(28)コウモリ君

 応接テーブルを挟んで、うえの向かいに押井は腰を下ろした。三人掛けの長ソファ、正面ではなく斜めにずれた位置。気後れしてのことだろう。背後に立った桐淵が「おい、真前まんまえに座れよ」と小声でしかし命令的にどやした。

「いいよいいよ、俺が動くからさ」

 そう言って上埜は少し腰を上げ、押井と相対する位置に座り直した。笑顔で押井の顔を正面から見る。押井は視線を逸らさないが、瞬きの回数が顕著に増えた。

「緊張してる?」

「え、まあ、はい」

 頬にチックが現れている。肩と胸が固まっていて呼吸が浅い。

「コウモリ君は」と上埜は押井を呼んだ。「紫峰大学の一年生だって? 優秀なんだ」

「……いえ、東大とかじゃないですし」

 学部にも依るが、文系なら東大が偏差値六十七、紫峰大は六十二。確かに東大クラスより一歩引くが、世間的には間違いなく一流校だ。謙遜か韜晦か、それとも自己肯定感の低さか。

 上埜──哲さんの「候補者」面接の核心は人間観察だ。如何に隠された欲望を見極め、解放するか。最近では滅多に観ることのできない哲さんのを見逃すまいと、桐淵は応接セットから少し離れたところで後ろ手に立ち、二人の様子に注意を払う。

「専攻は何?」

「哲学です」

「お、哲学! やったね」

 上埜はオーバーに両手を打ち鳴らした。その音の大きさに、押井の呼吸が一瞬止まる。哲さんは上体をぬっと押井に近づけて言った。

「俺さ、名前、哲学っていうの。森山哲学」古くからの上埜の偽名だ。「みんなには哲さんて呼ばれてる。よろしくな」

 右手を伸ばして、押井の左肩に近い上腕をポン、ポンと二回、強めに叩く。一回目は押井に軽い萎縮が、二回目は硬直が見られた。

「でもさ、哲学って、今時流行はやんないじゃん。就職にはむしろ不利に働くし。なんで哲学選んだのさ、コウモリ君は?」

 返事はすぐには帰ってこなかった。何かを言おうとして、ん、ん、と言葉にならない発語が幾度か続く。これも内面の葛藤を示すチックだ。

「ん……高校で、倫理が面白かったから」

「お、仲間仲間。俺も倫理は好きだったよ。滅多に出会えないんだよな、そういう奴に。コウモリ君とは気が合いそうだなあ」

 笑っているつもりなのだろう、押井の表情が歪んだ。

 哲さんは、事前にアンゴルモアとハシモトジュエルオフィスから上げられた報告書に目を通した時点で、一定の見当を付けていた。実際にここまで話をしてみて、半ば確信を持った。押井は中等度の発達障害、おそらくASDメインでADHDの傾向も混じっている。周囲から誤解されやすく、生きづらいタイプ。

 かつちゃんと、同じだ。

「あの」

 思い切ったように押井が口を開いた。尋ねられていないのに押井の方から何かを言おうとするのは、このマンションに来て初めてのことだった。

「……うん、なに?」

「コウモリ君って、誰のことですか」

「誰って、君だよ。今まで受け答えしてたじゃない」

「だって、私以外にいないから」

「君、コウモリ君でしょう、違うの?」

 上埜は手元の書類をあらためて見た。正確に言えば、見るふりをした。書類には押井の本名がふりがな付きの漢字で記載されている。だから正しい読み方は最初から分かっていた。押井の反応を観察するために、わざと違う読み方をしていたのだ。

「お香を守ると書いて、コウモリ」

「違います。それでカガミと読みます」

「へえ、そうなの?」

 上埜は柔らかな目で彼を見た。誤りを正す時の自信に満ちた様子は、融通の効かなさの表裏だ。

「名前はミツルでいいんでしょ?」

「ミチルです。私の名は、カガミ・ミチルです」

 後に深網社内で「頭は良いのに、いろいろ惜しい奴」というキャラクターから押井とかオッシィと呼ばれることになるこの青年の本名は、香守かがみみちる。家族にも内心の地獄を隠して生きてきた、みなもの二歳下の弟だった。

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