(30)一難去って
十五時四十分。
事務所に駆け込んで来たみなもの顔を見て、茂乃は「ああ、みなもちゃん。よく来てごいたあ」とボロボロ涙をこぼした。
「おばあちゃん、大丈夫?」
みなもは、男性警官──織田警部補に促されて茂乃の横に腰を下ろし、左腕に手を添える。久しぶりに触れたおばあちゃんの体は、すっかり肉が落ち、服地と皮膚を通しても骨の感触が分かるようだった。
「これまでの説明である程度は詐欺の可能性を理解していただいたようなんですが、まだ半信半疑みたいで」
織田がみなもにそう告げる。
「だって」と茂乃がパンフレットを取り出す。「
織田は苦笑いして「大丈夫、私は本物の警官ですよ。この服もね、普通の装備品」といった。
先ほどの電話では完全なパニック状態で心配していたが、その後の織田の粘り強いコミュニケーションが功を奏して、気持ちは落ち着きを取り戻しているようだ。疑念を払う最後のひと押しが私の役目だと、みなもは思った。
「おばあちゃん、私ね──」
みなもはバッグから、二つ折りにした見守り新鮮情報第215号を取り出し、茂乃の前に広げた。
「今日からインターンシップで澄舞県消費生活センターに行ってるの。インターンシップ。職場体験。うん。澄舞県庁だよ。お役所。今回のような詐欺の手口に、一番詳しいところ。そこでね、これ、もらって来た。読んでみて」
茂乃は眼鏡を外して紙に目を近づけ、そこに書かれている文章を声に出しながら読み上げる。そして顔を上げ、大きく目を開いてみなもを見た。
「あだん……おんなじだがん」
「うん、そうだね。こういう手口が全国的に多いんだって。だから、おばあちゃんが聞いた話も、間違いなく詐欺なの。無視していいから」
茂乃はもう一度ちらしに目を落とし、みなもを見た。
「じゃあ、心配いらんだね?」
「そうだよ」
「そげかあ……あー、良かった! 胸が軽んなった。なんだい憑き物が落ちたやなわ」
茂乃にようやく笑顔が咲いた。
二人の様子を眺めながら、テーブルの向かい側に立っていた織田が隣の二階堂につぶやく。初対面だが互いの自己紹介は既に店外で済ませていた。
「良い関係のご家族でよかった。最後に届くのは家族の言葉ですから。制服の警官だからといって信用してもらえるとは限らないのが、悔しいところです」
「家族の言葉が届かない場面も見てきましたよ」と二階堂が応える。「この二人の信頼関係と、ここまで説得してくださった織田さんのおかげだと思います」
その時、細面の男が事務室に駆け込んできた。
「あの──あ、お母さん」
男は茂乃を見てそう呼んだ。茂乃の一人息子、みなもの父、香守
「お父さん! 帰ってこれたんだ」と、みなも。人前では「父しゃん」とは呼ばない家族の不文律。
朗は「留守電聴いたのが
「ああ、二階堂さん。この度は娘がお世話になっております」
「やっぱり香守さんの娘さんだったんですね。珍しい苗字だからそうかもと思ってました」
県庁出入りの印刷会社営業担当の朗と、印刷発注の多い消費生活センター職員の二階堂は、顔馴染みだ。
「あと、皆さんには母がご迷惑をおかけしたみたいで、なんとお詫びしたらいいか」
コンビニ店長の藤谷、警官の織田、そして二階堂の三人に、朗は一人一人頭を下げた。
「迷惑なんかじゃないですよ。お母様は被害者、悪いのは善良な人を騙す詐欺師の方です。まったく、けしからん」
きっぱりとした藤谷の言葉に、織田と二階堂も頷いた。
朗はテーブルを挟んで茂乃に向き合う。
「お母さん、そおで、詐欺だったかね」朗は母親と話す時だけ澄舞弁になる。
「そげ、騙されえとこだったわ」
「でも大丈夫だったよ。お金を振り込む前にお店の人が止めてくれたから。おばあちゃん、今は詐欺だって理解してくれた」
みなもは見守り新鮮情報を朗に示した。朗が黙読している間に、茂乃とみなもが会話を続ける
「この紙の説明で納得が行ったわ。よおこげに分かりやすいもの持って来てごいたねえ」
「ほんと、まさか消費生活センターに行った日に、こんなことがあるなんて。そうじゃなかったら、私も詐欺かどうか見分けがつかなかったと思う。すごい偶然」
「ほんに仏様のお導きだわあ」
言いながら茂乃は合掌して頭を下げた。
読み終えた朗が顔をあげ、茂乃にいう。
「今回は無事で良かったあもん、気をつけないけんで? すぐに大金が必要だと言われた時点でおかしいと思わんと」
少しだけ、トーンに責める気配が篭っていた。茂乃はさらっと「そげだねえ、気をつけえわ」と応え、むしろ周囲が少し気を揉んだ。幸い朗の口からそれ以上の苦言はなかった。
織田警部補が聴き取りやすい発声で茂乃にいう。
「香守さん、今日は大変でしたね。今回の詳しいお話を聞きたいんだけど、今からでもいいですか? それとも明日にします?」
「あー、明日にして
「えらい」は疲れた、「けんびき」は疲れた時の発作のような状態を表す澄舞弁だ。若い人は使わないけれど、聞けば意味はわかる。こういう言葉もいずれ失われていくんだろうな、とみなもはぼんやり思った。
「わかりました、じゃあね、明日またご連絡しますから。今日はお家に帰って、ゆっくり休んでくださいね」
織田は優しい目をして茂乃にそう告げた。
ラ・ポップ八杉甘田町店から茂乃の家までは一キロほど。普通なら自転車か歩いてでも往復できる距離だが、八十歳の茂乃はもう自転車は使っておらず、タクシーで店に乗り付けたという。
「とうし……えふん。お父さん、おばあちゃんを家まで送れる?」
みなもの言葉に、朗は少し困った顔をした。
「同僚と荷物が乗ってて、席が空いてないんだよ。それに、夕方までに会社で報告書を仕上げなきゃいけなくて時間が結構ギリギリで……みなもは、もしかして公用車で?」
ちらり、と向けられた朗の視線を受け止めて、二階堂は頷いた。
「いいですよ、せっかくだから送りましょう」
「本当にすみません、助かります」
父と娘は揃って二階堂に頭を下げた。話の流れが聞き取れていない茂乃は、ただニコニコとその様子を見上げていた。
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