(26)救難信号と出動許可

 その時、ぶぶぶ、とくぐもった音が鳴った。みなものバッグの中、スマホの鳴動だ。三人の目がバッグに向いたが、みなもは手を伸ばさない。

 野田がいう。

「僕の茶々で休憩みたいになっちゃったね。昼休み以外に休憩時間は決まってないから、適当に休んでね。電話も出ていいよ」

「はい、そうします」小室も野田の配慮に同調した。みなもは「じゃあ、ちょっと」とバッグを手に取り、席を立った。

 野田の示唆に従い、エレベーターホールの正面にある休憩コーナーで、スマホをバッグから取り出す。幸い周囲には誰もいない。

 発信者表示はやはり「おばあちゃん携帯」だ。履歴までは確認していないが、午後の五回の着信は全部おばあちゃんなのだろう。いつもはこんなにしつこく電話の掛かることはないのに、と思いながら、受信ボタンをフリックして耳に当てた。

「もしもし、みなもです」

 一瞬、無言の間を置いて、聞こえてきたのは男の声だった。

「香守みなもさんでしょうか?」

 え。

「……あの、どちら様でしょう」

 みなもは警戒して、相手の問いに答えず問いで返した。

「私、八杉警察署の織田と申します。香守茂乃さんの携帯をお借りして電話しています。香守みなもさんで間違いないですか?」

「はい、そうです」今度は早口で答える。まさか事故、と心臓が大きく鳴った。

「良かった、お父さんお母さんにも電話をするんですが繋がらなくて。今、八杉の甘田かんだ町のコンビニから掛けています。目の前に茂乃さんもいらっしゃいます。大金を振り込もうとしていて、どうやら詐欺に騙されてるようなんです。振り込まないように説得してるんですが、取り乱しておられて──」

 電話の向こうで、茂乃の声が聞こえた。五秒、言い争うような気配がした後、相手が茂乃に代わった。

「みなもちゃん?」

「あ、おばあちゃん? みなもだよ」

 みなもが言い終えるより前に、茂乃が早口でまくし立てる。

「私、大変なことしちゃったあ。警察に逮捕される前に預託金だいなんだい払わんといけんに、お店の人が邪魔すうだがん。警察の人が来て、すぐ払うけんって言うだに、なんだい分からんこといって邪魔すうだ。このまんまだと、おばあちゃん刑務所に入らんといけんやになあ。みなもちゃん、おばあちゃんを助けて!」

 涙声は、最後は悲痛な叫びになった。みなもがこれまで聞いたことのない、おばあちゃんの錯乱だった。



 澄舞県庁の組織体制は行政組織規則で定められている。本庁内部組織である生活環境総務課消費生活安全室と、地方機関の消費生活センターは、規則上は別組織だ。前者は消費者行政全体の企画・調整・運用を行い、後者は消費生活相談や消費者教育・啓発などを実施するものとして、役割が分かれている。

 このふたつの組織は、かつては職員も施設も独立していた。しかし行財政改革で全庁的に職員数を削減する流れの中、平成の半ば頃に一体化が図られ、現在に至る。野田彌は消費生活安全室長と消費生活センター所長を兼務し、部下も全員が室とセンターの兼務だ。

 澄舞県市町村プラザ五階にある施設も、室とセンターの共用だ。入口側の半分は、ふたつの相談室、みなもたちが使っている協議スペース、消費者向け啓発物の展示スペースがある。奥の半分は執務室だ。向かって左の半分は消費生活相談員の島で、県民からの電話相談や事業者との交渉などを行う。右の半分が行政職員の島だ。そのため機能的には、相談員島が消費生活センター、行政島が消費生活安全室と捉えてもあながち間違いではない。

 その一番奥に、野田の座る消費生活安全室長席がある。管理職として室内をほぼ見渡せる配置だ。

 だから、みなもが部屋に戻ってきた時、野田は真っ先に彼女の様子がおかしいことに気づいた。表情が固く、執務室との境から二階堂主任の背中を見ながら、何か言いたそうにしている。足元が揺らいで、逡巡が見て取れた。

 二階堂君、と野田が囁く。二階堂は顔を上げて、室長が小さく指差ししているのに気づくと、みなもの方向を振り向いた。

「あら、なあに?」

 二階堂がそういいながら近くに招く手振りをすると、みなもは足早に歩み寄った。

「あの、実はちょっと、今、警察の人から電話があって」

 警察、という言葉に行政島の職員が一斉に顔を上げた。

「私の祖母がコンビニで、あ、八杉なんですけど、なんかお金を引き出そうとしてて、警察の人は詐欺に騙されてるんじゃないかって」

 話ぶりは混乱していたが、要点は伝わった。

「あら、それ大変じゃない!」

「でも、本当かどうか。詐欺で警察を名乗る場合もあるんですよね。でも電話番号はおばあちゃんの、あ、祖母のだったし、声も祖母だったと思うんですけど、そう錯覚してるのかも」

「電話してきた警察の人間の名前は分かる?」

 混乱する様子のみなもに声を掛けたのは、二階堂の斜め前に座っていた年配の男だった。小柄で短髪、精悍なスポーツマンの印象だ。

「八杉警察署の、確かオダさんって」

「あー、おだっちか」と男が頷くと、二階堂の左隣にいた長身の男──二階堂よりは年上のようだ──が「織田ちゃんですね、八杉署三年目」と応えた。二人とアイコンタクトして、二階堂はみなもに向き直る。

「この二人は元々警察の人なの。八杉署に織田さんという警官は実際にいるみたい。状況、詳しく聞かせてくれる?」

 みなもは、昼間の茂乃の電話と先ほどの織田からの話を繋げて伝えた。老人ホームの入居権が当選したこと。困っている人にそれを譲ったこと。そして、それが法律違反だったとして供託金をすぐに払わないと逮捕されかねない──茂乃はそう信じ込んでいること。

 不穏な様子を察したのだろう、いつしか小室も近くに来て話を聞いていた。二階堂は、ひととおり話が終わると、真剣な表情でみなもを見上げた

「──それ、劇場型詐欺の典型ね」二階堂は机上のファイルを手に取って何かを探しながら話を継いだ。「劇場型詐欺っていうのは、複数人が役割分担をして、まるで演劇のように架空の話をして信じ込ませるもの。初期の頃は投資の勧誘などが多かったんだけど、振り込め詐欺の周知が進むと、最初からお金の話をしたらみんな警戒して騙されにくくなった。だから──あった、これ観て」

 二階堂はクリアファイルからA4判の紙を一枚取り出して、みなもに手渡した。

 左肩に見守り新鮮情報第215号と書かれたワンペーパーだ。老人ホーム入居権申込書を手にしたおばあさんが、電話の相手に脅されているイラスト。大きなフォントで短く簡潔に記された詐欺の手口は、まさに茂乃から聞かされた話に合致していた。

「困っている人のために名義を借りるだけといわれ、善意でオーケーする。お金の話は出ていないから詐欺だなんて疑わない。自分は良いことをしたと満足する。そこに突然、違法行為で逮捕されると脅されてパニックに陥り、一時的にお金を預ければ逮捕は免れる、お金は後日帰ってくると言われたらさ──お年寄りじゃなくても、心は簡単に誘導されちゃうよ」

 二階堂の言葉がみなもの耳に刺さる。おばあちゃんは、本当に詐欺に騙されているんだ。そう確信した途端、体が震え出した。

「どうしよう……あの、織田さんから家族が説得に来て欲しいって言われていて。でも父は出張中で、母も仕事の時は携帯を身に付けてないから連絡が取れなくて。私も夕方まで……」

「そういう事情なら、こっちはいいよ。おばあさんのところに行ってあげて」

「でも、私、車の運転できないんです」

 松映の県庁付近から八杉の中心部までは三十キロほどある。JRで移動するにしても県庁から松映駅まで二キロ、過疎県なのでバスも電車も本数は限られている。それに、八杉駅から現場のコンビニまでの距離もある。

 目を伏せて泣きそうな表情のみなもを見上げて、二階堂は彼女の震える手を両手で握った。

「そんな顔をしないで。お姉さんに任せなさい」

 優しい声でそう言ってから、二階堂は椅子から立ち上がり、室長席に歩み寄った。

「室長、状況はお聞きの通りです。どうでしょう、インターンシップの臨時プログラムとして、詐欺被害を防ぐコンビニ現場の見学に香守さんを公用車で連れて行く、というのは」

 はっとして、みなもは二階堂の背中を見た。野田室長は、真っ直ぐに二階堂の視線を受け止めた。無言の三秒間。

「分かった、行ってきなさい」

 力強い野田の声に、二階堂は笑顔で「はい!」と頷いた。

「小室君も連れて行っていいですよね」

「いや、それはダメだ」と、今度は瞬時に野田が反応した。「被害者は香守さんのおばあさん、私人だ。香守さんは身内だからいいけれど、小室君をデリケートな場面に立ち会わせるのは適切じゃあない」

 あ、と二階堂の表情が一瞬強張った。

「小室君のことは残っている者で対応するから、すぐに行きなさい」

「──はい。じゃあ、香守さん。行こう」

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