(32)人称問題

 桐淵の知る限り、これまでの候補者面談はせいぜいが三十分程度だった。つまりそれまでに哲さんが相手を見限ったということだ。しかし、香守充に対する面談は既に一時間を超え、二時間に迫ろうとしている。

 面談開始から四十分くらいまでは、緊張と(一体これはいつまで続くのか)という焦れが、充の様子に見て取れた。やがて諦めと上埜──哲さんの話術で、充の構えはほぐれていった。

 哲さんは充に対して支配的に振る舞わない。充のどのような発言も受け止めて、ボールを投げ返す。コミュニケーションがうまく取れていることが、対人関係の苦手な充をリラックスさせていた。

 けれども、そのことが充の特異な資質を一層際立たせているように、桐淵には思えた。まるで心に欠損を抱えた患者が老成した精神科医の前で油断しているようだ、と。

 ──俺には香守に候補者としての資質があるとは到底思えない。しかし、哲さんはこいつに、何かを見出しているらしい。俺に見えていないものは何だ。哲さんが見ているものは、なんだ。

 一見他愛のない、修学旅行の寝床雑談のように連想で続く会話。その中に、哲さんの人間観察と心理操作技術の粋が込められている。それを間近で観ることは、何よりの修行だ。桐淵は応接セットから少し離れたところにひたすら立ち続け、二人の会話を一言も聞き漏らすまいと注意を向けた。

「そういえば香守君は」と上埜。「自分の事を「私」っていうんだね。若い男性では珍しい」

「そうですか。まあ、そうかも」

「マルティン・ブーバーの議論を思い出すな。ブーバー、分かる? 今でも倫理の教科書に載ってるんじゃないかと思うけど」

「あ、『われなんじ』」

 充は即座に主著の名を挙げた。倫理科目に出てきた思想家の概要は大抵覚えている。受験のために暗記をしたわけではない。関心のあることは自然と頭に残るのだ。ブーバーは二十世紀前半に活躍した哲学者。ナチスの弾圧により故国オーストリアを離れ、イスラエルの大学で教鞭を執った。

「そ、さらっと出るのはさすがだね。彼は、関係が人を規定するといった。対象を「それ」と呼ぶ時の「我」と、「汝」「あなた」と呼ぶ時の「我」「私」は、在り方が決定的に違う。面白い考察だと思うよ、確かにそうだ。知らない人と初めて会う時。知人と話す時。親友とダベる時。家族と一緒の時。身体中の形も色も匂いも味も性感もさらけ出し互いに知り尽くしたパートナーと、共にいる時。自分の心持ちはそれぞれ違うもんな。ブーバーみたいに神と向き合う時とまで言われると、俺は一歩引くけどね」

 哲さんは神を信じないらしい。充の脳裏に、仏壇の前で手を合わせる茂乃おばあちゃんの姿が浮かんで消えた。

「ここから考えると、だ。二人称、他人をどう呼ぶか。一人称、他人の前で自分をどう呼称するか。それって、その人が自分・他者・世界をどう捉えているかを映し出す鏡なんじゃないか。香守君はどうして一人称を「私」というのかな?」

「え……いや……「俺」はなんだか柄じゃないし」

「柄じゃない。ふむ?」

 上埜は充に先を促す。充はしばらく考えて、続けた。

「……「俺」って、なんだか乱暴な感じがして。「僕」は幼いし。「私」が一番フラットだから」

「誰の前でも「私」って言ってる? 例えば、家族といる時にも」

「はい、そうです」

 充は即答した。表情筋が不自然に震えた。

「家族のことは、なんて呼んでるの?」

「お父さんとか、お母さんとか。普通です」

 また頬が痙攣した。

「普通、かあ」

 上埜は背もたれに体を預け、目線を意識的に充から反らした。それで充はほっと息をつく。

 父しゃん。母しゃん。にゃもちゃん。あゆたん。充は家族一人一人をそう呼ぶ。家族と共にいる時、充は自分を「充」と呼ぶ。家族みんなが充をそう呼ぶように呼ぶ。それは、家族以外の誰にも言わない秘密。誰にも言えない恥ずかしい秘密。

 だから躊躇なく嘘をついた。

 だから無意識に顔が強ばった。

 関係が人を規定する。家族の前の充は、確かに他人の前の充と違った。他人が彼を苛む針の筵とすれば、家族は真綿のように柔らかく暖かな足枷であり、窒息しそうな首輪だ。

 半年前、充は進学という合法的な手段でその家族から逃げ出して、東京に来たのだ。自分を変えたいと願ったから。

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