテーブルで「お話の時間」ということにした。
「まさかこの短時間で動画が作れるとは思わなかったよ。私たちの固定観念を離れたアプローチで、びっくりした。最小限の経費で動画が作れるなら、室長、うちもYouTubeを使った自前の動画広報を考えてもいいかもしれませんね」
二階堂の言葉に野田は頷いた。
「そうだね。これまでの直接広報がマンネリ化して効果が頭打ちだとすれば、SNSを使った広報はこれから必要になる。ちょっと来年度に向けて考えてみようか」
技術力のある職員が必要なこと、事務量を考えればスクラップアンドビルドによる広報手段全体の再検討が必要なことは、敢えて口にしなかった。そうした事務のリアリティは、今後自分たちが引き受けることだ。今は課題をやりきったインターンシップ生二人の健闘を称えよう。
「三日間やってみて、どうだった?」
野田は挨拶の頭の整理になるように二人に水を向けた。小室とみなもは顔を見合わせ、みなもが(お先にどうぞ)と掌を向けたのを受けて、小室が口を開いた。
「行政実務の幅広さを実感できたような気がします。特に、実際の悪質業者との対応を間近に見ることができて、刺激を受けました。法律の勉強って、抽象的な条文と具体的な事件の関係を捉えるんですけど、日頃は判例から法律の意味合いを理解して行くんです。でも行政や法律家の実務は、目の前の事件を解決するために法律をどう解釈して適用するか、そこが一番大事なんだなと。新鮮でした」
「おー、三日でそこが分かるなんて、さすが」と二階堂。「私は法律に苦手意識を持ったまま消費室に異動してきたから、どうすれば目の前の違法行為を取り締まれるのか、散々頭を悩ませたんだ。法律の条文と、その解釈と、実務先例に照らして、この事件は白か黒か。担当者としての判断を県庁組織の意思決定にまで漕ぎつけられるか、
不利益処分は相手方が納得しなければ行政不服審査や取消訴訟にまで発展する。そのため処分の意思決定に際しては、そうした第三者判断にも耐えられるくらい処分の必要性・妥当性の根拠を詰めなければならない。
「ほんと頭の体操よ。最近、法律って面白いかも、と思い始めたところ」
「ああ、そういうの、ワクワクしますね。公務員になりたい気持ちが高まった気がします」
「あら、来年澄舞県庁受ける?」
二階堂が食い気味に身を乗り出したので、小室は苦笑いをした。
「今のところは、国と五百島県庁を受けようかと」
「残念。でも、国でも五百島県でも、いろんな分野で澄舞県庁と仕事の繋がりはあるのよ。もしかすると数年後にまた出会ったりするかも。試験、頑張ってね」
続いてみなもの番だ。
「私は正直、県庁の仕事についてあまり知らなくて、ひたすら机に向かっている事務仕事のイメージだったんです。でもこの三日間、事件の被害者に対応したり、悪質業者と電話バトルしたり、放送局で収録したり、広報啓発のためにみんなで賑やかに動画を作ったり。本当にアクティブというか、そんな感じで。仕事って楽しいんだなと思いました」
みなもの言葉を聞いた野田と二階堂は苦笑いをして、顔を見合わせた。
ひとまず二階堂が口を開く。
「ありがとう、魅力を感じて貰えたなら、担当者として嬉しいな。インターンシップとしては予定していなかった事件対応とか、ある意味で大事な部分を見てもらえたと思う。ただ……」
二階堂はちらりと野田の顔を見た。野田が後を続ける。
「我々の日常の仕事の大半がデスクワークなのは、確かだよ。事務仕事は役所の活動を支える基盤といってもいい。ボールペンを買うのも、書類を郵送するのも、放送局との番組制作契約も、事務仕事だからね」
野田は二人を恐縮させたくないので敢えて言わないが、インターンシッププログラム自体もそうだ。学生に仕事を理解してもらって就職の選択肢としてほしい県側と、学生の就職を支援したい大学の間で、仕組みの設計を行う。次に、県庁組織の中で数日間学生を受け入れてくれる所属を調整する。所属はインターンシップの趣旨に合ったプログラムを作成して、具体的な準備をする。本番が終わった後は、報告書を作成して人事課に提出。そんな地味な事務仕事が、この三日間を支えていた。
「感じ取って欲しいのは、そういう地味な仕事やメディア対応のような派手な仕事の全体で、何を実現しようといているかということなんだ。言い換えれば、役所のミッションだね。我々のミッションは……さて、なんでしょう?」
野田がにっこりと笑って二人を見た。小室もみなもも思案顔でしばらく声が出ない。「ほら、初日に話した、あれよあれ」と二階堂が助け船を出し、小室が思い当たって口を開いた。
「消費者基本法第一条、ですね」
多くの行政分野には「基本法」の名を持つ法律があり、その分野の根本的な理念や行政の責務と役割分担などを定めている。消費者行政におけるそれが、消費者基本法だ。みなもも初日のレジュメに書かれていたことに気付き、手元の資料をめくって目を走らせる。
消費者基本法(昭和四三年法律第七八号)
(目的)
第一条 この法律は、消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに交渉力等の格差にかんがみ、消費者の利益の擁護及び増進に関し、消費者の権利の尊重及びその自立の支援その他の基本理念を定め、国、地方公共団体及び事業者の責務等を明らかにするとともに、その施策の基本となる事項を定めることにより、消費者の利益の擁護及び増進に関する総合的な施策の推進を図り、もつて国民の消費生活の安定及び向上を確保することを目的とする。
「──国民の消費生活の安定及び向上を確保する、ですか?」
「うん、そのとおり」
野田は目を見開いて顔を輝かせた。まるでひまわりのようだ。
「更に根源を辿るなら、地方自治法に定められた自治体の役割である「住民の福祉の増進」に辿り着く。いずれにせよ、抽象的でしょう? その抽象的な目的を大小様々な具体的な事務が支えている。地味で面倒で大変で、時には華やかで時には危険で困難な、本当に多様な仕事を通じて、法律が行政に与えたミッションを実現すること、少なくともそう努力することが、公務員の役割なんだ」
「勉強になります。日々の実務が忙しくて、そういう理想を忘れがちになるのが、つらいですね」
横から二階堂が殊勝な顔で頷き、皆が笑った。
「そうだね、理想と現実が一致しないのは世の常。初日に「六十点で上出来」って誤解を招きそうな言い方をしたけど、それもまた公務現場の現実だよ。そういうところも含めて、二人には、自分の進む道を考えるきっかけにしてもらえればいいな」
澄舞県庁生活環境部生活環境総務課消費生活安全室の野田彌室長と二階堂麻美主任は、これから社会に出る二人の学生に心からの笑顔を見せた。香守みなもと小室隆朗は、やはり笑顔で「はいっ」と大きく応えた。
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