(38)東京の風景
朝九時、東京都北区王子。
bluetooth接続された六五型壁面埋め込みディスプレイが自動的に点灯し、発信者名が大きく映し出される。
おっ、と声が漏れた。
昨日、あれから充はひと言も喋らなかった。場面
その状態になると、もう説得してどうなるものではないと、上埜はよく知っていた。だから、後日また話をしたいと最後に伝えて、解放した。充はぺこりと頭を下げて、ブッさんに伴われて部屋を出て行った。
彼が警察に駆け込むことは心配していない。根拠があってのことではなく、仮にそうなったらそれが運命と割り切っているだけだ。上埜に自己保身の意識は、ほぼない。それが上埜勝という男だ。それよりもむしろ、充がそのまま自死に至る不安が拭いきれなかった。せっかく見つけた「適格者」を失うのは避けたい。だから、最後に登録しておいた充の携帯から連絡があったことで、上埜は安堵していた。
「電話に出る」
上埜の声に反応して、画面の充の名前の下に「通話中」の表示が現れる。
「はい」
「あの──香守です。哲さんですか?」
「そうだよ。おはよう」
「おは、おはようございます」
二秒、三秒、沈黙が続く。上埜は待った。五秒に達する前に、充が話し始めた。
「んん、昨日のことなんですけど。まだ決めたわけじゃないんですが、もう少し具体的なお話をお聞きしたくて。勤務条件とか」
「勤務条件?」上埜は笑いを押し殺した。「いやまあ、そうだよな。「就職」するなら勤務条件は大事だ。うん。電話じゃ話しづらいから、直接会おう。今日の午後はどう?」
「早い時間なら大丈夫です。四時過ぎには大学に行かないと」
昨日よりも発話が滑らかだ。おそらく彼にとって電話は話しやすい媒体なのだろう。
他人と対面で話をする時、人は五感でその空間を感じ取っている。とりわけ相手の表情や仕草といった視覚情報は、語られる言葉以上に情動のニュアンスが籠っているものだ。
メラヴィアンの法則。会話の場面で人が相手の意図を受け止める際に、相手の言葉の中身つまり言語情報から七%、声の大きさやリズムなど言葉の内容以外の聴覚情報から三十八%、そして表情や身振り手振りなどの視覚情報から五十五%の情報を受け取り、その総合判断を瞬時瞬時に行っているとされる。この比率から七・三十八・五十五ルールとも呼ばれる。心理学者アルバート・メラヴィアンの実験結果に基づくとはいえ、俗流ビジネスハウトゥとして広まった理論だから、数字にあまり意味はない。ただ、コミュニケーションがこれほど複雑な認知処理を要するものだということは、つまり人の資質によって当然得手不得手が生まれることになる。
上埜はコミュニケーション強者だ。腕っ節が立つとは言えない彼が反社業界で一定の地歩を維持できているのも、的確に相手の心理を読み取り掌握することができる彼の資質に依るところが大きい。上から可愛がられ、下からは心酔されて、一部の例外を除いて敵をあまり作ることなく世の中を渡ってきた。
一方で、充のようなASD類型の発達障害では、他人の心の把握を苦手とする事が多い。会話の場面で言語・聴覚・視覚の膨大な情報を総合的に把握することが負担となり、処理しきれずにフリーズしたり、逆に特定の要素だけが気になってしまい本意を捉え違えたりする。チグハグな応答によって相手を困惑させ怒らせる経験を重ねると、さらにコミュニケーションが怖くなる。
聴覚情報のみで情報量が対面の半分に削ぎ落とされる電話は、充にとって集中できる手段なのかもしれない。会話を続けながら、上埜はそんな読みをした。
「わかった。紫峰大は
「はい」
「池袋なら二駅だから、時間を有効に使えるね。西口のアンゴルモアは覚えてるかな。そう、占いの。あそこで、十三時に」
電話を切ると、上埜はしばし脳を駆動させる。
警察と連携した罠の可能性はないか。──ない。騙されたふり作戦の単純例があるとはいえ、ここまで手の込んだ囮捜査に未成年の民間人を使うとは考え難い。香守君の声音にも彼の特性に照らして嘘をついている気配はなかった。
では本気で就職──仲間に加わる可能性を考えているという前提で受け止めるべきか。「適格者」を見つけた嬉しさで目が曇らぬよう警戒しつつ、その前提で行くのが妥当。
午後の面談までに準備しておくことは。
「ブッさんに電話する」
音声コマンドに反応してディスプレイに「ブッさん」の表示が点る。ツーコールで相手が出た。
「はい、桐淵です。おはようございます」
「おはよ。今、香守君から電話があったよ。詳しい話を聞きたいって」
「はい」
「今日は俺一人で面談するよ。結果は連絡する。彼の通帳は道具に回さずに保管してくれ。それから、他に彼について何か気のついたことがあったら、教えといて」
「はい──」一呼吸と少しの間が空いた。「実は、昨日香守と面談していただいた同時刻に、偶然なんですが奴のばあさんを刈り込みに掛けていました」
今度は一瞬、上埜が言葉を継ぎあぐねた。
「──続けて」
「結果は失敗です、振り込み直前でコンビニ店員に気付かれ、阻止されました」
「そうか、むしろおかしなことにならなくて良かった」
「珍しい苗字で同じ澄舞県だから気になっていたんですが、奴の出身とばあさんちで住所が違ったので。昨日奴を送り出す間際に念のため、八杉に親戚がいるかと訊いたら、ばあさんの名前が出ました」
「ふうん──訊いたんだ」
あっ、と桐淵が息を呑んだ。質問自体が充に一定の情報を与えることになる、それが哲さんの気に障ったのではと畏れたのだ。その気配を一秒半観察してから、上埜は続けた。
「まあ、いいよいいよ。ばあさんの名前は身内リストに入れといてな」
身内リストとは、社員の親族・友人など詐欺のターゲットから外したい相手を自己申告で登録するものだ。ただしそれは、内部管理的には社を裏切って逃亡した際の追及先にもなり得る。
まだ入社が決まったわけではないのに、哲さんはもう香守を逃さないつもりなんだ──桐淵はそう察した。
「分かりました。それから、ばあさんの情報の出元はキイチのところです。商品を断らずに購入し続けているとのことで、「優良顧客」としてこちらに回ってきました」
深網社グループはいくつかの組織に分かれ、大まかな役割分担がある。八巻の会社は法的にはブラックではなくグレーの商法で、名簿屋から購入したカモリストを元に電話攻勢を掛けている。法規制を大きくは踏み越えずギリギリを攻める分だけ一件あたりの売上はそれほど大きくないが、グループ企業としての業務目的の半分はカモリストの
「そうかあ、キイチんとこでしゃぶっていたわけか」と上埜は独り言のようにいう。どうも間が悪い、とまでは声には出さない。「わかった。ばあさんの名簿情報はクラウドに上げといて。キイチには話を聴いておく」
電話を切ると、上埜は椅子から立ち上がった。
西側ベランダに続く掃き出し窓の前に立ち、外を眺める。眼下には在来線・新幹線合わせて十本の線路越しに飛鳥山の木々が広がり、目線を上げれば僅か三キロメートル先の池袋には高層ビルが林立する。上埜の故郷ではあり得ない、この国の首都の風景だ。
──東京でようやく見つけた適格者が澄舞出身とは、なんという因縁だろうね、克っちゃん。
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