(17)圧迫面接

 支社長室のドアがノックされた。どうぞ、と声を掛ける。ドアが向こう側に開いて、蘭が顔を覗かせた。

「お客さまがお見えです」

「通して」

 蘭が引っ込み、代わりに押井が部屋の中に入ってきた。

「やあ、いらっしゃい。そちらへどうぞ」

 桐淵が促すと、押井ははっきりした声で「はい」と応え、合成皮革のソファに腰を下ろした。一見して爽やかな好青年の趣だ。

 ふうん。報告では挙動不審な小心者のイメージだったけどな。

 桐淵は書類を机上に置いてコンテッサから立ち上がり、応接セットへ向かいながら、押井から目を離さずに観察を続ける。

 細身で身長は一七〇センチ台前半か。髪の毛はさらさらで、服装を含め全体に清潔感がある。少し目に昏いものを湛えてはいるが、それが逆に異性には魅力的に映りそうだ。

 どかりとソファに体重を預けた。半ば無意識のオーバーアクション。押井の表情に、さっ、と小さく陰が差すのを、桐淵は見逃さなかった。

 やはりそうか。いじめられっ子はいじめっ子に逆らえない、それは本能のようなものだ。いざという時にマウントするのはチョロい、そう確認できれば今は十分。先ずは柔らかい当たりでいいだろう。

「で、持ってきた?」

 桐淵の明るい声音に、押井は固まったまま答えない。四秒、五秒、六秒。桐淵は焦れて先を促す言葉を発した。

「ここに持ってくるように言われたもの、あるでしょ」

「……通帳ですか?」

「あれえ、通帳だけだっけ?」

 少し声量を大きくして問うと、押井の表情に軽く怯えが浮かぶ。

「えと……通帳と、キャッシュカードですか? あ、あと、ハンコ」

「そうだよ、そう。わかってるじゃない」

 押井はボディバッグから封筒を取り出し、中身を出してテーブルに置いた。異なる銀行の通帳三通、キャッシュカード三枚、印鑑が三本。桐淵は通帳を手に取って確認した。どれも当初入金一万円の一行のみ記帳された新品だ。名義人は押井の本名。キャッシュカードには通帳と同じ口座番号と名義人がエンボス印字されている。

「確かに。で、これ、どうする? 持って帰る?」

 押井は口の中で小さく「えっ」と呟き、意味を掴みかねているように桐淵の顔を見た。

「お前が決めていいよ」

「あの、橋本さんからここに持って行けと言われたんですけど」

 桐淵はにこにこと笑顔を湛えたまま黙っている。

「えと、借金を返す代わりに……」

「借金の話は、俺は知らないよ」とかぶせ気味にいう。「それは橋本とお前の問題だ。俺は、この通帳とカードと印鑑を、お前の自由意思でどうするのかを聞いてんの」

「持って帰ってもいいんですか」

「いいよ、俺は。橋本とのことは知らないよ」

 桐淵は、決して通帳を渡せとは言わない。あくまで相手が自らの意思で通帳を渡すのを待つ。

 一方で、押井は宝石商の橋本から、ネックレスの代金を払えないのであればその代わりにと今回の指示を受け、ここに出向いていた。持って帰ったら五十万の借金がそのまま残る。

 この人は素直に受け取ってくれなさそうな気配だ。話が違うじゃないか。どうすればいい。胸が苦しい。頭の中がグルグルする。息がうまく吸えない。呼吸ってどうするんだっけ。苦しい。

 押井の顔が歪むのを、桐淵はただ見ていた。

 二重拘束ダブルバインド。強者から複数の矛盾する指令を受けて弱者が混乱し疲弊する状況。文化人類学者グレゴリー・ベイトソンが提唱した概念だが、さして学のない桐淵がそんなことを知る筈もない。ただ、相手をこうした状況に追い込むことで自分が圧倒的に優位に立てると、経験的に知っているだけだ。

 追い込んだ先に、逃げ道を作る。そうすれば自然と相手はそちらに向かう。

「難しく考える必要はないよ。お前がこれを俺にくれるというなら、ありがとうといって受け取るよ。持って帰るというなら、それも止めない。どっち?」

 初めて通帳を渡す道筋が示された。押井はほっと表情を緩め、口を開いた。

「あげます」

 言い方に幼稚なものを感じたが、桐淵はそこはスルーした。

「わかった、お前の意思で俺にくれるというなら、受け取るよ。ありがとうな。橋本には受け取ったと言っとくから」

 よし、ハマった。

 桐淵は一式を手元に引き寄せ、あらためて押井の顔をみた。気の進まないことをやり終えて、一刻も早くこの場を立ち去りたいという顔だ。けれども、今この瞬間にもう引き返せないところまで来てしまったのだと、こいつは気付いてない。

 所詮は、無知で気弱なカモだ。「候補者」の器じゃあない。

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