(8)消費生活センターへ
澄舞県庁本庁舎は昭和三十四年の建築だという。ロの字の六階建て庁舎から南側へ、二階建ての平たい建物が接続している。
「これは澄舞県議会」
庁舎前を歩きながら、河上補佐が二人に説明をする。「あっちは教育委員会で、正面の道路向こうにあるのが警察本部。その両側も県の庁舎で、県土整備部や行政委員会なんかが入ってます」
本当にここはお役所街なんだなと、みなもは物珍しく周囲を見回した。これまで役場とはほとんど縁がなかった。生まれてこの方実家住まい、未成年の間は進学等に際しての住民票などを取るのも全て親任せだったし、半同棲を始めてからも住民票は動かしていないのだから。
一方小室は落ち着いた様子で河上に尋ねる。
「こんなに庁舎が分散していては、部局間の意思疎通が不便ではないですか?」
「おー、するどいね。そう、不便なんですよ。とても。でもねえ、仕方がない。庁舎の建築当時は手頃な大きさだったんでしょう、きっと。でも、その後の社会の変化とともに行政の役割はどんどん拡大して、それに伴い人も増えていった。今ではとても本庁舎だけでは入りきれないんですよ。ひとつにまとめれば便利なんですが、建て替える財力は、今の澄舞県にはありませんし」
河上補佐はハイトーンで滔々と語る。みなもも会話に参加しなきゃと短い質問を発した。
「だから消費生活安全室も別の建物にあるんですか?」
「あー、それはまた別の要因もあってねえ。消費室は本庁の一部であると同時に、地方機関の消費生活センターでもあるから。詳しい事は、向こうで教えてくれると思いますよ」
押しボタン式信号を渡り、澄舞県警前を左に折れる。本庁舎玄関からここまでおよそ百メートル、更に百メートルほど歩いて、目指すビルに辿り着いた。
「ここが澄舞県市町村プラザです。本庁舎に比べて、新しいでしょう? 市町村総合事務組合の建物で、その一部を県が間借りしてるんですよ」
みなもは黒いガラス張りのそのビルを見上げた。今日から三日間、ここで過ごすんだ。よし、がんばろー、と思いを新たにしているうちに、河上補佐と小室はさっさと中に入っていった。みなもは慌ててその後を追った。
野田
「よおこそ! ささ、みんなに紹介しよう」
彼が深く響く声を発すると、ふたつの島に分かれた室員たちがわらわらと立ち上がる。電話対応中の一人だけ座ったままだ。
先ほどの生活環境総務課──消費生活安全室との関係では「本課」と呼ぶらしい──の古びた執務室とは異なり、広々と明るいオフィスにいるのは、室長以下十七名の室員だ。中央の腰高書架が実質的に部屋を左右に分け、それぞれに複数の事務机がひとつの島を形成している。そこには一見してみなもが気付いた特徴があった。部屋奥の室長席から観て右手側の島は、窓際の一人を除いて全員が女性だった。
先ほどと同じように小室とみなもが自己紹介を行い、室内が大きな拍手で満ちた。
野田はみなもたちに向き合い、見下ろす形になる。表情は優しく、巨躯の威圧感をうまく相殺していた。
「消費者行政は、県庁の中でも特に県民のくらしに密着した部門です。その一方で、普通の人があまり知る機会のない社会の裏舞台を間近に見聞きする、刺激的な仕事でもあります。インターンシップでみなさんに観てもらえるのはその一部分だけれど、役所はこんな大事な仕事をしているんだと感じてもらえれば、有難いと思っています」
野田の大きな瞳に見つめられて、みなもと小室は小さく頷いた。
「三日間のみなさんの指導担当は彼女にお願いしているので、あとは彼女の指示に従ってください。じゃあ二階堂君」
「はい」
鈴を鳴らすような声とともに一歩前に出たのは、昨夜のニュースで啖呵を切っていた女性主任だ。テレビ映えのする美形と思っていたが、直接間近で会うと整った容姿が更に際立って感じられた。みなもはこの部屋に入った最初に彼女の姿を見つけ、(あのカッコいいお姉さんがいた!)とドキドキしていた。だから、彼女が指導担当と聴いて、胸が小さく震えた。
「二階堂麻美といいます。じゃあ、最初にいろいろ説明するので、あちらの協議テーブルに来てくれるかな」
二階堂主任が先導して歩き出し、二人は後をついていく。それを見た室員たちは、最初と同じように銘々自席に腰を下ろした。
河上課長補佐が野田室長に近づき、幾分潜めた声でいった。
「昨日の件で、ご相談が。十分ほどお時間をいただけますか?」
河上補佐も長身だがそれでも野田より十数センチ低く、何より細身だ。自然と目線は野田室長の巨躯を見上げる形になる。野田は、自分より小さく、歳若く、役職も下だが確実にエリートコースを歩んでいる河上の真剣な表情に、いつもの屈託ない笑顔を返した。
「いいよ。じゃあ、相談室が空いてるからそこで」
公的機関が運営する澄舞県市町村プラザは、テナントも役所または関連団体で占められている。消費生活安全室のある5階は、全て澄舞県庁の部署だ。エレベーターを降りて左手一帯は事務集中センター、右手奥は職員厚生課。どちらも澄舞県庁の内部管理部門に当たる。
右手すぐの消費生活安全室は、逆に対外用務の多い部署だ。澄舞県消費生活センターを兼ねていて、日頃から一般県民が相談に出入りする。消費者被害などデリケートな相談内容が多いこと、消費者教育展示など一定の広さが必要なことから、本庁舎ではなくこのビルにあるわけだ。広いオフィススペースのうち職員執務室は奥に押し込められたような形で、手前半分には来客用テーブルや消費者啓発資料を並べる書架、映像を流すディスプレイなどが置かれている。右には消費生活相談に応じるための小部屋が二室。左には物品倉庫と、協議テーブルが入口すぐ左手の狭いスペースに設えられていた。パーティションで仕切られているため、そこにいる者が出入り口を通る人の目に触れることはない。
協議テーブルの壁側に小室とみなもは誘導され、二階堂は反対に座った。二人の前には、あらかじめ資料が用意されている。テーブル端には、左の壁面をスクリーンに見立てるようにプロジェクターが置かれていたが、今は灯が落ちている。
「じゃあ、あらためてよろしく。最初に三日間の予定を説明……しようと思ったんだけどね」
二階堂はいたずらっぽく微笑んで二人を観た。
「二人は顔を合わせるのは今日が初めて?」
みなもたちが頷くのを見て、二階堂は顔を輝かせた。
「じゃあさ、三人とも今日が初対面なわけだ。緊張してるでしょ。まずは肩の力を抜くのに、ゲームやろっか。十分でできる悪質商法ババ抜き」
彼女は机上のカードケースを開けた。鮮やかな手つきで机上にさっと並べられたカードを見ると、それはトランプではなく、イラストと文字で構成されたオリジナルカードだった。
「カードには二種類あって、一方には悪質商法の手口、もう片方はそれに消費者の予防または対抗手段が載ってる。それぞれにトランプと同じクラブ・スペード・ダイヤ・ハートのどれかのマークがついていて、どのマークも五色ある。四×五=二十種類の悪質商法と、それに対応する予防・対抗策、あわせて四十枚のカードがあるわけ。ババ抜きと同じようにこれをみんなに配って、手札の中に色・マークとも同じ組み合わせがあれば、捨てることができる。ここまではいいかな?」
なるほど、本当にババ抜きと同じような感覚だ。悪質商法と対応策の繋がりが分からなくても、色とマークが共に同じなら捨てる判断ができる。二階堂が札を分かりやすく示して説明するので、混乱することはなかった。
「このゲームの特色はふたつ。ひとつは、場に捨てる時に必ずその悪質商法の手口と組み合わせについて、他の人たちに説明すること。これは、うまく説明できなくてもゲームの勝敗には関係ないから。消費者を護る仕組みについて学ぶきっかけをつくるのが、このゲームの目的なのね。でももうひとつは、勝敗の鍵を握ってる。このカードを見て」
二階堂は一枚のカードを掲げた。甲冑を着た武士が抜き身の日本刀を右肩上にまっすぐ立てている。袈裟に振り下ろす寸前の、八相の構えだ。絵柄は少女マンガ風の可愛らしいタッチだが、デッサンが確かで構図に迫力がある。他のカードにあるマークはなく、文字も「クーリング・オフ」と書かれているのみだ。
「これは四十一枚目、トランプのジョーカーに当たる最強のカード。クーリング・オフについては後で説明するけれど、マークと色の同じ対策カードが手元になくても、クーリング・オフを使える悪質商法に対してはセットで捨てることができる。その瞬間、本来セットだった対抗策の札がジョーカーに変わって、ゲームが終わるまで固定される。だから、場の流れを支配できる札なんだよね。ただし、クーリング・オフが使えない悪質商法もある。間違えてそれとセットで場に出したら、一発アウト。二人は、クーリング・オフについて、聞いたことある?」
あるようなないような……みなもが記憶を手探りしている間に、小室が応えた。
「特定商取引法の私法規定に当たるところですよね」
「お、さすが法学専攻」
二階堂が軽く手で拍手の真似をした。小室は照れた様子で
「民法の特例法として、消費者契約法と一緒に教わったことがあります。でもうろ覚えなので自信はないです」
話について行けるだけの知識のないみなもは、気持ちをそのまま口にした。
「悔しいけど私、法律は全然分かりません!」
「うんうん、素直に言えるのも良いことだよ。文化人類学専攻だっけ? 私、逆に、文化人類学って聴いたことない。また休憩時間とかに教えてね」
くうっ、優しいっ、美人っ、男前っ、笑顔も素敵っ。
みなもが脳内でありったけの賛辞を送っている横で、小室も少しく自負を満たして緩んだ表情をしていた。ゲームを始める前に、既に二人の緊張はほぐれかけていた。それが二階堂の、天然の人柄に年齢なりの「対人技術」を交えたマジックだということに、若い二人は気づいていない。仮に気付いたとしても、あらがう気持ちは起きなかったろう。
二階堂は優しい声で二人に告げた。
「香守さんがクーリング・オフを知らないので、今回はこれは使わずにメインカード四十枚だけでやってみようか。じゃあ、配るよ」
ユーモラスなカードの効果もあり、笑って喋って大いに盛り上がった。札を見て誰かに説明する、他の人の説明を聞く。コミュニケーションゲームの効果で、三人はかなり打ち解けていた。
「場が温まったところで、本題に入ろうか。まず三日間の予定について説明するね。手元の資料の二ページをめくってみて」
二人がインターンシップ資料を開くのを確認して、二階堂は説明を始めた。初日は、消費者行政に関する座学と、最終日に製作する消費者啓発素材のネタ探しに充てる。これはみなもが希望する「広報」に関するものだ。二日目は、いくつかの行政処分事例を題材に、悪質商法や誇大広告に対する法規制の実際を検討する。これが小室の希望する「法令」に関するもの。三日目は再び広報に戻り、午前中は放送局でラジオ番組の収録に立ち合う。そして午後、啓発素材を実際に製作して終了となる。
「毎月二回、ラジオの五分番組を放送してるんだ。収録日がインターンシップ期間にちょうど重なったから、社会見学にどうかと思ってね」
放送局はFMスマイレイディオ、澄舞テレビと同一資本で同じ建物にスタジオを構えていると、二階堂は付け加えた。
「そういえば二階堂さん、昨日「夕方すまいル」に出てましたよね?」
みなもは話の流れで、ずっと言おうと思っていたことをさらりと口にした。
一・五秒、沈黙。おや、お姉さんの顔が固まった?
「あー、あはは、あれねー……観ちゃってた?」
こころなしか声もうわずっている。
「観ましたよお、カッコ良かったあ!」
「僕も観ました。澄舞の情報がまとまった「夕方すまいル」は帰省してる時は必ずチェックしてますから。良くも悪くも冷静な説明が多い行政機関のメディア対応としては、異色の演出でしたね」
小室の言葉に、みなもは今日幾度目かの(こいつ、すげえ)を感じた。その微かな気持ちの揺れは、同じくらい微かな劣等感を伴っていた。
二階堂は二人の反応にぎこちなく頷いた。
「うん、だよねえ、普通はもっと冷静に説明するよねえ……うんうん……だよねえ」
声が次第に小さくなっていく。ゆっくりと上体が前に倒れ、ついにはテーブルに突っ伏した。そのまま両手で頭を抱え、もにょもにょと身悶える。
「実はあれはねえ、放送しないはずのテイクだったんだ」
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