(24)エシカル論争

 二人それぞれに資料を見ながら、関心のあるテーマの候補を三つずつ出し合った。小室が挙げたのは「未成年者取消権」「詐欺被害防止」「消費生活センターの役割」、みなもは「エシカル消費」「健康食品」「悪質商法」だ。詐欺・悪質商法の被害防止が一致していた。

「じゃあ、特殊詐欺・悪質商法の啓発にする?」

 小室の問いにみなもは応えた。

「マンガやドラマの題材になるくらいだから、すごく面白いよね。ただ、ここにある過去の啓発パンフレットは、圧倒的に悪質商法関係が多いでしょう。なんか、それもつまらないなと思っちゃわない? 私的には、エシカル消費が捨て難い気もしてる」

 エシカル消費とは、「ethical=倫理的な」消費行動のこと。自分の行動が社会や世界に影響を与えていることを自覚し、自分の損得だけではなく広い視野で何を買うか選んだり、暮らしを見直したりすることをいう。例えば、生産労働者に正当な賃金を支払っている会社の製品を割高でも購入する、すぐに消費するのなら店頭で手前に並んでいる賞味期限の近いものから購入する、といったものだ。

「なんかさ、買い物って個人的なものだと思ってたけど、実は個人の行動が積み重なって社会の仕組みを誘導してるって視点が、面白いんだよね。逆に、世界を良いものにするために、個人の行動の方を変えていく。啓発のし甲斐があるなあ」

 みなもの言葉に、小室は数秒、沈黙して何かを考えていた。それからおもむろに「いいよ、じゃあそれにしようか」と口にした。

「え、いやいやいや、何か引っ掛かるところがあるなら、ちゃんと言ってよ? 小室くんが興味ない分野に決めるつもりはないから」

 自分が面白いと思うことを他の人に伝えたい気持ち、それが広報啓発担当者に一番大事なことだと、二階堂さんはいった。だったら、私だけが面白がってテーマを決めちゃいけない。

「興味がないわけじゃ、ないんだ。エシカル消費の目的そのものは大事なことだと思ってる。ただ──例えばさ」

 小室はエシカル消費のパンフレットを開いてみなもに示した。

「安いからといってファストファッションばかり買っていると、貧しい国の労働者の劣悪な労働環境は改善しない、だからファストファッションではなく、生産労働者に適正な賃金が払われているフェアトレード製品を買いましょう──という啓発が、どのくらいの人に響くのか、わかんないんだよ。少なくとも僕は、現時点で、あまり響いてない。安い方が有り難いから。誰だって安くて良いものが欲しい、ファストファッションに多くの人が向かうのは自然な消費行動だろ。それに対して『割高なものを買え』と言わんばかりの意識高い系の広報が、本当に効果があるのか。少しでも新鮮な牛乳を買いたいと無意識に思う人は、店頭に並んでる製品の奥から新しい牛乳を取って買う。それを倫理的じゃないと暗に否定するような広報が、どれだけ消費者の耳に届くのか、心を動かすのか。そういう疑問があるから」

 小室の口調は強かった。ゼミで議論を戦わせる時のそれだ。みなもは少しカチンときた。だから、口を滑らせてしまった。

「小室君から意識高い系批判が出るとは思わなかったなあ」

「──なんで?」

「小室君自身が意識の高い人だと思ってたから」

「なんで?」

 小室の素朴な詰めに、みなもは口籠る。言い過ぎた、と思った。客観的な広報効果を論じるべき場面で、発言者の主観を貶めるようなことを言ってしまった。論点を外した、ただの難癖。恥じる気持ちに反比例して、言葉が出てこない。

 その様子を見て、小室が言葉を継いだ。

「消費者の自然な感情に基づく行動が積み重なって労働搾取や食品ロスなどの問題が生まれている、というのはわかるんだ。でもそれを改善するのに、消費者側の意識を変えるというのは、手段として本当に有効なんだろうか。人の心を変えるのは、とても難しいよ。意識の高い啓発は、もともと意識の高い少数の人には響いても、多くの人には他人事に聞こえるんじゃないだろうか。行政がその権限を使って社会を改善するんなら、消費者側よりも生産者側を誘導または規制する仕組みを作った方が、遥かに効率的なんじゃないか。そう思うと──ごめん、エシカル消費の啓発に、僕自身は高い優先順位を付けられない」

 みなもが持っていない視点だった。「エシカル消費を少しでも広めれば社会はきっと良くなる」という、さっき知ったばかりのテーゼを素朴に「正しい」「善だ」と思っていた。それはつまり、このテーマを自分の中で少しも噛み砕いていなかった、ということを意味する。

 当たり前だと見過ごしているものを、考え抜いて、見慣れないものにする。入華教授が授業やゼミで繰り返し口にしていた、事柄の本質に迫るための文化人類学のアプローチだ。自分はそれが出来ていなかったと突きつけられたようで、だからこそ、自分の非を素直には認めたくなかった。

「じゃあなんでさっき、このテーマでいいって言ったの」

 みなもの小学生のような難詰。しかし小室は、真っ直ぐに応えた。

「だからだよ。自分が価値を見出せないテーマだから、そこに価値を見出している香守さんと一緒に作業することで、僕の見えてない世界が見えるんじゃないかと思ったんだ」

 完敗だった。上っ面じゃなく本当の意味で、彼は意識が高いんだ──みなもはそう受け止め、返す言葉を失った。

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