(27)走れロシナンテ

 エレベーターに乗り込み、B2のボタンを押す。ガラス張りのエレベーターはゆっくりと下降し始めた。

「はあ、失敗したなあ」

 二階堂がため息をつく。みなもは黙って彼女の横顔を見た。

「消費生活センターには、いろんな消費者からトラブルの相談が持ち込まれるの。それって、個人情報・法人情報の塊みたいなものなのね。当然部外秘、職員以外の人に触れさせてはいけない。分かっていた筈なのに、香守さんのおばあさんの問題に、小室君を連れて行こうとした。軽率だった。ごめんね」

 いいえ、と口の中で小さく応えて、みなもは首を振った。

 市町村プラザは地上六階・地下二階、地下は全て駐車場になっている。その一番奥に、消費生活センターの公用車が置かれていた。白い無骨なステーションワゴン、旧型の日産ウィングロードだ。

「これがうちの子、ロシナンテって呼んでる」

 運転席の二階堂が手を伸ばして助手席のロックを外すのを待って、みなもも乗り込んだ。

「ロシナンテ、ですか?」

「そ。ドン・キホーテが乗ってる年寄りの馬なんだって。原作読んだことないけどね。見てのとおりオートロックも付いてない年代物、もう十三年くらいじゃないかなあ。かなり草臥くたびれてるけど、財布の紐がきつくて、なかなか買い替えてくんないのよ」

 そう雑談のように言いながら、二階堂はメーターを確認して車内に備え付けられた記録簿に使用開始時点の走行距離を書き込んだ。何の用務で、どこからどこまで、誰が乗って、何キロ移動したか。公用車はこうした走行履歴を全て記録しなければならない。

「私、小学生の頃に子供向けの本は読みました。ロシナンテの名前は聞くまで思い出せなかったけど」

「あら、もしかして読書家?」

「本を読むのは嫌いじゃないです。大学のサークルも総合文芸研究会だし」

「サークルかあ、いいなあ。私は大学卒業して十年くらい経つから、若い人が羨ましいよ」

「二階堂さん、若いですよ」

「ふふ、ありがと」

 微笑む二階堂の横顔を、みなもは眩しく見つめた。

 二階堂は記録簿を後部座席に置き、みなもがシートベルトを締めたのを確認して、イグニッションキーを回した。

 きゅるるるるん。きゅるるるるるるるるん。

 エンジンがかからない。

「うそ、最近調子良かったのに」

 きゅるるるるるるるるるるるるん。ぶるるるん。ぷすん。

「ま・ぢ・かーっ。肝心な時に」

 二階堂は考えを巡らせた。ロシナンテは消費生活センター専用車だから使い勝手が良いのだが、これがダメなら別に数十台ある全庁共用車を使う手はある。ただ、今直ぐに空きがあるかどうかは運次第だし、パソコンから予約して駐車場まで走るとしても、二十分くらいロスしそうだ。いっそタクシーを使うか、しかしチケット申請に本庁六階の本課まで走らなければいけないから、同じくらいのロスがある。どうする、今すぐ判断しなければ……。

 考えながらイグニッションを幾度か回している二階堂の様子を見て、みなもはダッシュボードに両手を添え、頭を垂れた。

「お願い、ロシナンテ。おばあちゃんが大変なの。私をおばあちゃんのところに連れて行って。……お願い!」

 きゅる、ぶるん。ぶるるうん!

「うそ、かかった!」

 二階堂は思わずそう声に出してから、ふと真顔になり、右手の人差し指でハンドルをとんとんと叩いた。

「ふうん。ロシナンテ、あんた、若い子の方がいいんだ」

 ぶるっ、ぶるるるるる。

 まるで二階堂と会話をしているようにロシナンテのエンジンが震える。

「ふふ、うそうそ。八杉まで頑張ってね」

「ありがとう、ロシナンテ」とみなも。

 ぶるるるるるうん!

「じゃあ、行くよ」

「はいっ」

 二階堂はサイドブレーキを下ろしてシフトをDに入れ、アクセルを踏む。ロシナンテはタイヤを軋ませながら、駐車場のスロープを駆け上った。

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