第6章 インターンシップの終わりと次のステップ
(44)恋人たちの夜
二日目のインターンシッププログラムを終え、みなもは県庁前のバス停から澄舞大学行きのバスに乗る。すぐ先の県民会館がバス路線の結節点になっているので、この時間帯は次々とバスが来て、大勢の人を乗せていた。
ラインで秀一に帰宅の目安を尋ねると、ノー残業デーの水曜日なので十九時くらいには帰れるという。ならばと最寄りのひとつ先のバス停で下り、スーパーましみやに立ち寄った。
ましみやは松映を本拠とする地元チェーンで、地産地消に力を入れている。地産地消は、カーボンフットプリント(輸送等を含む商品サイクルから発生する二酸化炭素量試算)が相対的に低く地元産業の振興にも貢献するエシカルな取り組みのひとつ。二階堂から聞いたそんな話を思い出しながら、みなもは地元農家のコメントが貼り出されたコーナーで食材を選んだ。
二日ぶりにアパートに戻り、料理を始める。頃合いを見計らってグリルで鮭の切り身を焼き始めた。
「ただいまー」
「おかえり。うん、ナイス自分」
「どしたの?」
「秀くんレーダーが優秀だから、ちょうどお魚が焼き上がるところ」
今夜の二人の食卓は、炊きたてのご飯と焼き鮭、牛蒡サラダ、それにオニオンスープ。小さな正方形の座卓、対面ではなくL字方向に並んで座る。食器の配置は難しいけれど、少しでもくっついていたいから。
「いただきます」
二人は合掌して口を揃えた。おばあちゃん由来の香守家の自然な習慣に、自然と秀一も馴染んでいる。
食事をしながら、みなもはこの二日間のあれこれを話し続けた。秀一は適度にコメントを挟みながら、まるで小学校であったことを一所懸命話す娘に相対するお父さんのような、慈愛の面持ちで耳を傾けた。
今日、二階堂とナチュラリズムの交渉で茂乃への返金の方向性が決まった後、みなもはすぐに朗に電話をした。朗は仕事を休んで茂乃とともに警察の事情聴取に臨んでいた。みなもの知らせを朗から聞かされた茂乃の歓喜の声が、スマホを通じて聞こえていた。
「インターンシップ先が消費生活センターじゃなかったら、こんな風におばあちゃんを助けることはできなかった。なんて運がいいんだろう」
「日頃の行いがいいんじゃない?」
「それ。おばあちゃんがいう信心のおかげって奴ね」
茂乃は熱心な仏教徒で、朝夕に仏壇にお経を上げ、檀家寺の月二回のお参りを欠かさない。みなもは法事くらいしかお寺に行くことはないけれど、早くに夫をなくしたおばあちゃんの大切な心の拠り所なのだろうと感じていた。
食事を終え、秀一が洗い物、みなもはお風呂の用意を分担する。手を動かしながら話は続き、二階堂から聴いたインタビュートラブルの話に及んだ。
「ああ、それ、うちにも話が来たよ。使うなと言った映像を放送したって」
昨日、生活環境総務課の河上補佐が広報課を訪れ、生活環境部として今回の事案は看過できず、広報課を通じてすまテレに抗議して欲しいと申し入れていた。広報課の仕事柄、各局の朝・昼・夜の報道番組は三台のレコーダーに分けて毎日録画している。課長の求めで秀一がリモコンを操作し問題のシーンを再生した。「見た感じはむしろ勢いがあるし、全体にいい構成だけどねえ」と広報課長は言ったが、約束違反を見過ごせないという生活環境部の意向にも筋はある。広報課マターとしてすまいぬの件もあり、合わせて抗議するに至った。
もちろん、職務で知り得たデリケートな情報を庁外で軽々しく話すわけには行かない。気を遣いながら、秀一は話を最小限に継いだ。
「柳楽アナは、一昨日の朝のテレビでも、すまいぬにちょっと強引なインタビューしてたでしょう。問題が続く時には続くね」
「問題なのかなあ。家で放送見てたけど、二階堂さん、カッコよかったよ?」
「あ、それは俺もそう思った」
「そういえば、明日すまテレに行くんだ。ラジオ収録の見学」
「へえ、俺もすまテレですまいぬの収録があるよ。何時頃?」
「午前中、時間はわかんない」
「もしかすると会えるかもね」
ジャスミンティーを入れて、二人はあらためて座卓につく。白磁のカップを口元に近づけると爽やかな香りが鼻をくすぐり、ひと口含めば口中に温かなものが膨らんで、喉から胸、お腹へとゆっくり落ちていく。
「あー、沁みるなあ」みなもは緩んだ笑顔を秀一に向けた。「昨日今日、ずっと緊張してたんだなあって、今更気付くよ」
「大変だったでしょう。お疲れさま、あと一日だね」
「あと一日頑張るために、秀くん分を補給しなきゃ」
カップを置き、すすす、と秀一にくっついて両腕で抱き締めた。そのまま鼻先を秀一の首の横に押し当てる。すうっ、はふう。微かにツンとしたものが混じる香り。
「んー、一日働いた後の秀くんの匂い。これはこれでよしっ」
「えー、変態ちゃんですかあ」
「へへへ、吸わせろー」
くんくんくんくん、と犬のように首筋の匂いを嗅ぐ。たまらん。そういや昨日、母しゃんも父しゃんの匂いを嗅いで悦んでたな。遺伝かな。
「俺も働いて疲れたー。みなちゃん分を補給しなきゃ」
そう言いながら、秀一はみなもを抱き返し首筋に顔を埋めた。
みなもを「みなちゃん」と呼ぶのは秀一だけだ。
家族は「にゃも」と呼ぶ。
知人は「香守さん」と呼ぶ」
近しい友人は「かがみん」と呼ぶ。
親友・
呼称は人間関係の表れ。恋人からの「みなちゃん」との呼びかけは、耳に甘く響く。恋人の夜の匂いは、昼の張り詰めた心を緩ませる。
そのままみなもは身を横たえ、秀一が上から覆いかぶさる体勢になった。
「一昨日の朝から我慢してたっけね」とみなも。
「お預けは、もうおしまい」と秀一。
みなもの首筋にキスを、二回、三回。顎から頬へと移って、唇が触れ合い、舌を絡める。粘膜を弄りあうと、甘美な痺れが脳と全身にゆっくりと沁みていく。秀一の掌が服の上からみなもの胸を包んだ。恋人の手に体を触れられることの心地よさ──。
おぱーい、といいながら母しゃんの胸に手を伸ばして邪険に撃退される父しゃんの姿が脳裏をよぎった。
「……ぷっ」
突然みなもが吹き出したので、秀一は怪訝な顔をした。
「なに?」
「いやあ、なんでもなあい。こっから先は、お風呂の後でね」
若い二人の夜は、始まったばかりだ。
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