第3章 青年と詐欺師たち

(12)魚信(アタリ)

 澄舞県の東端、八杉市。香守かがみ茂乃しげの宅の電話が鳴ったのは、同じ火曜日の午前十になる少し前だった。

 茂乃は居間でテレビを見ていたので、電話のある玄関まで移動しなければならない。若い頃のような機敏な動作はできなくなった。短い距離のことだが、積み上げた段ボール箱のせいで廊下が狭く、横歩きでなければ通れない。呼び出し音が切れるのではないか、と心配になったところで、ようやく受話器を手に取った。

「はい、香守でございます」

「あ、香守様のお宅で間違いなかったでしょうか」

 若い、気の弱そうな男の声だ。聞き覚えはない。頭の中でアラームが鳴る。高齢者を狙うオレオレ詐欺には気をつけなければ、私はまだ若いけどね、と八十歳の茂乃は気を引き締めた。

「はい、そげですが」声に自然と警戒の色が籠もる。

「わたくし、五百島いおしま市にある五百島シリツ福祉不動産仲介センターのホシノ、と申します」

「はあ、不動産屋さん?」

「いえ、五百島シリツ福祉不動産仲介センターです」

 五百島市立の。へえ、そんなところが……いや、あぶないあぶない。市役所を名乗って払い過ぎの保険料を返してくれるという詐欺があるというじゃないか。大体どうして県外の五百島市役所から電話が掛かってくる道理があるのか。怪しいぞ。私は用心深いんだ。

どげなどのようなご用件ですかいねえ、うちには不動産はあーしませんありませんが」

 家も土地も若い頃に夫と頑張って建てたもので、今は茂乃名義だ。本当のことを言う義理はない。不動産はないといえば相手は諦めて電話を切るだろうと思っての嘘だ。

 しかし相手からは予想外の反応が返ってきた。

「いえ、違うんです。こちらはコウテキキカンでして、セールスではありません。先日お電話差し上げた件ですが……」

「はあ?」

 茂乃が声を上げると、相手は慌てて言葉を繋いだ。

「いえ、大丈夫ですよ。最初からご説明しますね。実は、今度松映まつばえ市で開設される老人ホームの入居案内パンフレットが届いている方を探していて、香守様のお宅に届いていないかと思って、お電話を差し上げたものです」

 老人ホーム。何の話だろう、心当たりがない。

「さてなあ、うちには届いちょらんがねえ」

「え」一秒余りの絶句。「松映シニアレジデンスという老人ホームなんですが。青い大きな封筒で」

「届いちょりません。私ねえ、今年で八十になあますが、お陰様で元気でピンピンしちょって。信心のお陰だわと思っちょおます。だけん、老人ホームには用がああませんわ」

「そうでしたか、お元気でなによりですねえ」

 相手は優しい声でそういった。胸がほっこり暖かくなる。青年の声を聞くと少し孫のみちるを思い出す。線の細い子だ。それだけに可愛かった。

「だんだんねえ、お仕事ご苦労様」

「いえ。実はですね、どうしてもその老人ホームに入りたいという高齢者の方がいらっしゃるんですよ。タカハシ・サダコ様、偶然ですが、香守様と同じ八十歳だそうです」

「あら、そげですか」

「ここだけの話にしていただきたいんですが、東日本大震災に被災されて、福島から五百島に避難された方なんです」

「まあ」あれは大変な災害だった。西日本の澄舞では揺れを感じることはなかったけれど、毎日テレビに釘付けになって津波や原発事故の様子を観ていた。

「タカハシ様がですね、幼い頃に澄舞の松映で暮らしておられたらしいんですよ。震災で、たった一人の息子さんとその奥様、まだ学生だったお孫さんも含めてご家族を全員亡くされ、今は天涯孤独の身の上になってしまって。本当にお辛い経験をされました。そのタカハシ様が、せめて人生の終わりに故郷の松映に戻りたいと、涙ながらに訴えておられるんです。でも、今回の老人ホームの案内は、香守様がお住まいの地域の中でもごく限られた方にだけ送られていて、届いた人しか入居申し込みができません。なんとかしてタカハシ様の願いを叶えたいと、私共がパンフレットの届いた方を探して電話を掛けているわけです」

 ホシノと名乗る男の話は、声の抑揚、言葉の緩急、情熱と冷静を織り交ぜた、心を惹き付けるものだった。その話を聴きながら、茂乃は自然と涙を零していた。一人息子のあきらたち家族を喪うことなぞ考えられない悲劇だ。

「あだん、そおは可哀想なことですねえ。願いが叶あといいですねえ」

 声が掠れて震え、嗚咽に変わった。

「泣いてくださっているのですか。香守様がお優しい心の方で、本当に良かった」

「いや、そぎゃんことないですわね。だあもんでも、うちには届いちょらんでねえ。お役に立てんで申し訳ないことです」

「本当に届いてないんですね? 青い大型封筒なんですが」

 相手の念押しに、茂乃は「はい」と即答した。そんなものが届いた記憶は全くない。

「もしかするとこれから届くかも知れません。その時は、もし差し支えなければ、私までご連絡をいただけるとありがたいのですが」

「それくらいお安い御用ですわね」

 茂乃は電話番号をメモに書き取った。相手は丁寧にお礼を述べて、通話を切った。

 世の中にはなんとも可哀想な人がいるものだ。高橋貞子さん、定子かも知れない。名前しか知らないけれど、同い年なら私と同じ時代を生きてきたわけだ。年老いてから震災で家族全員を亡くすだなんて、本当に可哀想。

 自分は恵まれている。夫には早くに先立たれたが、一人暮らしでなんの不自由もない。少し離れた比嘉今ひがいまには一粒種の長男一家がいる。一緒に暮らすのはお互いに気詰まりだ、この距離が丁度いい。自分は恵まれている。老人ホームなんて用はない。可哀想な橋本さんの助けになるのなら、老人ホームのパンフレットが届いたら入居権を譲ってあげよう。

 ──パンフレット?

 茂乃はふと何かを思い出した気がしたけれど、何を思い出したのかをすぐに忘れる。なんだろう。なんだっけ。「なんだったかいなあ」と自然と声が漏れる。床を睨んで、うーん、と考える目の端で、電話台の横の古紙ストッカーに青色が見えた。封筒のようだ。

 もしかして。

 封筒を手に取り、中身を引き出す。数枚の書類とパンフレットが一冊、その表紙にはマンションのように立派な施設のイメージ図と「松映シニアレジデンス」の文字があった。

「あだん、こおだないかこれじゃないか

 茂乃は五秒間パンフレットを見つめた。そして不意に思い出した。これは昨日(もしかすると一昨日かその前)届いたものだ。朗が自分を老人ホームに押し込めようとしているのではないかと疑い、電話で質したら、、違うということだった。歩ちゃんやみなもちゃんとも話をしたっけ。

 どうして自分はそれを忘れていたのだろう、という疑問は思い浮かばない。それよりも遥かに強い感情──これで可哀想な高橋さんを助けることができる、優しい声の五百島市の担当さんも喜んでくれる、そんな「善意が満たされる喜び」が茂乃の脳を支配していた。

 メモを確認して、先ほど聞いた電話番号をプッシュした。二回のコールの後、相手が出た。

「はい、五百島シリツ福祉不動産仲介センターでございます」

 先ほどの青年とは違う、中年女性の声だ。

「あの、さっきお電話いただいた香守ですが、さっきの人はおられませんかいね?」

「名前がわかりますでしょうか」

「名前ねえ、どげだったかいなあ」といいながら、電話番号を書いたメモの横に「ほしの」の文字を見つけた。先ほど電話番号と一緒にあらためて名前を言われ、茂乃が書き取ったものだ。そのこと自体を彼女はもう覚えていない。

「ほしのさん、ておなあかね? 若い男の人」

「ホシノでございますね。あいにく少し席を外しておりまして、折り返しお電話させていただければと思います」

 清潔感のある丁寧な受け答えだ。さすが五百島市役所だけのことはある。茂乃は問われるままに名前と電話番号を告げて、受話器を置いた。

 再度電話が掛かってきたのはわずか二分後だった。電話の前で待機していた茂乃は、ワンコールで電話に出た。

「ホシノでございます。香守様、お電話を頂戴したそうで、席を外しており失礼しました」

 ああ、さっきの青年の声だ。

「なんと、さっき言っちょられたパンフレット、届いちょおましたわ」

「え、ほんとですか?」青年の声が華やいだ。茂乃は嬉しくなる。

「最近物忘れすうやにするようになってねえ、年寄りだけん、許してね」

「そんな。こうしてわざわざ電話を掛けてくださるなんて……うぐっ……ありがとうございます、感動して泣きそうです」

 言葉に続いて鼻を啜る音が聞こえてきた。ああ、こんなに喜んでくれている。電話をして良かった。私は人の役に立てた。

「そおで、パンフレットはどげすうどうするの? 郵便で送ればいいかいね」

「いえ、その必要はありません。送られた封筒の中に、パンフレットと一緒にピンク色の紙が入っていると思いますので、確認していただけますか」

 封筒を覗くと、確かにピンク色の紙が一枚目立っていた。取り出して目を凝らす。標題に「松映シニアレジデンス入居申込書」とある。

「その紙の一番右下にですね、入居権番号として六桁の数字が印刷してあると思います。その番号を読み上げてください」

「はいはい、ちょっと待っちょってよ」茂乃は焦点の合いにくいメガネを外し、申込書に目を近づけた。

「えーと……3、8、3、4、9、6」

「383496ですね」

「そげです」

「この入居権番号をタカハシ様にお譲りいただくことはできますか?」

 茂乃の脳内で微かにアラームが鳴った。

「……譲るって、売るって意味かいね?」

「いえ、当センターはコウテキキカンですので、お金のやり取りは禁じられているんですよ。善意により無料で、ということになります」

 お金が絡まないのであれば、詐欺の心配はない。アラームはすぐ鳴り止んだ。

「タカハシ様は本当にお困りになっていて、香守様の善意にお縋りするしかありません。どうか購入権番号をお譲りいただけないでしょうか」

「いいですよ。お役に立てえなら、どうぞ番号を使ってごしないくださいね」

「有難うございます、本当に有難うございます! これでタカハシ様も救われます。香守様が思いやりのある方で、本当に良かった」

 五百島シリツ福祉不動産仲介センターのホシノ。そう名乗る青年は、茂乃への感謝と賛辞を繰り返して、丁寧に電話を終えた。茂乃の胸に大きな満足感を残して。


        *


 受話器を置いた青年は、「おし、魚信アタリ来たーっ!」と拳を握って囁く声量で叫んだ。周囲では他の社員たちが電話中だから、嬉しくても大声は出せない。

 背後で様子を窺っていた小太りの男が、上体を屈めて青年の肩に手を置いた。この現場を統括する桐淵きりぶちえい、支社長であり社内では「ブッさん」と呼ばれている。

「ノリノリだったじゃないか。コマも演技が細かくなってきたよな」

 コマと呼ばれた青年──小松崎仁志ひとし──はにやりと笑って

「あざます。まあ、こういうのは場数ですね」

「なーにを偉そうに。まだ始めて半月だろが。でもまあ、筋はいいやね」

「うす、光栄す」

 東京都品川区。大崎広小路駅にほど近い丘陵部にあるマンションの三階に、先ほどの電話の発信元があった。住居用物件ではなく、三十畳ほどのオフィス仕様ワンスペース。奥の八畳ほどがパーティションで仕切られ、支社長室兼応接室となっている。

 主室中央には事務机が六台。今そこに、桐淵以外に五人の男と一人の女が腰掛け、うち三人が電話中だ。男は桐淵を含めて全員がスーツ姿、女も事務服で、見た目は普通の商社の様子と何も変わらない。出入り口からすぐの位置に受付カウンタが設けられており、女が一番近くに座る形だ。

 香守茂乃に伝えたホシノの電話番号は、ここには繋がらない。あれは別に契約しているレンタルオフィス業者の管理番号だ。業者は電話を受けると必ず「担当者は席を空けているので折り返します」と伝えて電話を切り、受電情報を専用の電子掲示板に書き込むことになっていた。クライアントはそれを見て、相手に電話を掛け直す訳だ。警察や行政機関が電話番号からこちらを探索しようとしてもすぐには辿り着けない、時間稼ぎの仕組みだ。この業界には、こうした便利な仕組みがたくさん用意されている。リスクに見合う莫大な利潤の上がる仕事なので、関連産業も成り立つということだ。

「で、行けそうか?」

 しゃがんで見上げる桐淵のささやきに、小松崎は思案顔で小さく答える。

「行けますね。ただ、結構ボケが入ってる感じです。一昨日の電話を覚えてなかったし、送った封筒も最初は思い出せなくて、ひやひやしました」

「そうか。今の会話を忘れられたら、またイチからになってしまうな。早目に刈り込み掛けるか。午後に行こうぜ、役割調整しとけ」

「っす」

 今の電話はあくまで釣り糸の魚信アタリを巧妙に誘導したところまでだ。糸をがんがん巻き上げて金を騙し取るのは、次の段階ということになる。ここで逃さないように、丁寧に丁寧に釣り針を食い込ませなければ。

 桐淵は立ち上がり、時計を見た。十時二十五分。午後には来客予定があるから、午前中のうちに帳簿整理を済ませておきたい。

 来客。久しぶりの査定だ。様子を見定めて、モノになりそうなら哲さんに引き合わせることにする。モノにならなければ、カモとして使い捨てるだけだ。

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