(33)「生まれて来なければ良かった」
「ご家族は優しい人たち?」
「まあ、そうですね」
「家族で誰が一番好き?」
「特に……みんな同じです」
「嫌い、というか、苦手な人はいる?」
「ん……ん、いません」
「ふうん」
哲さんのまとう空気が変わったのを、ブッさんは感じた。ここからモードが変わる筈だ。
「実はね」
哲さんはソファの脇に立てかけていたアタッシェケースを手元に引き寄せた。茶色の革張り、長い年月をかけて使い込まれた風格がある。ばちん、と音を立てて金具を跳ね上げ、中から分厚い書類の束を取り出した。黒のダブルクリップで左肩が閉じられている。
「このブログ、読ませてもらったよ」
そういいながら、哲さんは書類をテーブルの上にそっと置き、充の方へ押しやった。ブッさんの位置からはサイトを印刷したものらしいとわかるくらいで、文字は読み取れない。
たっ、たたっ。
ふいに柔らかな音が鳴り出した。充の膝が激しく震え、スニーカーの踵が床を鳴らしているのだ。その音はしばらく続いた。
「これ、君のブログでしょう?」
「ちちがいます、なんですかこここれ」
歯の根が合わず発語が不明瞭だ。衝撃的な動揺に襲われていることが見てとれる。
「オシントって、知ってる?」
哲さんの言葉に、充は頭部を痙攣させた。本人は首を横に振ったつもりだった。
「Open Source INTelligenceの頭文字を取って、オシント。公開されている情報を照合することで、見えない事実を明らかにする技術のことだよ。下世話な表現をするなら特定厨だね。ブログには人名も地名も書かれていないけれど、文章に含まれた情報、写真に映る建物、そうした断片情報ひとつひとつを丹念につなぎ合わせれば、場所・人・時期を特定できるのさ。ネット社会は怖いねえ。もっとも、少しだけ違法な情報も使ったから、八割オシントってところかな。それでも君のことを調べ始めて四日でこのブログを探し当てたんだから、うちのスタッフは優秀だよ」
アンゴルモア情報班のことだ。
「ブッさん、読んでみる?」
「はい」
ブッさんがテーブルに近づきかけた瞬間、充は書類を掴んで両腕に抱え込んだ。
「読まないでください! お願いだから……読まないで!」
哲さんはこめかみに人差し指を当てて、じっ、と充の様子を見ていた。これまで流れる水のように会話を止めなかったが、今は黙って観察し考えるフェーズだ。
ブログは彼が中学二年の時に始まり、大学一年の今も続いている。五年間で六百件を超える記事。書きたい衝動が文章の量に繋がり、量が次第に質を向上させ、その蓄積の中に様々な出来事と思考と感情が記録されていた。
担任教師の「いじり」が悔しかったこと。
優しくしてくれる女子への恋慕。
酷いいじめをしてくる幼稚な奴らに凄惨な復讐をする妄想。
倫理の授業で学んだ思想の評価。
学習成績の自負と、愚かな級友への侮蔑。
人と違う自分についての悩み。
進学が決まった時の明るい未来予想。
上京後の絶望的な未来予想。
自分を理解してくれない父への、不満と愛情の交錯。
明るく社交的な姉への羨み。
弟の可愛さ。
母だけが自分をそのまま受け入れてくれること。しかし、自分を産んだことは恨めしく思っていること。
生きることはつらく苦しいということ。
楽に死ねる方法の探索。
自死の試みと失敗──。
家族の前でも、心配してくれる友人の前でも、充は「いい子」「問題のない子」を演じてきた。なぜならそれが家族や友人から期待される姿だと、彼自身が思い込んでいたからだ。自分の弱さは見せたくなかった。心配されるのは自尊心を損なうことだった。だからいじめられても、それを大人に訴えることができなかった。
一方でブログには、誰にも聞かせることのできない彼自身の魂の言葉をしたためていた。自分を理不尽に追い詰める連中への黒い呪詛。前向きと後ろ向きを往還する心。性的な欲望、そして自分には永遠にセックスのパートナーが現れないのではないかという恐れ。実名では誰にも話すことのできない、匿名の露わな本心だった。
だからなのだ。偽名で悩みを相談しかけた龍神ズメウが自分の本名を言い当てた時も。哲さんがブログを読んでいたと知った今も。最も秘すべきものを知られた羞恥に、充はいたたまれなくなったのだ。
哲さんはそうした充の心の襞をあらかた読み取ると、ふっ、と集中を解いた。
「本人が嫌だというんなら、やめとくさ」
哲さんの言葉に、ブッさんは伸ばそうとしていた手を引っ込め、元の位置に戻った。
「──世の中には、強者と弱者がいるんだ。君は、自分はどちら側の人間だと思ってる?」
「……弱者」
充の声はほとんど泣き出しそうに聞こえた。
「正解。今の世の中の『普通』から見れば、こういう魂」といいながら充の持つブログを指す「を抱えている君は、間違いなく弱者だ。紫峰大学に入れるだけの優れた頭脳と集中力があっても、それを適切に活かせる環境に出会わない限り、君は弱者のままだ。例えばね」
哲さんはブッさんの方を見て「通帳、受け取った?」と尋ねた。ブッさんは頷いて、脇に持っていた白の大型封筒を手渡す。哲さんは封筒の中身をテーブルに滑り落とした。充の通帳、印鑑、キャッシュカードが三組。
「──今回はかなり雑な手に引っかかったって聞いてるよ。怪しい女についてこいと言われた時。監禁状態で押し売りされた時。通帳を作って渡せなんて非常識な要求をされた時。普通の人は断る場面で、君は断らなかった。だから君は今、ここにいる」
充は書類を抱きかかえて俯いたまま、何も言わない。
「この通帳はね、うちの顧客からの入金先として使うんだよ。もう気がついてるかもしれないけれど、俺たちは違法な仕事をしている。振り込め詐欺とかね。つまり犯罪者だ。でも──香守君は、自分も既に犯罪者だと気付いてる?」
充はちらりと上目で哲さんの顔を見て、すぐにまた目を伏せた。
「他人に渡す目的で銀行から通帳とキャッシュカードを騙し取るのは、刑法の詐欺罪。その通帳を他人に渡すのは、犯罪収益移転防止法違反。騙されてやりました、脅されてやりました、なんて主張しても免責はされないよ。君はもう、犯罪者だ」
「……知ってました」
充は俯いたまま声を絞り出す。
「そんなの、新聞読んでれば、普通に分かります」
「ふうん、そうなんだ」
世の中には、それを知らず安易に通帳を他人に渡す人間が多数いる。だから俺たち詐欺師の商売道具が整うのだ。新聞を読んでいれば普通に分かる、そう言えること自体が実は世の中の特権的知性であり、恵まれた環境で育った証なのだと、香守は気づいているだろうか。
「知ってて、なんで通帳渡したの?」
「だって……そうしろって言われたから」
普通はあり得ない思考回路だが、充にはこれが自然体だ。理不尽だと思っていても、他人の圧力に抗することができず、従ってしまうこと。それが悔しくて悔しくてたまらないこと。充のブログで繰り返されたモチーフだ。
世の中は自己責任論で動いている。断れない方が悪い、とみなされて、誰も助けてくれない。弱者は一般社会からも見捨てられ、追い詰められていく。
こうした状況の中で「自分はこの社会では生きていけない」という充の希死念慮が生まれていると、哲さんはブログの文章群から推測していた。
おそらく香守は、遠からず自ら命を絶つつもりだ。だから、犯罪者になっても構わないと思っているのだ。
世の中を見通す知性。
強者に踏み躙られてきた感性。
此岸から彼岸へ跳躍するための条件。
彼は、全部持っている。
社会的弱者の彼を、反社会の強者に育てあげること。傷ついてきた魂に、傷つける勇気を与えること。それが今も生きながらえている俺の役目だ。
「提案がある。聴いてくれ」
充が顔を上げるのを待って、哲さんはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「この世の中は強者のルールで動いている。学校もそうだ。社会もそうだ。そのルールに従う限り、弱者は決して報われない。香守君には、その意味がよく分かっている筈だ。
「俺たちは、そんなルールの外にいる。社会的弱者の集まりだけれど、強者に勝つ術を知っているし、実際に活用し成功している。
「でも香守君は世の中のルールの中にいるから、これまでも散々嫌な目に遭ってきたようだし、今回は俺たちの術中にはまってしまった。
「そんな人生、嫌なんだろう? だから──」
死にたいんだろう、といいかけて、言葉を飲み込んだ。
「──うちの社員になれよ。そうしたらこの通帳は使わない。俺なら、君に生きる道を示せる。強者の作った世の中のルールを捨てればいいんだ。「ふつう」な奴らの都合に合わせる必要なんかない、そんな世界では俺たちは生きていけない。俺たちのルールで強者を弱者に引き摺り下ろせ。奴らに反撃し食い物にして、俺たちが強者として生きるんだ。
「君は、これまで周囲に散々傷つけられきただろう。仕返しもできずに自分を抑え込んできただろう。それこそが生きづらさの正体だ。生きるために、ルールを踏み越えろ。自分を解き放て。これまで君を傷つけてきた他人を、社会を、傷つけ返してやれ。その社会の傷が、君がこの世に生まれてきたことの、確かな証になる」
充は書類を抱えたまま、じっ、と上埜を見つめていた。上埜はその視線を真っ直ぐ受け止めて、返答を待ち続けた。
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