(21)倉庫へ

 支社長室のドアを開けて、桐淵と押井が出てきた。

「コマ、ちょっと用事が出来たから、出掛けてくる。刈り込みは俺抜きで始めといて。サポートは誰がやんの?」

「あ、俺と松ちゃんが分担します」

と茶髪の社員が手を挙げた。

「よし、コマに点数稼がせてやってくれ」

 言いながら桐淵は小松崎コマの肩に手を置き、顔を寄せる。

「いいか、獲物を逃さないための駆け引きな。これ大事」

 桐淵の言葉に、小松崎は小さく「うぃす」と頷いた。

 小松崎は入社一月にも満たない新人だが、桐淵は目を掛けている。小学校高学年の頃からイジメ・カツアゲと、弱者を支配する経験を重ねていたらしい。そのため詐欺への抵抗が最初からほとんどなく、むしろやってみたいと以前から思っていたそうだ。それが桐淵には頼もしく映った。

 こういう奴でなければ、生き残れない。

 誰もが詐欺は犯罪だと知っている。この世界に入る経緯は人それぞれだが、最初は罪悪感を抱きながら恐る恐る手を染めるのが普通だ。しかし、やっているうちに慣れる。心が、だ。弱者に対する罪悪感などというものが幻想だったと気づいて、新しい自分に生まれ変わる。

 コマにはこのような過程が必要なかった。最初から振り切ることができた。

 だから、コマを「候補者」として哲さんに引き合わせようとした。推薦書はしっかり書いたつもりだったが、哲さんは興味を示さず面接に至らなかった。それでも、コマを自分の部下として育てたいという意見は受け入れてくれた。コマが社内で実績を上げれば、哲さんも認めてくれるだろう。コマを見出し育てた俺のことも。

「後はよろしくな。帰り時間は未定、そんなに長くないと思う」

 社員が口々に「お疲れ様です」と声を掛ける中、桐淵と押井はオフィスから出て行った。

 小松崎は、うーんと大きく伸びをした後、ふと思いついたように立ち上がり、窓のブラインドから外を覗く。

「じゃあ、目合わせするぞ」

 そう言ったのは先ほどの茶髪の社員、モンだ。入社三年目、グッドネス物産の中では桐淵と蘭に次ぐ先輩格に当たる。小松崎は慌てて机上の書類を手に取り、再び窓辺に戻った。

「シナリオBな。松ちゃんは福祉財政監視委員会の主任役。それだけでうまくコマに繋いで刈り取れそうなら俺はディレクターに徹するし、弁護士役とか第三役が必要なら俺が受け持つよ。──コマ、聞いてる?」

 ブラインドを指で開いていた小松崎は、振り返らずに「聞いてまっするー」と応えた。先輩を先輩とも思わぬこの態度がコマという人間だ。荒い気性の先輩ならとうに殴りつけているだろうが、モンはそういうタイプではない。

 深網社は詐欺グループではあるが、暴力で統率する半グレ組織とは異質な空気があった。それは哲さんの指向によるものだ。もっとも社員たちは、桐淵の上役の存在は察していても哲さんの名前や考えを知る者はほぼいない。

「何やってんの」とモン。

「いや、たまにはブッさんを観察してやろうと思って。でも、遅いな。なかなか出て来ない」

 小松崎は周囲の道路に目を走らせる。マンションの正面玄関なら真下、エントランスが建物から前に突き出しているので道路は死角にはならない。裏口から出たとしても結局は視線の届く道路を通る必要がある。もともと摘発に備えて選択した部屋だ。

「トイレでも寄ってんでしょ。さ、集中。最後はお前が話を詰めるんだからな、よくシナリオ頭に入れとけ。軽くシミュレーションしてから、本番だ」

「……しょうがない、ブッさん観察はまたにしますかね」とボヤいて、小松崎は自席に戻り、事務椅子を軋ませた。



 仮にそのまま窓の下を観察していても、小松崎は桐淵たちを見つけることはできなかったろう。なぜなら二人はマンションを出ていないからだ。

 桐淵は押井を連れて、エレベーターで三階から一階に降りた。ドアが開く。外を一瞥して誰もいないことを確認すると、そのまま閉ボタンを押した。押井は少し戸惑いながら、後ろから桐淵の挙動を眺めていた。

 内ポケットからパスケースを取り出し、センサーに当てる。七階の表示がともり、エレベーターがするすると上昇を始めた。

「これから、人に会う。面接では訊かれたことだけ答えろ。余計なことは言わなくていい」

「あ……はい」

 このマンションは八階建てだ。四階まではオフィスフロアでエレベーターも自由に止まる。五階以上は居住フロアで、カードキーがなければ上がることができない。居住フロアへ向けて移動している間は、途中のオフィスフロアで誰かがボタンを押しても素通りするように設定されていた。それだけ居住フロアのセキュリティが強固ということだ。

 一度一階まで降りたのは「支社長ルール」による。これから行く七階の一室、深網社幹部間で「倉庫」と呼ばれる部屋のことを、ブッさん以外のグッドネス物産社員は知らない。オフィスのある三階から直接七階に移動すると、三階エレベーターホールの表示を見た者に行き先を怪しまれる。それを避けるための手順だ。実際にどれだけ意味があるのかは怪しいものだが、候補者来訪時の路上観察と同じで、桐淵は先任者からの引継事項として遵守していた。

 七階に到着し、二人はエレベーターを降りた。オフィスフロアの固い床とは異なり、毛足の短い暗い灰色のカーペットタイルが敷き詰められたホールは、ガラスドアで隔離されている。再びカードキーを脇のセンサーにタッチすると、ドアが開いた。その先が居住フロアだ。

 桐淵は廊下を左手に進み、突き当たりの部屋のドアロックを同じカードキーで解除した。ドアを手前に開き、中に入る。押井も続いた。扉が閉まると、オートロックが掛かった。

 玄関を入った正面は目隠しの壁になっていて、その前に一人の男が立っていた。大柄、短髪。濃紺のスーツを通して強靭な骨格と筋肉が見えるようだ。哲さんのボディガードでマサトシという。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 桐淵はマサトシと互いに目礼し、そのまま壁を回り込んで奥に進む。廊下とは異なる明るいベージュのカーペットタイルが続いていて、土足のまま入るホテルのような仕様だ。外国人向けの想定なのだろうか。

 奥の部屋に一歩入ったところで立ち止まり、桐淵は深く頭を下げた。

「おはようございます」

「うん、おはよ」

 乾いた男の声が帰ってきた。それが許しの合図であるかのように桐淵が再び歩き出し、続いて足を踏み入れた押井は、部屋を満たしているまばゆい光に目を細めた。

 二十畳ほどの真四角な洋室。角部屋なので窓が二方向にあり、一方のカーテンは開け放たれ、もう一方も白のレースカーテンが外光を通していた。窓の側に応接テーブルがひとつと、四方に茶色の革張りのソファ。グッドネス物産のそれよりも金額が一桁上のクラスだ。その他に家具は見当たらない。普段は人のいない、階下へのガサ入れを察知した時に金や物品を緊急退避させるための「倉庫」だからだ。

 窓の光を背にして、一人の男がソファにゆったりと座っている。押井の姿を見ると、手にした本にしおりを挟んでテーブルに置き、立ち上がった。それほど背は高くない。縦ストライプのダークグレースーツが細身の体によく似合っている。前髪をラフに固めた短髪は、切長の目と相まって精悍な印象だ。

「やあ、いらっしゃい。会いたかったよ」

 そういって男はテーブル越しに右手を差し出した。押井は少しの間、ぼうっ、とその手を眺めていた。桐淵に「おい」と小声で促され、慌てて数歩前に出て男の手を握る。

 冷たさを予想していた。それに反して、男の手は暖かかった。

 本名、うえすぐる──深網社グループを束ねる通称「哲さん」。今後この男が、内心の地獄を彷徨っていた押井に、ひとつの道を示すことになる。モラルを逸した犯罪の世界ではあったが、哲さんの言葉は確かに自分を自死の淵から救ってくれたのだ──一年足らず後、検事の取り調べに対して、押井はそう述懐した。

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