(41)犯罪へのリクルート
池袋は落ち着かない街だ、と充は思う。正直あまり好きではない。
上京した当初こそ、茗荷谷のアパートから一番近い大都会として池袋はもの珍しかったが、二ヶ月もすれば飽きた。生活に必要なものは身近で済むし、何より池袋は人が多すぎる。人が多ければ、充が苦手とするタイプの人間とすれ違う機会も増える。直接関わりがなくとも、腕や顔に大きなタトゥーを施した大股大声の男たちを見かけるだけで、充は呼吸が浅くなるのだ。
池袋は華やかな表通りから幾筋も路地が左右に伸びている。用事があるわけでもないのに足を向けようとは思わなかったけれど、立ち止まって路地の奥を覗き込むことは、しばしばあった。風俗店、アダルトグッズ、雀荘、バー。路上にも頭上にも扇情的な色の看板が並ぶ猥雑な風景は、何かしら充の眼を誘うのだ。しかし、興味よりも恐れの方が遥かに勝り、先日までこうした路地に足を踏み入れたことはなかった。
先日──そう、意を決してアンゴルモアを訪れた日。今日は二度目になる。
雑居ビルの入り口から廊下を奥へと進み、扉の前に立つ。紫色を基調とした頭上の看板には「Angolmois」の装飾的なアルファベット、その下に小さくアンゴルモアと仮名書きされている。そして「休憩中 開店十六時から」の札。時間のみ手書きであるところを見ると、開店時間はアバウトなのだろう。
これは入ってもいいのだろうか、それとも邪魔してはいけないのか。哲さんはここを指定した。なら入っていいのか。もし哲さんの話が通ってなかったら。グルグルと思考が拡散しまとまらずに、一分、二分、三分。書いてない情報を補うことができずフリーズするのも一部のASDに見られる特性だ。
こうしていても仕方がない。混乱したまま、ドアノブを捻る。
鍵はかかっておらず、僅かに開いた扉の隙間からハーブの煙が鼻をくすぐった。
そのまま扉を引いて中を覗き込むと、室内で立ったままパンを頬張る長髪の男と目があった。頭には濃紺のバンダナ、淡い青のスウェット上下。先日のコスチュームとは違う地味な出立で一瞬分からなかったが、よく見れば龍神ズメウだ。
「あ、こんにちは」
充は目線を据えたまま軽く頭を下げる。龍神は片手を上げて充をとどめ、少しの間モゴモゴとパンを咀嚼し飲み込んでから、口を開いた。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ中へ」
充は足を進め、後ろ手に扉を閉じた。
「哲さんはもう来てるよ。今日は悩み事相談じゃないから、奥の事務室でね」
言いながら、龍神はパンを持った左手の甲でカーテンを開き、右手で奥の扉をノックする。そうか、まずノックをするんだった、と充は先ほどの自分の行動の非礼に思い至り、非常識な奴だと思われたのではないかと胸が苦しくなる。
扉の向こうから「どうぞ」の声がした。
龍神は右手でドアを押し開き、「香守くん、来ましたよ」と中に声をかけてから、振り向いて充を中へと促す。
その部屋は、ものものしく黒ビロードに覆われた占いの部屋と対照的な、簡素な事務室だ。広さは十五畳ほど、奥の扉がさらに別室があることを窺わせる。事務机が三台、そのうち二台は向かい合わせに島を形成している。残る一台は少し離して二台を見守る位置にある。
部屋にいたのは二人。まずドアのすぐ脇に、昨日もいた高身長の男──マサトシが立っていた。上埜は部屋の隅の小さな応接セットに腰を下ろし、充の顔を見ると笑って手招きをする。
「じゃあ、俺、あっちにいますね」
龍神の言葉を、上埜は「どうせなら、一緒に聴いてよ」と留めた。
「そうですか、なら」龍神は上埜の横に腰を下ろす。代わりにマサトシが無言のまま扉の向こうに消えた。無人になる占い部屋で侵入者に備える。ボディガードとしての振る舞いだ。哲さんも龍神もそれが分かっている、だから無言の行動でいい。
充は二人の対面に座った。明るいグレーのファブリックは適度なクッション性能で、手で触れるとざらりとした感触。昨日大崎のオフィスで座ったものと比べて、金額は半分の質素な作りだ。
「じゃあ、質問に答えるよ。なんでも聞いて」
「昨日おっしゃっていたこと、もう一度確認させてください。大事なことなので。みなさんは、犯罪者なんですか?」
一瞬、龍神の頬が膨らみ、上埜から顔を背けた。笑いの衝動を堪える仕草だ。しかし上埜は真面目な顔で頷いた。
「俺や、昨日君が会った連中は、そうだよ。この人」と龍神を指差し「は違う。違法な商売はしてない。だよな?」
「……そのつもっ、つもりっ、ぶははははっ」
龍神が決壊した。「何笑ってんの」という上埜にも笑いが少しだけ感染する。
「いや、ぶははっ、だって、初手からどんだけストレートな質問なのかと。ひー、腹痛え」
龍神はほとんどソファから屑折れそうに身を捩って痙攣した。
充は、どこが笑えたのかよく分からなかったけれど、悪い空気でないことは分かった。歪んだ嘲笑ではない、龍神の素直な反応。それで肩の力が抜けた。ここに向かう道すがらから焦燥で頭脳が空回りしていたのが、ゆっくりと、ギアが噛み合う。
「犯罪者は、嫌い?」上埜が笑いながら問うた。
「嫌いです。でも、もっと嫌いなタイプがあるので、相対的にはマシです」
最後の一言がまた龍神のツボに入り、ついにソファから床に転がった。しかし、上埜はもう笑わない。
「もっと嫌いなタイプって?」
ふっ、と龍神の笑いが引いた。哲さんは彼の核心に触れようとしている。
「ん、ん……」と少し考えてから、充は口を開いた。
「うまく言えないんですけど、他人を見下す人間とか」
上埜は黙って続きを待つ。その気配を察して、充はまた少し考えた。
「自分ができるからって、できない他人を馬鹿にする人。馬鹿にされた方がどんな気持ちになるか、分からない人。分かっていてそれを楽しむ人。大嫌いです」
「犯罪者の中にも、そういう奴はいるよ。もしかすると、一般社会より多いくらいかも知れない」
「でも、犯罪者かどうかは法律の問題です。人格とはカテゴリーが違う」
上埜は黙って充を観察している。二秒の沈黙を破ったのは、ソファに座り直した龍神だ。
「はは、日常会話でカテゴリーなんて言葉を使う奴、哲さん以外に初めて会ったかも──あ、これは馬鹿にしてるんじゃないよ。頭の回転に追いつくように言葉を続けようと思ったら、ニュアンスの深い単語になる。そういうことだと、俺は思ってます、よ?」
最後は確認するように上埜の顔を観た。しかし上埜が反応するより前に、充が嬉しそうな声を上げた。
「そうなんです、言葉にすると、そういうことなんです!」
充の笑顔は子供みたいだ、と上埜は思う。この表情は、彼の警戒心と緊張が緩んでいることを示す。言葉にならない自分の胸の内を的確に言い当ててもらえた時の喜びだろう。
龍神さんを同席させてよかった。もともと人好きのする性格に加えて、占い師のキャリアが長いだけに、彼の対人スキルは様々な場面で有効に働く。先程の大笑いも、普通の奴がすれば相手は不機嫌になるだろう。そうさせない龍神さんの自然体が価値だ。
「最初の質問で、深網社が犯罪組織だと確認できた。それを踏まえて、次の質問は?」
「はい。哲さんたちは、どうして犯罪を犯すんですか?」
少し前の雰囲気なら、龍神はまた笑いの発作に襲われていただろう。しかし、もう空気が変わった。
上埜は思案顔で宙を仰いだ。
「難しいことを訊くなあ。うーん、ここまでの歩みを順序立てて説明するのは、きっと、君の聞きたいこととは違うね──そうだな、さっきの君の言葉に繋げるなら、社会から見下されてきた者が社会を支配できる手段が、犯罪だった。弱者が強者に勝てる下克上の手段が、あらかじめ犯罪とされていた」
一旦言葉を切る。充はまっすぐにこちらを見つめ、表情は変化がない。言葉の意味を受け止めようと脳が集中しているのだろう。多少小難しい話をしても、ついて来れる。そう踏んだ。
「犯罪とは何か。君はさっき、法律の話だといったね。そう、そこに本質がある。人は本来自由だ、何をしてもいい。意思を持って、物理的に可能なことは、なんだってできる筈だ。しかしそれでは不都合があるから、法律で様々な規制をする。刑法や個別法で一定の行為を禁止し、違反者に刑罰を課すルールを定めた。その行為が、犯罪と呼ばれる。犯罪に対しては警察の捜査が及び、逮捕起訴されれば裁判を経て刑に服する。前科が記録され、その後の人生にも様々な制約が付きまとう。それが嫌なら犯罪行為をするな、というメッセージだよ」
ここで上埜は言葉を止めた。充は促されているような気がして、「誰の、ですか?」と尋ねた。
「強者だよ。法律を制定する者は、選挙で多数派の信任を勝ち得た政治家だ。その原案を作る者は、競争試験をくぐり抜けた公務員だ。政治家、公務員、有権者の多数派。それは強者だ。つまり法律とそれが支える社会は、強者に都合良くできている。けれども、そのように美しく整えられた法律や社会では抑圧される弱者が、世の中にはいる。弱者として、苦しみながら生き続けるか、それとも、苦しみから逃れるために自ら命を絶つか」
充の目元が痙攣した。
「それとも、社会のルールを踏み越えて、自分らしく生きるために戦うか。どの道を選ぶのが正解なんだろう。誰にでも通用する正解なんて、ないさ。俺たちは戦う道を選んだ。その中に、犯罪とされる行為も含まれていた。以上、君の問いに対する答えになっていたかな?」
「あ、はい、まあ、大丈夫です」歯切れが悪い応答に聞こえるが、充に他意はない。「昨日のお話で分かりにくかったところも、よく分かりました。あと──暴力行為はありますか? 社員同士でも、会社の外の人に対しても」
「ないよ」
上埜は即答した。隣の龍神も表情を変えずに、伏し目で聞いていた。
「あの、不良の人とか、乱暴するじゃないですか。この会社では、そういうのはないんですね?」
「うん、ない。そこは安心して」
先ほどまでの饒舌から一転した端的な回答、それ以上の説明はなかった。
「次は給料の話だね」哲さんは自然に話題を先に進める。「フルタイムかアルバイトかで違いは大きい。君は、大学を続ける意思はあるかな?」
充がふと固まった。二秒、三秒。
「迷ってる?」と上埜がいうと、充は曖昧に頷いた。
充のブログには、大学の人間関係が針の筵であることが繰り返し綴られていた。ただ、一部には親しい人もいると窺えた。なにより、授業は面白いらしい。
充から具体的な発話がなさそうなので、上埜は話を続けることにした。
「フルタイムならね、固定給と歩合給で月数十万から百万を超えることもあるよ。大学を続けるつもりがあるなら、当面は見習いのアルバイトということで──そうだな、例えば週三回、一日五時間くらいで、固定給二十万、歩合は役割に応じて」
充の表情に驚きが浮かぶ。父からの毎月の仕送りは家賃込みで十万円、今のシステム会社のデータ入力のアルバイトは時給千二百円で月五万円ほどになる。家庭教師ならもっと割が良いが、コミュニケーションが不得手自分には無理だと諦めている。固定給二十万円は魅力的だ。
「不足に思うなら、いくら欲しいか言ってくれ」
「不足なんて、そんな」
そこから充の言葉は続かない。逡巡の様子を少し眺めてから、上埜がいった。
「今度は逆に、尋ねてもいいかな。君は深網社の仕事に興味を持ってくれたみたいだ。俺たちの仲間になって、これまでの弱者の生き方を変える、その決心は、ある?」
「……迷って、ます」
充は前屈みに目線を伏せた。軽い緊張と自己防衛の体勢、深追いはできない、と上埜は判断し、充の言葉を待った。
十秒。二十秒。昨日のような場面緘黙とは雰囲気が違う。
テーブルに置かれていた上埜のスマホが鳴動したのはその時だ。画面には発信者キイチの名。いいタイミングだ。
「ちょっとごめんね」
上埜はそういってスマホを手に取った。
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