第2章 澄舞県庁インターンシップ

(7)はじまりのセレモニー

 松映駅からバスに乗る。朝の澄舞県庁前バス停は、多くの人が降車する。いつもなら、みなもはぼんやりその様子を眺め、そのまま澄舞大学前まで移動するところだ。今日は初めて県庁前でバスを降りた。

 道路から広い前庭を挟んだ向こう、コンクリート打ち放しの六階建てビルが、澄舞県庁本庁舎だ。上下に軽く押しつぶしたサイコロのような安定感のある外形は、今時のそれとは異なる、昭和の建築デザインだ。明るい灰白色のコンクリートと黒い窓枠が整然とした升目を描き、風格というべき佇まいが感じられた。

 すぐ右手には庁舎と同じくらいの高さの山があり、麓には石垣が聳えている。その上、木々の緑の更に上には、漆黒の松映城天守閣が空の青に映えていた。本庁舎が建つ場所は松映城三ノ丸跡地で、幕末まで藩政の中心施設が置かれていたという。つまりここは、江戸時代から連綿と続く行政拠点ということになる。

 バス停から人の流れに沿って歩くと、みなもは自然と本庁舎玄関にたどり着いた。秀一の通勤時間と重なる筈だが、それぞれ執務室へと急ぐ大勢の職員たちの中に彼の姿を見つけることはできず、みなもはほんの少し気を落としてエレベーターに乗り込んだ。

 生活環境部のある六階で降りる。すぐ正面の柱に執務室の配置図が掲げられていた。それを眺めて初めてみなもは、この建物が四角い箱ではなく、中央が天まで吹き抜けたロの字型の回廊式であることに気づいた。エレベーター正面の広々とした窓は中庭に面し、朝日が眩く差し込んでいる。目指す生活環境総務課は右手、回廊の南側に面しているらしかった。

 腕時計に目をやる。八時十分、澄舞県庁の始業時間まで二十分ある。始業の少し前に来ればいい、とは聞いていたけれど、早すぎるだろうか。

 みなもはしばし逡巡し、脳内で入室手順をシミュレートすることにした。まずは部屋の入り口で全体に挨拶だ。明るく元気よく、はきはきと。みんな挨拶を返してくれるだろう。それから、部屋にいる一番偉い人を見つけて、あらためてご挨拶。あとは、以前電話をくれたカワカミ課長補佐を頼って、その場の流れにうまいこと乗っかって……。

 チーン、とエレベーターが鳴った。肩越しに振り向くと、開いたドアから若い男性が一人降りてくる。濃い紺色のスーツ、撫で付けた髪、黒縁の眼鏡。如何にもスクウェアな公務員という雰囲気を醸し出していた。

 なるほど、これが厳しい公務員試験をくぐり抜けた県職員というものか。まだ青年といった年頃で、秀一より少し先輩くらいだろうか。大学生のリラックスした雰囲気のままスーツを身につけた秀一とは、まとう空気がまるで違うように感じる。

 青年は、柱の配置図に目もくれることなく回廊を南へ歩いていく。もしかすると生活環境総務課の職員なのか。みなもは彼の後から少し離れて、おそるおそるついていった。

 狭い廊下に面した執務室のドアは開け放しになっていた。青年は、つかつかと執務室の中に入る。三秒ほど間をおいて、張りのある高い声が聞こえた。

「おはようございます! 今日からインターンシップでお世話になる小室隆朗です?」

 学生かよっ! 同じインターンシップ生かよっ?

 他大学の男子と一緒になるとは課長補佐から聴いていた。しかし自分と同じように挙動不審な若者を想像していたから、彼がそうとは気付かなかった。

 廊下の中途で立ち止まったみなもの耳に、部屋の中から小室に挨拶を返す数名の声が聞こえた。脳内シミュレートの手順を先に言われてしまった形で、一瞬、頭が白くなる。

 ええい、ままよ……って昔の小説で読んだ台詞は、こういう時に使うんだよな。

 みなもはノープランで足早に執務室入り口から一歩入り、小室に負けない声を張り上げた。

「私もです! インターンシップでお世話になる香守みなもです?  よろしくおにぇが……お願いします?」

 六十度に頭を下げながら脳内は(噛んだ噛んだ噛んだ~)とぐるぐる。あはは、と皆が一斉に笑って、口々に「おはようございます」と明るい声が返ってきた。顔を上げると、既に出勤していた職員数人の柔らかな視線がみなもに集まっていた。小室の表情にも堪え切れぬ笑みがあった。

 ……よし、つかみはO.K.、結果オーライ。私はやる時はやる女。

 一瞬でポジティブマインドが復活し、みなもも笑ってもう一度軽く頭を下げた。

 部屋の奥、窓際に座っていた細面の中年男性が席から立ち上がり、みなもと小室に近づいてきた。

「先日お電話した河上です。ふたりとも、今日はよろしくお願いします。ここで少しセレモニーしてから、消費生活安全室に案内します。ごめんなさい、ちょっと今バタバタしてるんで、八時半から始めますね。それまでここで座っててください、ごめんなさいね」

 彼は早口にそういうと、ふたたび席に戻った。えらく腰の低い人だな。河上直課長補佐、一週間ほど前にみなもに電話連絡をくれた人だ。今の様子から、小室にも同様の電話があったのだろう。

 部屋の奥にある簡素な白いテーブル、そのパイプ椅子にふたりは並んで腰を下ろした。すぐ目の前、中央の窓を背にした事務机には小柄な女性が座って電話をしている。一瞬、彼女はふたりそれぞれと視線を合わせて軽く会釈をし、再び目を逸らして電話の相手と話を続けた。机上の木製の三角名札には「課長 小峠美和子」とある。彼女がこの課のトップであるようだ。

 初対面の小室と雑談を始める雰囲気でもなく、みなもは所在なく部屋の中を見渡した。建物の外見と同様に、内装は古びた印象を受ける。机や椅子、書類棚などは、澄舞大学の事務室と同じようなありふれた事務用のそれだ。

 部屋の入口すぐのところには、八人分の机がまとまってひとつの島を形成している。上には「総務予算グループ」の木札。窓からの外光を背に室内を見渡せる単席が三つ。中央が小峠課長で、テーブルに近い左手の河上課長補佐は額に手を当てて何事かを考えている。右手は今はまだ空席だった。

 部屋には出入口の他に、左右にひとつづつ、扉があった。どちらも開いているが、部長室の札がある部屋の照明は消えていて暗い。もう一方の次長室には人の気配があった。

「そういうことならなおさら、広報課として約束違反のペナルティを課すべきでしょう」

 ふいに電話に向けた小峠課長の小さな声の中から、広報課という言葉が鮮明に聞こえた。秀一のいる課だ。みなもは顔を違う方向に向けたまま、なんとなく耳をそばだてた。何事かトラブルの気配が漂っている。始業時間前なのに、もう仕事は始まっているようだった。

「消費室長の意見はこの後確認させる。うん……いやそれは。あちらと県の信頼関係の問題だから、ケジメはきちんとしないと」

 河上補佐が、ちらり、と小峠課長の方を見るのが、気配でわかった。どうやら河上も小峠の電話の内容を気にしているらしかった。


 八時半、始業のチャイムが鳴り響いた。古めかしいメロディには、なんとなく聞き覚えがあった。

「また後で電話します。はい、では」

 小峠課長は途中で話を打ち切る雰囲気で受話器を置いた。立ち上がると、みなもたちに近づいてくる。二人は慌ててその場で立ち上がった。

「小室さんと香守さんですね? 生活環境総務課長の小峠です、よろしくね。──それじゃあ、みなさん注目!」

 小峠課長が声を上げると、室内の全員がさっと立ち上がったので、みなもは少し気圧された。執務室の中にいるのは全部で十四人ほどだ。年齢層は三十~五十代と幅広く見える。

 次長室からも一人の男が出て来た。五十代半ば、細身の坊主頭。前には出ず、他の課員の後ろからニコニコとこちらを観ていた。

「今日から三日間、インターンシップとして生活環境総務課で一緒に働いてくれるお二人です。じゃあ、あらためて簡単に自己紹介を。せっかくだから大学での専攻も教えてください」

 小峠課長に促され、側にいたみなもから自然と口を開いた。

「澄舞大学三年の、香守みなもです。文化人類学を専攻しています。よろしくお願いします!」

 みなもが頭を下げ、部屋が大きな拍手で満たされた。顔を上げると、誰もがいい笑顔の歓迎ムードだ。少し肩の力が抜けた。次は小室の番だ。

「五百島大学三年、小室隆朗です。専攻は法学、民法です。どうぞよろしくお願いします!」

 大学名を聴いて、みなもは内心(おおっ)と思った。略称いお大。旧帝大でこそないが、澄舞近県では一番の国立大学だ。学部によるが入試偏差値は澄舞大学より五ほど上をマークする。

 澄舞の高校生で、一定の学力と家庭資本を持つ者は、関西や関東の大学に進学することが多い。しかし、子供は優秀だけれど遠方に行かせたくないと考える家庭にとって、大きな山地を越えることにはなるが高速なら三時間かからずに行けるいお大は魅力的な選択肢だ。みなもの同級生も何人かいお大に進学している。

「香守さんは広報系の仕事に関心があるということです。ね?」

 課長の言葉にみなもは頷いた。

「小室さんは法令に関わる部署が希望でした。なので、インターンシップとして生活環境部にお迎えするお二人には、広報も法執行もある消費生活安全室で行政の現場を経験してもらいます。消費室はこの建物ではなくて、ほらあそこ、黒っぽい建物の五階にあります」

 そういって課長は窓の外、斜め左を指差した。県庁敷地内のクリーム色の四階建て分庁舎を挟んだ先、百五十メートルほど向こうに黒いガラス張りのビルが頭を覗かせている。

「この後、河上さんが案内してくれます。それじゃあ、三日間、頑張ってね。以上! 後はなおちゃん、よろしく」

 なおちゃんと呼ばれたのは河上補佐だ。大人になっても職場でちゃん付けで呼ぶことがあるのか、とみなもは好意的な驚きを覚えた。

 職員たちは自席に腰を下ろし、小峠課長も席に戻った。

「じゃあ、一緒に行きましょう」

 河上補佐に促され、二人はバッグを持って出入り口に向かった。

「あ、なおちゃん、ちょっと」

 小峠課長が微妙にトーンを落とした声をあげ、河上補佐は課長のもとに歩み寄った。みなもは廊下に出てから振り返り、その様子を眺めていた。二言、三言、課長が何事かを話す。河上は小さく頷いた。二人とも、先程までの明るい笑顔とは異なる、真剣な表情だった。

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