第4章 おばあちゃんの危機

(22)刈り込み開始

 香守かがみ茂乃しげのは、二つ折りにした座布団を枕にしてタオルケットを腹にかけ、居間の畳に横たわって浅い夢を見ていた。五十年近く昔、新築のこの家で夫と幼い一人息子の三人で過ごした日。その幸福な微睡まどろみを覚ましたのは電話の呼び出し音だ。

「……はいはい、今行きますよ、っと」

 茂乃はむくりと起き上がり、狭い廊下を通って玄関へ向かう。優に十回以上のコールの後、ようやく受話器を取った。

「はい、香守でございます」

「こちらはフクシザイセイカンシイインカイのオオマエダと申します」

 野太い男の声。ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に発音している。しかし寝惚けた頭には、その音から「福祉財政監視委員会」の意を汲み取ることができていない。どこかのなんとかさん、という程度の認識で「はあ」と曖昧に応えた。 

「香守茂乃さんはいらっしゃいますか」

「私です」

「松映シニアレジデンスの加入権のことで確認したいことがあってお電話しました。タカハシ・サダコさんに加入権を譲られたとお聞きしたのですが」

 その言葉に、茂乃の体が反応した。肺が広がって酸素を取り込み、血管が収縮して脳が覚醒する。それは喜びの情動反応だ。

「はい、そげですよ」

 震災で家族も住居も奪われた、私と同い年の高橋さん。彼女の傷を癒やすであろう自分の親切が、無意識の誇らしさを抱かせる。

「間違いありませんか?」

「はい、確かに私が高橋さんにあげましたわ」

「入居権番号を教えましたか?」

「ああ、なんだいなにやら番号を伝えましたがねえ。だあもんでも高橋さんに直接じゃあーませんでありませんよ五百島いおしま県庁だい市役所だいの氏にねえ」

「ちょっと番号を確認させていただきたいのですが、よろしいですか?」

「確認? 番号覚えちょらしませんが」

「お手元に松映シニアレジデンスの書類があれば、それに書いてあるんですが」

「はあ、ちょっと待ってごしないね」

 受話器を横に置こうとした茂乃の耳に「ピンク色の紙です!」と叫ぶようにいう男の声が届いた。はいはい。ピンクね。

 青い封筒は電話の横に置いてあった。午前中の電話で、五百島シリツ福祉不動産仲介センターのホシノを名乗る青年が「問い合わせの可能性があるから電話の側に置いておいてください」と言っていたからだ。その事実自体は、茂乃はもう覚えていない。しかしこの封筒に関係書類が入っていることは憶えていた。

「はい、ピンクの紙。どこに書いてあーかいね」

「右下にあります。今から数字を読み上げますので、合っているかどうか確認してください」

「はいはい、待っちょってよ……あーましたわ。どうぞ」

「3、8、3」

「はい、3、8、3」

「4、9、6」

「4、9、6。そげです、間違いあーません」

「そうですか」

 電話の向こうから、大きな溜め息が聞こえた。

「あなたは、なんということをしてくれたんですか!」

 そのひとつのフレーズの中で、声量が大きく変化し、最後は怒鳴るようだった。突然のことに茂乃は息を呑む。

「……はあ?」

「あのねえ、香守さん。この加入権はあなたに与えられたものです。他の人に譲ることなんて出来ないんですよ。加入権番号を他人に教えることは犯罪! あなたはこのままだと、刑務所に行くことになりますよ」

 すっ、と血の気が引いた。鼓動が早くなる。しかし呼吸は浅く、脳への酸素供給は冷静な判断をするのに足りていない。不安の情動だ。何を言っているのか細かいことは把握できない、しかし犯罪、刑務所という単語のインパクトは、叱りつけるような相手の口調とともに茂乃の胸に傷を刻んだ。

「あだん、なんかの間違いじゃあーませんか? 市役所の氏に頼まれたことだに」

「それは関係ありません。番号は香守さんしか知らない筈のものなんですよ。それを他人に漏らした時点で、有罪です。ともかく、状況は分かりました。この後うちから警察に届出をしますので、数日のうちに警官がそちらに行くと思います。その時は素直に応じてくださいね」

 がちゃり、と乱暴な音を立てて電話が切れた。

 なんだ。この状況は、なんだ。

 茂乃はその場にへたり込んだ。高橋さんへの親切のつもりでやったことが、とんでもない仇となった。どうすればいい? 考えがまとまらない。脳がぐるぐると焦燥感に満たされるばかりで、実のあることが思い浮かばない。

 電話が鳴った。またさっきの男かと思うと、咄嗟には手が伸びない。それでも無視して事態が良くなるわけではない。茂乃は受話器を取った。

「あ、香守茂乃さんですか?」

 先ほどの男とは違う、気弱な青年の声。「はい」と言葉少なに応える。

「あの、午前中にお電話した五百島シリツ福祉不動産仲介センターのホシノでございます」

「ああっ」

 茂乃の両目から涙が噴き出すように零れた。血管は拡張し、浅い呼吸を何度も繰り返して、酸素が脳に供給される。しかし、リラックスした状態とは対極の焦燥状態だ。

「ちょうど良かった! あのね、今ね、なんかよく分からん電話があって」

「フクシザイセイカンシイインカイのオオマエダさんですよね、実はうちにも電話があったんですよ。今回は、大変申し訳ないことをしました! うちの手違いで、事前に話を通しておく筈が通っていませんでした。香守さんは何も悪くありませんから、そこは安心してください」

 ホシノの言葉を聞いて、茂乃はほっとした。

 緊張と緩和。

 追い込んだ先に、逃げ道を作る。そうすれば自然と相手はそちらに向かう。

「そげかね、じゃあ警察に捕まるやなことはないね」

「ええ、大丈夫です。ただ、ひとつだけお願いしなければならないことが。実は、既に裁判所の手続が進められていて、香守さんには一時的に預託金を納めていただく必要があるんです」

「はあ?」

「すみません、これは裁判所の方でどうしても必要になることなんです。一時的にお金を預けていただけば、警察が動かずに済ませることができるんです。後でお金は全額お返しできますので」

「なんぼ必要かいね」

「フクシザイセイカンシイインカイに確認したのは、九十七万円です」

「あだん、そぎゃん大金……」

 日常生活で見ることのない金額だ。しかし、口座にはある。

「お預けいただけない場合、警察が来て逮捕されますよ」

「だあもん、こおこれはそちらの不手際だがね! 五百島市役所が立て替えてごさんといけんがね?」

 茂乃は半泣きに叫んだ。

「できることなら、そうしたいですよ!」

 茂乃の感情にかぶせるように、ホシノが叫ぶ。

「今回の事は間違いなくウチの責任です。だから、それで済むのであれば、いくらでもお金を出します。でもね、裁判所は、うちからお金を出しても認めてくれないんですよ。入居権者の香守茂乃さん、あなたから振り込む必要があるんです。本っ当にごめんなさい! この埋め合わせは五百島市役所が保証します」この時初めてホシノが市役所を名乗った。「ほんの数日でいいんです、裁判所が認定してくれれば、すぐに利子を付けてお返しできますから!」

 人間は、思うほど理性的な存在ではない。優位に立って相手の情動をコントロールした者が勝つ。

 そのような駆け引きの上に、特殊詐欺は成立していた。

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