(18)どたばたハニートラップ

 龍神たつがみの忍ばせた罠が別班により発動したのは、押井がアンゴルモアから逃げるように帰ってきた二日後のことだ。

 キャンパスに向かうため、茗荷谷のアパートから春日通りに出たところで、前から来た若い女性に呼び止められた。

「あのー、この住所を探してるんですけど、ご存知ですか」

 目が大きく小柄で少女のようだが、スーツ姿を見ると社会人かもしれない。彼女の差し出したメモには、小石川の所番地とマンション名が書いてある。

「知らないですけど、たぶん、あっちですね」

と、押井は東の方角を指差した。

「こんなこと突然お願いして申し訳ないんですけど、案内してもらえませんか? 私、この辺りは初めてなので」

「スマホでナビすればいいと思います」

 塩対応のようだが、押井に悪意はなく、これが彼の標準だ。しかし、女性の側もそれで引く様子はなかった。

「あの……恥ずかしいんですけど、私、地図の読めない女なんです。スマホの充電も切れそうだし。どうか助けると思って」

 女性は両手で押井の右手を握り、真っ直ぐに押井を見つめる大きな瞳が少し潤んでいる。何か事情があるのだろうかという推測と、可愛らしい女性ひとだなという男心、他人に触れられていることの緊張と、それが異性であることの気恥ずかしさが、押井の一瞬の心の内に押し寄せた。

 授業まで、あまり間がない。

「途中までなら」

「ありがとうございます!」

 女性は顔を綻ばせた。誰かに喜んでもらえると、押井も嬉しくなる。彼の鋭敏な心は、他人の心の有様に簡単に左右される。

 押井は自分のスマホでマンションを検索したが、ヒットしない。番地も同一のものは見当たらないが、播磨坂の下の辺りと見当をつけた。ひとまず真っ直ぐ坂上を目指そうと考えて、歩き出した。

 道すがら、女性は饒舌だった。名前はサトミレイコということ。北海道の出身であること。就職のため上京して半年で心細いこと。あなたは? 素敵ですね。わあ、すごい。今度私にも教えてくださいよ。彼女いるんですか?

 押井はいつもの調子で朴訥とした反応を返した。子供の頃から他人とリズムが噛み合わず、家族やごく一部の親友を除いて会話のキャッチボールが苦手だ。しかしサトミレイコは、まるで沈黙を恐れるかのように押井の言葉を全部拾って反応する。変な人だな、と押井は思った。

 小石川五丁目交差点で押井は左方向を差し、サトミレイコに告げた。

「この坂の下辺りだと思うので、そこで誰かに尋いてみてください」

 サトミレイコは、何かを言いかけて、口ごもった。押井はその様子を意に介さず「じゃあぼくはこれで」と元来た方向に五歩歩いたところで、背後に「きゃあっ」という棒読みの悲鳴を聴いた。振り向くと、サトミレイコが屈んで足首に手を当てていた。

「……大丈夫ですか?」

 その場から動かず声だけ掛けた押井に、サトミレイコは捲し立てた。

「大丈夫じゃないです! 捻挫したみたい、困ったなあ、これじゃあ客先に行けないや。会社で休みたいので、タクシー拾ってください。それから、心細いので、一緒に来てください!」

 かけらもリアリティの感じられない、強引な台詞回し。

 サトミレイコ──もちろん偽名だし路上で語っていた素性も嘘八百だったのだが──は、この時のことを後に押井にこう語っている。

「自分でも、大根だとわかっちゃいてんで? 役者志望やのに、客引きひとつうまくできひん。初めて引っかかった、ちゃうわ、ついて来てくれたんが、オッシィやってん。店まで連れてきたら歩合ゲット、うまいこと契約させたったら割り増しになるからここが踏ん張りどころや、て思た。つまり、逃すわけにいかへんカモやな。はは、ごめん、ごめんて。あの時は、まさかオッシィとこうなるなんて、思いもせなんだな」

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