(43)戦略的撤退
上埜と八巻の通話は「澄舞県消費生活安全室にアポ取りました、担当者の二階堂主任が対応可能です」という端的な内容だった。
午前中に八巻から香守茂乃の件で澄舞県消費生活センターが動いていると聞き、上埜は思案した。充が社員になる気があるのなら、祖母をハメるわけにはいかない。充の様子と、センターの反応、そのふたつから対応を判断したい。そう考えて、充が来ている間にセンターに連絡が取れるよう、八巻に調整を命じていた。
上埜は充に向かって微笑んだ。
「この後、ちょっと仕事の電話を掛けなきゃいけない。少し待っていてもらっても、時間は大丈夫かな?」
充は壁に掛けられた時計を見た。一時四十五分。
「大学があるから二時半にはここを出たいんですけど」
「うん、わかった」
上埜は応接から事務机に移動した。
「電話借りるよー」
上埜の声がけに龍神が「あ、白いコードレスが転送掛けてます」と応えた。幾重にも電話転送サービスを噛ませて発信番号を偽装するのは、この業界の基本だ。アンゴルモアは深網社グループでも違法性を帯びない部門だが、顧客の身辺調査の便などから一応そうした回線を確保していた。
「今から電話をかける先はね、香守君。偶然なんだけど、君の故郷の澄舞県の県庁だよ」
充の祖母の案件であることは、ひとまず伏せておく。後日家族経由で知る可能性は想定している。もしかすると、これから掛ける電話で相手方から祖母の名が出てくるかもしれない。仮にそうなってもなお、彼の心を乱さない対応を、示しておく必要がある。
「私たちの仕事は、消費生活センターとの交渉が欠かせない。いずれ君にもそういう機会が訪れるだろう。様子を聴いておくといい」
机上の電話が鳴り、二階堂は受話器を取り上げるのと同時にスピーカースイッチを押した。音声は周囲に聞こえるが、こちらからの声は受話器を通じてのみ送るモードだ。これで傍らにいるみなもと小室、周囲の室員にも会話の内容が伝わる。
「はい、澄舞県消費生活安全室、二階堂です」
会話時より少し低いトーン、他所行きの声。
「二階堂さんですね。私はナチュラリズム健康革命協会のシモガキと申します」今咄嗟に作った偽名だ。
「シモガキさん。社長さんですか?」
「いえ、主に渉外系の顧問を務めております。弊社のオカダから、二階堂さんとトラブルになっていると聴きました。何か法律上の問題だそうですがよく理解できないというので、私が代わりに承ります。特商法の関係ですか?」
特定商取引に関する法律の消費者行政現場での略称「特商法」を、シモガキと名乗るこの男はさらっと口にした。少しは話が通じそうだと、二階堂は思った。
そこから三分あまり、主に二階堂から、これまでのやりとりの要点を説明するフェーズが続いた。
上埜の電話機もスピーカーモードにされていて、会話は充にも聞こえていた。姿の見えない相手の声に意識を集中する。高校では政治・経済ではなく倫理を選択していたから、法律や行政についてはあまり知識がない。それでも、深網社傘下の会社が独り暮らしの高齢者に大量の健康食品を売りつけたことが「とくしょうほう」の「かりょうはんばい」に当たる違法行為として問題視されていることは理解できた。
「なるほど。おっしゃる事は大体分かりました」流れを受けて上埜が口を開いた。「うちのオカダから聞いた話といくつか食い違っているので反論もしたいんですが、まずそちらの用件のポイントを聞かせてください。澄舞県庁は、うちに何を求めているんですか?」
「違法な行為は止めてください」
「ふむ、返品を認めよ、ではなく?」
「具体的な返品・返金は消費生活センターの相談員が別途交渉しています。私は本庁の特商法担当として、事業を適法に行っていただくようお願いをしています。ただ、過量販売には取消権が認められており、これを妨げることは違法ですので」
消費者行政における相談員と行政職員の職務は、明確に区切られている。個別の消費者被害の回復支援は相談員の役割で、行政職員は法令違反の是正指導を担当する。
そもそも消費生活センターに配置される相談員は、国家資格「消費生活相談員」またはそれに準ずる資格を持つスペシャリストだ。比較すれば、まったく関係の無い部署から異動してきて三年後にはまた外へ出て行く行政職員は、素人みたいなものといえる。もちろん公務員試験と入庁後のキャリアを基盤として、どのような所属に異動しても短期間で職務関係知識を深く身につけて行くが、それも自分の担当職務に限られる話だ。
「わかりました。うーん、そうだなあ……取り敢えず、反論しますね?」
上埜はにっこり笑ってそういった。もちろん電話で話をしている二階堂にはその表情は分からない。目の前で上埜を見ていた充は、なんだか楽しそうだな、と思った。
「特商法の過量販売規制は承知をしています。訪問販売と電話勧誘販売が対象で、当社の通信販売は対象ではない筈ですが?」
「そこは先ほども申し上げたように、最初の注文は通信販売でも、途中から電話勧誘による販売に切り替わっています」
「それ、いつからかご存じです?」
さらっと上埜が発した言葉に、二階堂は言い淀んだ。茂乃からの聞き取りが困難で、販売形態の切り替え時期までは特定できていないからだ。
二秒の沈黙からそうと察した上埜が、言葉を継ぐ。
「確かにこのお客さんには、最初は毎回ハガキで注文票をいただいていたのを、新製品のお薦めを機会に電話で承るようにしました。でもそれ、二ヶ月前ですよ? それ以前とは別の商品を、御家族を含めて五人分を一ヶ月分ずつ、まだ二ヶ月。これのどこが過量なんですか」
「……御家族?」
「ええ、息子さん夫婦と、お孫さんが二人。同居ではないけれど近くに住んでいるとお聞きしています」
二階堂は受話器を耳に当てたまま、みなもを見上げた。弟の充は東京にいるから、家族構成は正しい。みなもは小さく「合ってます」とささやいてそれを伝えた。
シモガキと名乗る男は、丁寧な口調のまま流暢に主張を並べた。過量販売規制をはじめ特商法の規制については社員教育を行っていること。通信販売の段階から、家族みんなで健康になりたいと多めの注文を受け、特段疑問に思わなかったこと。期的に「食べ残しはありませんか」と確認するなど丁寧に聴き取りをして、商品の販売量などが適正かどうかを判断していたこと。
もちろんこれは、上埜の嘘だ。八巻から聴き取った状況をもとに、適法な状況をでっち上げる。多くの商品を販売したとしても、正当な理由があれは、違法性は問われない。認知症が進んでいるとの報告から、行政も詳細な証言は得ていない筈だと踏んでのことだ。
「当社はこのように認識しています。違法性があるなら改めますが、正確な要件事実を指摘していただけませんか」
要件事実──午前中に聞いたばかりの言葉だ。法律に詳しく一筋縄でいかない相手なのだと、二階堂は知った。
同じ事をみなもも感じていた。相手はこちらの家族のことを知っている。悪質業者なのだとしたら、それは怖いことだ。そうではなく善良な事業者なのだとしたら、おばあちゃんの認知症は日常生活に支障のあるレベルで、相手に迷惑をかけたことになる。どちらにしても、雰囲気は相手方に有利な気がした。
みなもは無意識に体を緊張させ、手にしていた資料封筒を胸の前でかき抱いた。その身じろぎを見て、二階堂は彼女の表情に目をやり、動揺を察した。受話器を左手で耳に当てたまま、机上にあった古封筒の裏に黒のボールペンで「大丈夫?」と記す。それでみなもは自分の緊張に気づき、慌てて頷いて無理に笑顔を作った。
一方、シモガキと名乗る上埜の傍らでは、充がやりとりに聴き入っていた。この人は凄い、役所の人の論難に一歩も引かず、むしろ言い負かしそうな勢いだ。基礎となる法律知識、論理の適用と展開。間違いなく、頭がいい。そして意思の力。自分にはないもの、自分が憧れ求めるものを、この人は持っている──。
直線距離で六百キロメールの澄舞と東京。行政機関・消費生活センターと犯罪組織・深網社。距離も性質も隔たる両者の傍らで、姉弟がそれぞれの想いを抱いていた。
「要件事実を明確に示せないのであれば、今日のこのお電話は行政指導の段階ですね?」
「──そういうことです」
「つまり行政手続法に基づいた任意の協力を求めておられると、こう理解してよろしいですか?」
「そうなります」
法律に詳しいなら話が早いと最初に思ったが、これは早すぎる。未調査で確実な違法性を指摘できない今の段階では、強制力のない行政指導しかできないと、シモガキは分かっている。今日はこれ以上追及できない、来週後藤さんに行政調査を掛けてもらって──。
「では、協力しましょう」
「えっ」
二階堂はシモガキの言葉の意味を捉えかねた。
「法律に触れるかどうかは別として、このお宅では当社の商品が食べ切れず大量に余っているという事実を、今こうしてお聞きしました。発送準備中のものは差し止めて、今後も契約はしません。未開封のものの返品返金は、消費期限の問題もあるので全てというわけには行きませんが、可能な範囲で対応するようオカダに指示しておきます。具体的な話は、オカダとそちらの相談員の、ええと、久米さんとで詰めていただくということで、よいですか?」
「あ、ええ、はい、ただ──」
「二階堂さんのお役目は、我々に適法な商売をさせることでしたね。他のお客さんも含めて状況をあらためて確認させて、改善を要するものは改善を図ります。社員もあらためて教育しておきます。他に何かありますか?」
急転直下の展開に二階堂は肩透かしを食らった気分だが、悪い方向ではない。
「いえ、分かっていただけたのであれば、いいんです」
それから二言三言言葉を交わし、受話器を置く。それからみなもを見上げた。
「状況、分かった?」
「解決したんですか?」
「そうみたいね」
みなもの体から緊張がほどけた。はああ、と大きく息を吐いて上半身を前に傾ける。
「……よかったあああっ」
先程までの不安な気持ちが嘘のようで思わず大きな声を出してしまい、みなもは口に手を当てた。二階堂は笑ってポンとみなもの腕を叩いた。その掌の暖かさが、みなもには心地良かった。
「でも、返金額の交渉はこれからだから。久米さん、お願いね」
二階堂は低書架の向こうから上半身を乗り出して聴いていた久米に言った。
「はい。こんなにうまく行くなんて信じられない。二階堂さん、ありがとう」
「私は、あー、ほとんど何もしてないというか」
「そうだね、手玉に取られたね」野田室長がいつの間にか傍らに立っていた。
「ですね、向こうは関係法令をよく理解している。実はまっとうな業者だったのか、それともよほど巧妙な悪質業者か。……行政調査は中止ですか?」
「そうだなあ。今のやりとりを踏まえると、違法な過量販売を繰り返している悪質業者という心証はないねえ」
香守茂乃の案件は和解の道筋が見え、コンプライアンスの徹底も約束された。こうなると、他の被害相談が出てこない限り、特商法調査案件としての優先順位は低くなる。
「まあ、結論は来週後藤さんが出てきてからにしようか」
「わかりました」
二階堂は壁の時計に眼をやる。
「時間が押してきたね。さっきの続きに戻ろうか」
二階堂の言葉に、みなもと小室は頷いた。
「どうして、返金を約束したんですか? 交渉は哲さんの方が有利に聞こえました」
充の言葉に、上埜は通話を終えた受話器を軽く振って見せた。
「有利な状況を作った上で、戦略的撤退をしたのさ。これで向こうは調査する理由がなくなる。ナチュラリズムは規制に触れる商売はしてるけれど、詐欺じゃないからね。行政との駆け引きは、まっとうな企業の顔をしたまま、引くべきタイミングで引く。それが商売を長く続けるコツだよ」
受話器を机上に置き、上埜は立ち上がると充の正面に立った。充は自分より少し背の低いこの男に真っ直ぐに見つめられ、眩しいように眼を細めた。
「香守君はバイクか車の運転をしたことは?」
上埜の問いに充は首を横に振る。
「バイクの方がわかりやすいんだけどね、ほら、車と違って二輪だから不安定でしょう。カーブを曲がる時にね、ブレーキを掛けながら曲がると挙動がふらついてしまうんだ。その前にしっかりとブレーキを掛けて減速し、曲がりながらスロットルを開けてエンジンのパワーを路面に伝えることで、重力と遠心力が釣り合い、ライダーの意図するとおりに機体の挙動をコントロールすることができる」
突然話題が変わったような気がして、充は少し戸惑った。しかし、続く上埜の言葉で意図が分かった。
「人間関係も同じなんだよ。状況をコントロールすることで、どこにでも行ける。でも、法律や社会常識が人を縛り付け、ブレーキをかけたオートバイがカーブでふらついてしまうように、弱者は人生に迷い苦しむことになる。犯罪は、法律の束縛を離れた自由なアクセルとブレーキだ。他人と状況を支配し、自分の人生を望む方向へ進む。それが俺たち深網社のスタイルだよ」
悪の哲学。これまで考えたこともなかった視点に、充の胸が高鳴った。口元が緩み、我知らず喜びのような表情が浮かんでいた。
上埜はその様子を見て、
「香守君。世の中で他人に支配されずに生きる術を、君に与えよう。深網社に入ってくれるね?」
充はおずおずと頷いた。
「よし、決まりだ」
上埜が差し伸べた右手を、充は握った。昨日と違って、今日の上埜の掌は冷たかった。しかしその冷たさが、充には心地良かった。
「今日はもう時間がないね、これからのことはまた夜に電話するよ」
「はい。……それでは、失礼します」
充はぺこりと頭を下げて出口に向かう。その背に上埜が声をかけた。
「あ、ひとつだけ」
充は足を止め、振り向いた。
「大学は、可能な限り続けたまえ。つらくなったら辞めていい。それまでは、教育資源を享受できる大学生の身分を手放さない方がいい。そこで学ぶ様々な知識は、必ず俺たちの仕事の役に立つ。いいね?」
充は一瞬とまどいの表情を見せたが、素直に「はい」と頷いて、ドアノブに手をかけた。
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