(15)押井と呼ばれる男

 クソだ。世の中、クソだ。

 一人の青年が、胸のうちで黒い呪詛を繰り返しながら、峰原通りの坂を徒歩で登ってゆく。東京、大崎。秋の午後の青空は高く広い。爽やかな空気の中、青年の表情だけが暗く沈んでいた。

 今は彼を押井と呼ぼう。本名ではない、後にじんもうしや内でそう呼ばれることになる名前だ。

 押井は世の中を呪っていた。生きることは、苦しい。楽しいことだってないわけじゃない、けれどもそれを上回る苦痛が、彼の人生には満ちていた。生まれて来なければ良かった、と今は本気で思っている。

 幼児期は幸福だった。嫌な出来事があってもその瞬間だけ泣いて、すぐに忘れて笑うことができた。忘れることが難しくなったのは少年期からだ。陰湿ないじめは精神に傷を刻み込む。思春期には更にひどい状況になった。昼の理不尽な出来事が夜の寝床で幾度も脳裏に蘇り、その度に乾きかけた傷口が開いていく。

 環境を変えれば人生を打開できるのではないか。そう期待して上京したが、彼のような人間に対する周囲の無理解と嘲笑は変わることがなかった。むしろ孤立無援の独り暮らしでは精神の回復する余裕もなく、傷口から血と膿が湧き、腐臭を放つ。この数ヶ月の間に、暗く澱んだものが急速に押井の心を蝕んでいた。

 クソだ。世の中、クソだ。

 彼が今この坂を不本意に登っているのも、クソみたいな状況だ。

 負うつもりのなかった借金。返せるアテもなく、指示に従うしかなかった。指定の銀行で新たに口座を作る。後日キャッシュカードが届いたら、通帳と一緒に指定の場所に届けること。今はその途上だ。

 坂道を登りながら、人生の坂道を転げ落ちているように感じる。

 自動販売機の前で歩みを止め、周囲を見回す。坂下の山手通りのビル街とは違った、人通りの少ない住宅街だ。いくつかマンションがある。この場所から電話をするよう指示されていた。

 スリーコールで相手が出た。


「それでは今から道筋をお知らせしますね。すぐ近くですから」

 桐淵ブツさんが、受話器を耳に当てて他所行きの声で話しながら、ブラインドの隙間を指で押し開いて路上を見下ろしていた。薄青色の上着を着た青年──押井が自販機の前にいる。通話の相手が近くのマンションから見下ろしているなどとは気付く筈もない。

 押井に指示を出して、通話を続けたまま路地へ歩かせた。そのままぐるりと辺りを一周させることになる。

「尾行、いますか?」

 小松崎コマが席に腰を据えたまま、なんだか嬉しそうに尋ねた。彼自身、一月ほど前には同じように観察されていたのだ。

「いねえよ。それが普通だ」

 ここに「候補者」を初めて呼び出す際の儀式のようなものだ。ブッさんが支社長になってからこれまで四回、尾行者を確認できたことは一度もない。それでも前任者から引き継いだ「決まり事」であり、やらねばならない。

 そもそも、支社に外から「候補者」を呼ぶなんて、リスク大きすぎねえか? 哲さんにとって、俺はまだ使い捨て扱いなのか? その疑問は今も燻っている。

「はい、目的地到着です。ごめんね、尾行をまく必要があって、遠回りさせました。今から五分そのまま待って、マンションの三階まで上がってきてください。部屋にグッドネス物産の看板掛けてますんで、そこです」

 そう指示をして、電話を切った。

「蘭さん、七分後に客が来るから、応接に通して。薄青い上着の若い奴。茶はいらない」

 蘭と呼ばれた女性社員が、はあい、と気だるく答えた。

 桐淵は応接室兼支社長室に入り、扉を閉めようとしたところで、振り返った。

「コマ、こっちは二十分かからないと思うから、終わるまで刈り込みは待っててな」

「うぃす」

 支社長室の備品は本室のそれより少しグレードが高い程度の事務用で、エグゼクティブな感じはない。応接セットも簡素なものだ。金はいくらでもあるが、所詮は捜査の手が伸びれば即座に放棄する部屋だ。それでも自分用の椅子だけは座り心地の良いコンテッサを調達した。

 その椅子に腰を下ろし、机上の書類を手に取る。これから来る青年に関する報告書だ。彼が何故、今日ここに来ることになったのか。その顛末がまとめられていた。

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