(29)振込阻止
ラ・ポップは
ラ・ポップ
「店長、お電話です。クレームみたいです」
アルバイトの水元慶太に声を掛けられ、品出し中だった藤谷三郎は彼に作業を交代してもらい、急ぎ足で事務室に移動した。
「あのね」と相手の女性──それほど年配の声ではないように感じた──はゆっくりした口調で用件を話し出す。
「先日ね、そちらでお弁当を買ったんですけどお、子供がそれを食べてから、三十分くらいかなあ、もうちょっとかなあ、ゲロゲロって吐いて、お腹を、あ、私じゃなくて子供ですよ、子供がね、お腹を下したんですよお」
「それは大変だ、お子さんの具合は如何ですか」
まず傾聴。相手の立場に寄り添いつつ、責任の認定は慎重に。チェーン地区本部が開催するクレーム研修のポイントのひとつだ。結果の重大性や店側の責任の蓋然性などを総合的に考えて、必要があれば即座に謝罪することもある。そのような状況かどうか、会話の中で確認しなければならない。
「子供はねえ、あ、ちょっと待っててくださいね、ちょっと様子見てきますから」
保留音。
食中毒となれば大変なことだ。保健所が入り、数日の営業停止。本部からも厳しい指導があると聞いている。水谷は脳内でさまざまな可能性を考えながら相手が戻るのを待った。
三十秒は超えたろう。そろそろ一分か。一分半……。
「あー、ごめんなさいねえ、今は眠ってます。あのねえ、お弁当を買ったのはねえ、えーと、お・と・つ・い? だっけ、ノブ君?」
電話の向こうにいる家族らしい人物に尋ねる気配があった。受話器を掌で押さえたのだろう、気配のない時間が続く。五秒。十秒。十五秒。
なんだか緊迫感のない、間伸びした感じだ。藤谷が軽い違和感を覚えたその時。
「どうしてくれるんじゃごるあ!?」
突然相手が男に代わり、激しく怒鳴り上げられて藤谷は一瞬呼吸が止まった。
「お前は誰じゃ、責任者か、おお?」
「は、はい、店長の藤谷と申します」
「下の名前は!」
ハードクレーマーは大声や威嚇発言でマウントしてくる。名前を確認してくるのも、何かあったら個人を追い込むぞという威嚇の一種。これも研修で学んだことだ。知識はあっても、怖いものは怖い。それは動物の本能だ、とこれも研修講師が言っていた。
聞くべき要求は真摯に対応する、拒むべき要求は拒む。そこを見誤ってはいけない。一般社員やアルバイトは別として、責任者の氏名は秘すべき情報ではない。
「三郎です」
「藤谷三郎店長さんか。うちの娘はなあ、おたくの弁当を食べて、えらい目に遭ったんだぞ! どうしてくれ……あ? なに? 今俺が話して……」
向こうで何か揉める気配があって、再び女に代わった。
「ごめんなさいねえ、うちの旦那、娘のことになると我を忘れてしまうから」
「はあ」
「お医者様はね、お弁当が原因の食中毒じゃないかっていうんですよお。私はあ、そんなことないでしょうっていうんですけどお」
電話を受けてからもう五分は経っているのではないか。しかし、話の核心に近づきそうで躱される感じが拭えない。
──その時、これも研修で聞いたある可能性に、ようやく藤谷は思い至った。
事務室には店内外の四つの防犯カメラ映像がモニターされている。そのうちのひとつに、ATMの前で携帯を耳に当てながら操作している高齢女性の姿が映っていた。レジにいる店員は接客中だ。
「水元君!」
藤谷は受話器を手で押さえて、事務室の扉を開き、品出し中のアルバイトに叫んだ。
「ATMにいるおばあさん、話を聞いて、もし振り込みだったら、あ、引き出しでも金額が大きかったら、一旦止めて!」
特殊詐欺の可能性。銀行のATMは警戒が徹底されているため、コンビニのATMコーナーに誘導される場合が多い。コンビニにも手口は周知されているが、最小限の店員で回している分、隙は大きい。被害者がATMを操作するタイミングで店にクレーム電話を入れて店長を釘付けにすれば、成功率は高まる──。
指の隙間から藤谷の声が漏れ聞こえたのだろう、女が慌てた様子で叫んだ。
「今、水元っていいましたあ? その店員さんです、お弁当詰めてくれたの。詳しい話を聴きたいからすぐに電話に出して! スピーカーモードで店長さんも一緒に聴いててよ、責任者なんだから?」
先ほどまでと打って変わった早口。ほぼ間違いない、相手は今この店のATMで起きている出来事と関係している。そう直感した。
はい、はあ、と上の空で応答をしながら、藤谷はモニターに映るATMの様子を注視した。水元が女性に声を掛け、会話をしている。やがて彼は防犯カメラに向けて右手を挙げ、拳を開いたり閉じたりした。困難事案発生の符牒だ。
「お客様!」藤谷は大きな声で電話口に言った。「大変申し訳ありません、店内で緊急に対応しなければならない事態が起きたので、後ほどお掛け直しください。失礼します!」
電話の向こうで「待てごるあ!」という男の怒号が聴こえたが、藤谷は構わず電話を切った。
藤谷自身がその高齢女性──香守茂乃の話を確認し、詐欺と判断して八杉警察署に緊急通報したのは十四時五分のことだ。
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