(39)作戦会議

 小峠課長の詰問から予想外に早く解放され、野田は往路より心持ち軽い足取りで消費生活安全室に戻った。

 室長席前の協議テーブルには三人が陣取っている。特定商取引法担当の二階堂、澄舞県警OBで不当取引指導員のとうかずおみ、消費生活相談員のてるだ。野田は自席にノートを置いて、筆記具だけを持って協議テーブルについた。

「遅くなりました」

 野田の腰が落ち着くのを待って、二階堂が「お手元にレジュメを置いてます」と声をかける。野田は目の前のA四版ワンペーパーを手に取った。

「昨夜香守茂乃さん宅で預かった書類から判明している事実関係を、裏面にリスト化しています。ナチュラリズム健康革命協会が一番開始時期が古く五ヶ月前から、件数も二十五件と一番多いです。後は四業者十件、二カ月前くらいから始まっています」

 二階堂は一旦言葉を止めて、野田室長の様子を窺う。野田がさらりと目を通し表面に返したところで、再び口を開いた。

「茂乃さんは一人暮らしですが、平均してざっと一件あたり二ヶ月分の量ですから、少なくともナチュラリズム健康革命協会の販売量は四年分相当。明らかに過量と判断します」



 いわゆる次々販売は、財布の紐が緩く断らない(断れない)消費者に対し、本来必要な程度を著しく超えて大量の商品や役務を販売する手口だ。商品の場合は健康食品や化粧品、浄水器、呉服、布団といった、高額単価を設定しても相場的に不自然ではないものが多い。役務であれば子供の学習添削を五年先まで一括契約させたり、無料点検で回っていると偽って床下や屋根上など消費者が自分で確認できない場所をチェックし、不具合があると嘘の報告をして必要のない工事を行う点検商法からの派生がある。

 こうした次々販売は一社だけでなく、「あの家は財布の紐が緩いぞ」という情報が業界に出回り、獲物に群がる蟻のように複数の業者が消費者を食い物にするケースがある。平成十七年五月に報道され社会に衝撃を与えた事件も、そのようなものだった。

 埼玉県富士見市で一軒の住宅が差し押さえを受け、競売にかけられた。住人は八十歳と七十八歳の姉妹二人暮らしで、これまで特に生活に困窮している様子はなかったから、周辺住民は驚いた。不審に思った人からの連絡を受けて市役所職員が当該住宅を訪ねたところ、驚くべき事実が明らかになった。

 三年前からこの家に複数の悪質業社が出入りしており、必要のない多数の工事を市場価格より遥かに高額な金額で実施していた。二人を食い物にしていたのは全部で十六社。三つあれば十分な床下換気扇が30個も取り付けられていたり、十一日間で契約五件七百万円ものシロアリ駆除・床下調湿等工事が行われていたり。それまで四千万円あった預金は全額引き出され、それでも工事費用が不足していると業者が訴えたことから、自宅の差し押さえが行われ競売に進んだのだ。

 姉妹は二人とも認知症で、契約の必要性はもとより、自宅が競売に掛けられている事実も理解できていなかった。

 この事件報道は社会にふたつの衝撃を与えた。ひとつは、世の中にはこれほど悪辣な商売をする業者がいるのだと、あらためて知らしめたこと。もうひとつは、自宅の競売という事態に至るまで周囲がそれに気付くことができなかったことだ。

 その後の調査の結果、全国で同様の事案が多数明らかになった。悪質商法の被害は、高齢者や障害者、若年者など、十分な判断能力・交渉力を発揮できない弱い立場の人に多く発生する。「騙される方が悪い」などという自己責任論で済ませてはならない状況が、そこにあった。この事件をきっかけとして、全国の自治体で消費者行政と福祉・教育・金融などが連携して高齢者等の見守りに消費者被害防止の視点を交える取り組みが始まった。



「ただ問題は」と二階堂が続ける。「これが電話勧誘販売なのか通信販売なのかが、はっきりしていません。書類から読み取れず、昨夜茂乃さんに尋ねても発端を覚えていらっしゃらなくて。みなもさんの話では、最近は認知症を窺わせる状況があったようです」

「ふむ。つまり、特商法の契約解除権が使えるとは限らないわけか」

「はい」

 特定商取引法は基本的に行政規制・刑事罰を定める法律だが、唯一しかし極めて強力な民事ルールがある。クーリング・オフだ。一定の条件下で消費者側から無条件に契約を解除できる、事業者側から見ればとても恐ろしい規定といえる。

 ただし、強力なだけに、使える範囲が制限される。例えば、訪問販売と電話勧誘販売にはクーリング・オフがあるが、通信販売にはない。何故か。それは、訪問販売・電話勧誘販売が事業者側が消費者に対して不意打ちのように訪問・架電して勧誘するものであるのに対し、通信販売は消費者側から注文行動を起こすという自発性があるからだ。消費者が油断している時に勧誘され契約を急がされる訪問販売・電話勧誘販売には、その後一定期間の間に頭を冷やしてクーリング契約を解除オフすることを特別に可能としているのだ。

 特商法の過量販売規制は、訪問販売と電話勧誘販売にのみ設定されている。電話勧誘であればクーリング・オフに準じた契約解除が可能だし、行政指導や調査・処分も行える。通信販売の場合は、消費生活センターとして取れる対応が消費者契約法または民法に基づく契約解除に絞られてしまう。

 後藤が口を開いた。年齢は重ねているが精悍なスポーツマンタイプ、言葉もはっきりしている。

「そこなんですよ。特商法が使えればわしの出番で、調査でも指導でもガーンと行っちゃるんですけど。そこが分からないから、もどかしい」

 警察を定年退職した後、二年ほど民間団体で勤務した後、キャリアを買われて不当取引指導員に採用され三年目の六十五歳。先日の行政処分でも彼の調査能力が大いに役立った。

 後藤の言葉を、久米が受けた。

「電話勧誘か通販か、業者に確認してみるしかないでしょう。どちらにせよ消費者契約法に基づく返金交渉はできると思うので、まず一度、相手方に電話してみましょうか」

 久米は五十九歳、澄舞県消費生活センターに十人いる消費生活相談員の中で最も長い、三十年のキャリアを持つベテランだ。相談者に対する親身な接し方、事業者への時に毅然とした対応、経験と知識に裏打ちされた確かな見識は、彼女を相談員のリーダー格と誰もが認めるだけのものだった。

「よし、そうしよう」野田が歯切れ良く言った。「勧誘・注文方法の確認、それから、相手がまともな事業者かどうか、雰囲気を探ってみてください。それによって我々の今後の対応も硬軟が変わってくる。みんな、それでいいかな?」

 三人それぞれに頷くのを見て、野田は号令を発した。

「じゃあ、一旦解散。進展したらまた集まろう」



 二階堂がみなもたちのところに戻り、事例検討を進めて三十分ほどが経過した頃、久米が協議スペースに顔を覗かせた。

「二階堂さん、さっきのナチュラリズム健康革命協会のことで相談が」

 表情は曇り気味で、交渉は順調ではないようだ。

「あ、そっち行きます」

 そういって二階堂が腰を上げかけた時、みなもが口を開いた。

「あの、祖母の件ですか?」

「そうだよ。相手とコンタクトを取り始めたところ」

「業者との話なら、私も、聴かせていただけませんか」

 んー、と二階堂は答えあぐねて、みなもの顔を見た。自分よりひと回り若い彼女の真っ直ぐな視線が眩しかった。

 その時久米の横から、ぬっ、と久米の一・二倍くらい大きな野田室長の顔が覗いた。

「いいんじゃないかな」

 え、いいんですか? と二階堂が表情で尋ねる。野田は笑って

「悪質業者との交渉なんて、消費生活センターの業務の見所みたいなものだからね。うちの仕事を理解してもらうには丁度いい。ただ──香守さん、おばあさんの案件絡みだけど、小室君にも聴いてもらっても大丈夫だろうか」

「はい、構いません」

 きっぱりとしたみなもの応答に、野田は頷いた。

「ありがとう。後は、二人に念押し。事前に提出してもらった誓約書に、守秘義務が記されていたと思う。今から立ち会ってもらうのは、現実の事業者・消費者に関わる交渉です。見聞きしたことは、他の人に話さないこと。業者名をぼかしてSNSに投稿するとかもしないでね。大学に提出するレポートは、業者との交渉電話に立ち会ったという最小限の事実だけなら、書いても構わないから」

 小室とみなもはそれぞれに「はい」と応えた。

「よし、じゃあそういうことで。我々は少し打ち合わせするから、その間に香守さんから小室君に、簡単に状況を説明しておいてくれるかな。五分くらいしたら、あっちに来てよ」

 野田と二階堂は協議スペースから室長席前の小テーブルに移動した。

「香守さんたちを立ち合わせること、ダメかと思っていました」と二階堂。「特に小室君は、昨日も止められたので」

「そう? 昨日は警官の臨場する市中の現場だったけど、今日は我々の室内、ホームグラウンドだよ。この場所で彼らが「職場体験」することを、県は組織として許可している。案件は一般相談者のそれではなく、インターンシップ生として県の監督下にある香守さんのものだ。相談当事者の彼女から、小室君が立ち会う許可は得られた。二人に守秘義務の念押しもした。これなら課長も文句は言わないよ」

「あー……」二階堂は察した。「今朝の課長呼び出しは、やっぱり昨日の件のお叱りでしたか。二日連続でやらかしてしまって、すみません」

 おっと、と野田は口に大きな掌の先を当てた。体格に似合わぬ仕草がかわいい。

「ま、さらっと終わったよ」

 昨日の件についての課長の懸念も、一昨日の件で広報課からすまテレに抗議を行ったことも、二階堂に話しておくべき内容だ。後で落ち着いた時間に話すつもりだったが、流れで野田はポイントを彼女に伝え、最後に私見を付け加えた。

「ぼくは、二階堂君の提案は最善の判断だったと、今でも思ってるよ。それに結果論ではあれ、そのお陰で過量販売被害にも気付くことができたし、その解決支援を行おうとしている。ぼくたち消費生活センターは正義の味方、でしょ?」

 テレビで県下に放った二階堂の啖呵。二階堂は苦笑いをしながら頷いた。

 久米と後藤が加わり、久米から交渉の状況が報告された。

 久米がナチュラリズム健康革命協会に電話をした時、応答したのは若い女性の声。丁寧な物腰で、久米が消費生活センターを名乗っても特に動揺は窺えなかった。香守茂乃の購入について訊きたいと伝えると、担当者が不在なので後ほど電話させますとのことだった。

「担当者の在席を確認する気配はなかったので、テンプレート応答だと思います。おそらくバーチャルオフィスですね」

 一般事業者でも本来の事務所以外に専用のコールセンターを設けている場合はあるが、できるだけたらい回しをせず応答ができる体制になっている。しかし今回は、久米から用件を詳しく聞き取ることもなく「担当から掛け直す」といった。「担当」は元々そこにはおらず、電話は依頼主に通知するだけのバーチャルオフィスサービス。悪質事業者が身元を隠して活動するためのツールのひとつだ。

 五分後にセンターの電話が鳴った。発信者番号非通知。相手の男はナチュラリズム健康革命協会のヤマモトと名乗った。気の弱い若者のような感じで、消え入りそうな声で受け答えもはっきりしない。

「のらりくらりして、言うことが変わるんですよ。最初は電話勧誘だったと言ってた筈が、そんなことは言ってないダイレクトメールだといったり。電話が混線していてこちらの声が聞き取りづらいと、何度も聞き返してきたり。どうもまともに話をする気がなくて、わざとやっているというか」

「そりゃあ、ロクなもんじゃねえなあ」

 後藤は警察官時代に数多くの犯罪者と丁々発止のやりとりをしてきた。だから、反社会的勢力のやり口はよく分かっている。

「普通の事業者なら、口喧嘩はしても日本語としての会話は一応噛み合うんですよ。話が噛み合わんのは、わざと。形だけ行政の話に付き合っといて、実際には聴く気はなく、煙に巻いてるだけ」

 この辺りで小室とみなもがやってきた。野田は二人に手招きをしてテーブルにつかせた。

 二階堂が久米にいう。

「最初に電話勧誘だったって、一度は言ってたんでしょう? ならそれを足がかりにして、特商法の質問調査権が使える。ね、後藤さん?」

 最後の一言は後藤に同意を求めるものだ。後藤は二階堂の前任者とコンビを組んで二年間の取引指導経験がある。さまざまな面で頼りにしている先輩だ。

「ま、そうですな。事実関係が確認できたわけではなくても可能性があるなら、特商法担当者として業者とコンタクトを取る口実はある」

 二階堂は大きく目を開いて後藤の顔を見つめた。その視線が期待に満ちていることに気づき、後藤は(え、俺?)と声を出さずに口を動かし、自分を指差した。頷く二階堂。

「俺が電話してもいいんだけど、午後から今週一杯お休みなんだよね」

 あ、と二階堂はその事実を思いだした。非常勤勤務の後藤は、年に数回長めの休みをとって、旅行やスポーツなど定年後の趣味に勤しんでいる。今回は東北の山に登るのだと聴かされていた。

「一回の電話で終わる話にはならなそうだし、継続対応するのにタイミングが悪い。今回は二階堂さんに任せた!」

「──わかりました」

 半年あまりの特商法担当経験の中で、悪質業者との電話は幾度も経験したが、時に理不尽な威嚇をしてくる相手との会話は慣れるものではない。後藤に担当してもらえれば助かる、と思っていたが、甘かった。

 そのような内心の動揺はおくびにも出さず、二階堂はキリッとした表情でみなもと小室の方を向く。

「一度は相談員さんから向こうに電話してもらったけど、どうも悪質業者のようで埒が開かないみたい。そこで今から、私が特商法担当者として、バシッと言ってやります」

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